焦燥感にひりつく夜、焦がれるのは穏やかでおバカな日常である

 早速個人的な話になってしまうけれど、六年離れて暮らしていた長男と長女の帰宅により、三月末から我が家は地獄の動物園と化しました。(笑)
 正直、喜びより不安の方が大きかったのだ、それでも、かつて彼等と体外で初めて対面した時、毎回一人ひとりに誓っていた、『君の人生をしあわせで満たせるよう努力するからね』という言葉を、自分さえしあわせにさせない私なんかが、それでも言わずには、抱かずにいられなかったあの誓いを、捨てる訳にはいかなかったから。各方面へご無理を承知で急ピッチで進めてもらえた帰宅や転校の話。知らないニンゲンとの話し合いに何度も怯えながら(多分誰にもそれはバレていないのだ。私の外面の良さは母譲りだから。)、どうにかこうにか話を聞き、メモを取り、聞かれたことに答え、頭の中も体力もすっからかんになるまで奔走し(文字通りあっちこっちに出向いた)て、どうにか「その日」を迎えた。そこがスタートであることは勿論覚悟していた上で、安堵の溜め息が漏れた。
 守るものが増えた。それは元々承知の上だ。
 今度こそ、と。今度こそ、誰も泣かせずに暮らすんだ。

 結局、最初にマジ泣きをしたのは、私だった。

 赤ん坊のように甘えていたかと思うと、少しの指摘だけで心を閉ざしたとしか思えないような拒絶反応を見せる小学生がふたり。遠慮の気持ちと本来の甘えたがりな性格が語彙でカバーできるほどの余力はない年長児、そして言葉の発達に遅れの見られている魔の三歳児。終始、誰かが誰かと喧嘩し、誰かが助けを求め、誰かが甘えにきている。私の少ない心の容量ではあっという間に限界を迎えましたとも。更にはコロナ関連でのお知らせや変更の多いこと多いこと。
 こっちは決まってた予定さえ覚えらんないぽんこつ脳味噌抱えていきてんのやぞ。あれこれ変更多かったらそのうちオーバーヒートするわ。というかもうしとるわ。なんならオーバーヒートなうだわよ。

 ……だいぶ疲れているみたいだ。ぽんこつをわざわざ晒さなくともええと思うんですけどね? まぁあれですね、愚痴です。ただの。自分が如何に腹立たしい生き物であるかという。

 限界を突破した私、自由奔放だが扱いの難しさに定評のある四児、そしてそこにコロナ休業で自宅待機となった夫くんが参戦し、状況はカオスへと向かっていくのでした……
 そうですね、夫くんは「主婦業」「ママ業」の苦しみを存分に味わったのではないだろうか。味わっても忘れちゃうのが彼のチャーム ポイントでもあるのだけど。
 子供ってこんなに思い通りにならない生き物だ、という絶望とか衝撃ってさぁ、本気で向き合った人にしか多分伝わらないと思うけど、それを結婚11年目でやっと共有できた感じ。こればっかりは本当に諦めていた部分が大きかったので、伝わっただけでも万々歳でしたね。
 子供と過ごす時間が増えれば増えるだけ、自分の中にむくむくと膨らんでいく、あの嫌な『なんで自分は親に大切にされていないのに』という感情も理解してもらえたのもでかかったですね。あの頃が本当に辛かった、というのを、数年越しだろうがきちんと受け止めてもらえたことは確実にプラスの出来事でしょう。

 その中で、やっぱり、というか、ですよねぇ、というか、我が家の四児にはそれぞれの発達の傾向があるだろう、という確信。三番目の次女は先に私の病院で心理検査を受けていたので、結果も聞きに行きましたが、やはり就学後に問題が浮上しそうです。今からできることは取り組んでみたいですね。あとは言葉の発達に遅れのある末っ子の三女さんですが、兄姉達の影響なのか会話などはかなり増えてきました。基本の意思疎通は問題ないかとは思いますが、こだわりの強さや癇癪の起こしやすさが、幼稚園の生活で困りそう。
 一応市内に小児用の発達の医院があるそうなので、早めに連絡取ってみたいですね。子供の頃から対策できてたらきっと多少は生きやすくなるだろうから。自分を肯定する方法、とかね。自己肯定方面では何一つお手本を示せないし(苦笑)

 子供の笑顔を見て、癒されて、でも心の内はふと真顔に戻っていて、母や父や弟妹を、思う。
 あのひとたちは、私の何がそんなにきらいなのか。とか。あの母に聞かされた酷い話をそのまま信じて私はどうしようもないクズな姉として認知されていつんだろうなぁ。とか。
 ……だからといって、別に何もしないけど。

 毎日、子供と向き合っていると、嫌でも思わされてしまう。私はさぞかし阿呆で扱いにくい子供だっただろう。それが第一子なのだから、余計にプレッシャーなどもあっただろうし、そうなると、存在からもう既に……みたいな。
 ……かわいそうな、おかあさん。わたしなんかうんでしまって。そんな私に育てられるこの子達は、もしかしなくとも可哀想なのかもしれない。というか、かつて母は電話越しにそう言っていたし、そうなんだろう。
 でも不思議なことに、私がこっ酷く叱った後でも、大泣きした後でも、全力で私への愛を叫ぶ。全力で笑いかけてくれる。全力で私に自らのことをアピールしてくる。それが、嬉しくもあり、そして、とてもこわい。私はこの子達のこんなに澄んだ瞳で見つめられていいようなにんげんではないのに、と、胸の真ん中辺りが、きゅっ、と縮むのだ。彼等の優しさや、愛情、思い遣り、それらが空回りしたとしても、それをいとおしく感じる自分の心情に振り回されてばかりだ。だけど、それももう、嫌な感じはしていない。私は随分、この子達のことを愛してしまっているようだ。

 その為にも、いとおしい人間を守る為にも、私はもっと進まないといけない気がする。このままではダメだ、変わらないと、報いないと、と、ただただ焦燥感に苛まれて、そしてまた何も終わらない一日を無碍に過ごしてしまったりするのだ。
 変わる方向性もまだよく分からないうちは、兎に角目の前にある「やらなきゃいけないこと」をこなしていくしかないのだろう。それを阻止しようとする魔の手は可愛らしくて、私はもう全面降伏を提示する構えだけれど、たまにはそこに混ざって、本気で遊んでやろうかしら、なんて思えたりする。だからきっと、まだ大丈夫。明日の私もやらなきゃいけないことはあるけれど、ちょっとだけだったら、なってみようかな。
 おバカなこども、に。過去、なれなかった分。
 それくらいなら、許されないかしら。

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