ACT.23『九州グランドスラム 3 辿った記憶』
木造駅舎の賑わい
上有田駅に到着した。
上有田駅は通常、駅員を配置していない静かな駅舎である。故に通常は静かな木造駅舎のどっしりと構える姿と共に列車の往来までゆったりと駅の美しさを感じる事が出来る美しい駅だ。
しかし、訪問時には臨時快速列車・『有田陶器市号』が運転されたり。また、佐世保方面や西九州新幹線連絡関係の特急列車の臨時停車なども実施され、駅は大変な賑わいを見せていた。
駅はこの期間。有田陶器市の期間が最も賑わう期間なのだという。国際的な陶器の祭典でもある有田陶器市は日本全国から注目を浴びる祭りで、県外からの訪問も多いのだそうだ。駅周辺の街にも多く人が繰り出しており、佐賀県の産業・有田焼の実力を感じさせられるばかりであった。
駅にはこの日ばかりは駅員が配置されている。駅員の配置は有田陶器市限定の事のようだ。簡易的なカラオケボックスのような放送機械。列車の時刻表を記したボードなど、駅での列車管理をする為、駅での列車捌きを行う為に必要な道具が一式この木造駅舎に搬入されていた。JR九州も万全の態勢でこの期間に臨んでいる。
駅の要〜焦がれた場所〜
この上有田駅と切っても切れない関係にある店が駅前に存在している。
上有田駅前にある酒屋。『原田酒店』だ。
上有田駅では、前回記事でも示したように通常。特急列車の行き違いや通常は普通列車のみが停車する小さな駅だ。そして駅員も居ない。駅員は30年〜40年近きに渡って配置されておらず、臨時で有田陶器市の期間を支えるのみだ。
しかし、そんな有田陶器市の期間を除外して。上有田駅の駅業務をJR九州から委託された駅前の商店がこの『原田酒店』なのだ。
原田酒店の店内での乗車券販売の様子だ。乗車券の販売は区間毎に整頓されて並べられているのが特徴になっている。綺麗に整列されている姿が本当に商売の丁寧さを物語っていた。
そして、この原田商店さんに
「昔に放送されていたNHKの木造駅舎のヤツあったじゃないですか。あれ見て来たんですよ」
とカミングアウト。すると
「そうなんですか…アレは結構古いでしょう。何年くらい前でしたっけ。私も随分若い頃が映っている筈ですが…」
とその頃の記憶について語ってくださった。そして
「中学生の頃に放送を見たんです。この乗車券販売とかそのままで行なっているんですね。画面で見たそのままで感動です…」
とも会話が継続。
「BSでしたっけ?まさか今になっても覚えてくださるとは思いませんでしたね」
「あの時期、確か中学生だったんですよ。そんで夏休みの学校の夏期講習か何かで。その時、家に帰ったら国会中継の合間に再放送でやってたんですよね。それで上有田の駅が放送されてるのを見ました。」
「そうだったんですねぇ、まぁ昔の放送を…」
乗車券売りの主役であった店のお婆さんが会話を繋いでくださった。オンエアの時には随分と若く、黒髪にメガネの出立ちであったが現在は白髪に少し皺が増えた色白の年輪を重ねた…というのだろうか。年を積んだお婆さんになっていた。夏場、学校から帰って来た時の自分に言えるものなら言ってみたい。
「お前、大人になってみろ。知らん間に九州まで電車で回るようになって、この上有田で切符売りしてるお婆さんに出会う事になるんやからな」
と。きっととぼけた顔をして「何を言っているんだ?」と変な顔で無視されるかもしれない。
上有田で切符売りをしているお婆さんは『原田さん』という。途中、原田さんの御家族が出入りした時に
「テレビで見て来たんだよ」
と囁いたが、
「ウチの家族は覚えている人何人いるのでしょうね…」
という笑い話にもなった。
そして、話は進んでいった。現在の上有田周辺、また、有田陶器市の事。
「何か今日の上有田周辺は凄く賑わっていますよね」
「有田陶器市ですから。もう少し時期が違ったら静かだったかもですね」
商店の中には列車の写真も寄贈されていた。上有田周辺の店として、この店が愛されている証拠だと思った。
今では放送された時と異なって西九州新幹線が開業し列車事情も大きく異なった。原田さん自身も、余裕がある時…だけではあるが沿線を走行する観光列車・『ふたつ星4047』の見送りなどをしているという。長崎・佐賀の鉄道は大きく変わってしまったがこの上有田の駅の雰囲気。そして風情は変わっていなくて安心した。自分にとってはこの駅で何かしら下車する出来事があった際、必ず訪問しておきたい店だと思ったので非常に嬉しい訪問となった。
