【ショートショート】満ち満ちる
男は、何も感じていなかった。ただ土を掘る感触、シャベルの音、それだけが彼の現実を繋ぎとめていた。
記憶はほとんどなく、何をしているのかも分からない。ただ、掘らなければならないという衝動に突き動かされていた。
周囲は深い森だ。空気は冷たく、湿り気を帯びている。遠くで鳥が鳴いているが、それすらも遠い出来事のように感じた。
ここには自分しかおらず、自分以外は何も関係がない。掘ること、それだけが彼の世界のすべてだった。
「私は、ほんとうに掘ることができているのか」
ふと、そう思った。だが、その問いはすぐに消えていった。問いかけること自体が無意味に思えたからだ。答えなんて、どうでもいい。ただ掘り続けること。それが今の私にとって唯一の現実だ。
シャベルの動きが鈍くなる。血で柄が滑り、感覚も無くなってきていた。それでも手を止めることはできない。掘る。掘る。掘る。どこまで掘ればいいのかも分からない。ただ、掘り続ける。
それは深く、暗くなってきた。本来、表に出るはずのなかった濃い土の匂いが鼻腔に満ちる。その匂いが、何かを思い出させた。記憶の断片が浮かび上がり、それがすぐに霧散する。現実感が薄れていく。
「私は、ここに存在しているのか?」
その問いもまた、無意味に思えた。存在しているかどうかなんて、もはやどうでもいいことだった。彼が感じているのは、ただの空虚感、不在の感覚。それが彼の存在そのものを埋め尽くしていた。
その空間はもともと、そこに在った空間なのだ。私が掘ってきた空間などどこにもない。ただの外側でしかない。
やがて、男はシャベルを静かに置いた。底に立ち、目を閉じる。何も感じない。何も聞こえない。底で、ただ立ち尽くす。存在と不在、その境界が曖昧になり、その曖昧さの中に溶け込んでいく。
自分はもう存在していない。ここには何もない。ゆえに、全てが満ちている。
薄暗い森の中、男の痕跡は消え、静寂が戻った。