オンエアされた時と変わっているのは、列車の事情と鉄道の時刻関係…という事になるのだろうか。自分の中ではそう感じた。しかし。上有田の駅とこの原田商店に関しては何時迄もそのままでいて欲しいと願っている。
駅としての機能は殆ど外部的になってしまった上有田駅。しかし、駅周辺には暖かさが溢れていた。西九州新幹線ができようと。佐賀の鉄道・長崎の鉄道が大きく動こうとこの駅はこれからも見守っているだろう。
そして肝心の原田商店…だがこの店では乗車券の販売の他に本業である酒屋としての営業。他にはタバコの販売やお菓子類の販売も実施。また、有田陶器市の期間だけは原田さんの娘さんが制作された作品として裁縫商品が販売されていた。今回は非日常の有田陶器市期間に訪問したというキッカケで、原田家製作…の裁縫商品を買って帰る事にした。
土産を提げていざ…という事になろうか。原田商店を去る。
写真撮影、また乗車券販売に関しての取材など、色んな事をありがとうございました、原田商店さん。この場を借りての感謝と致します。
旅立ち西九州
西九州の地域から、そろそろ去る事になりそうだ。上有田から大町へ移動する。大町は江北の1駅手前の駅になるのだが、この駅まで移動するのに列車駆使して時間を暇してと結果的にはかなりの時間浪費をした記憶がある…がそれは置いておこう。
いや。大町から先に行けば良かったのか?と佐賀の時点から思い始めていた。のはココだけの話。
として。上有田に復路の『有田陶器市号』が入線してくる。この『有田陶器市号』は鳥栖までの運転のようだ。そして車両はこの区間ではあまり見かけない813系。JR九州の気合いの入れ方が強烈に伝わる布陣ではないだろうか。多くの乗客が待機する上有田のホームに滑り込んできた。
しかし、この上有田の駅も見てみれば駅舎が木造である事以外は非常に質素で素晴らしく落ち着いた時間が過ごせる駅だと思う。原田さんと交わした会話ではないが、閑散とした時間に訪問して撮影を片手何本かした後に帰るのも全然良いだろう。
上有田の木造駅舎は保存工事を既に実施しており、駅舎を大事にする、駅舎を後世に向けて活用していくという運動が大事に行われている。そして、この駅に課せられた使命である『有田焼の輸送』は現在の有田陶器市の拠点として活動する様を見ていると『有田焼の普及と発信』に貢献する新たな役割を見た気持ちにさせられる。
列車をそのまま上有田で待機する。
しかし、自分は跨線橋を渡った先のホームで待機しており列車の入線場所を直前まで間違えているという大失態を犯してしまった。『有田陶器市号』が大町に停車しない事は記憶していたのに…と悔いが残るが、改めて駅舎側のホームから旅を再開しよう。
乗車するのはキハ47形の白バージョンだ。自分が前回の長崎訪問で
「何このケチりまくったのは…」
と呆気に取られた列車である。この車両に乗って大町に戻る事になった。…が、813系・811系といった都市幹線での編成を用意できる余裕はあるのに何故頑なに増結をして走らないのだろうか。自分はそこが気になる。ご覧頂きたい。この景色を。この列車が入線してくる先に
待ち受けるのはこういった景色なのだ。もう少しだけ収容力に気を遣って頂けると嬉しかったのだが…
列車は既に座席が埋まり始めており、先の有田駅からも既に空席がない状態であった。どの駅始発だったかカウントはしていなかったが、このような混雑状況をもう少し把握して頂けると非常に乗車に関しては楽になったかもしれない。
結局、座れるかどうかの杞憂な心配は不安に終わり、大町までの着席人権は確保できた。しかし、それでも立ち客の占める割合は非常に多く。JR九州が都市圏と有田陶器市との並行した臨時輸送に力を投じる理由についてはよくよく考えさせられた。来年はもう少し前向きに輸送を動かしてほしい。
そのまま武雄温泉などを経て、先程の経路と同じ道を戻ってきた。何とか日が沈む前に大町の駅に到着した。目的になるものはこの駅にある。
既に駅名標の『おおまち』の下にある『こうほく』の貼り付け感が切なすぎる。100年以上継続された駅名、そして鉄道史に永らくの功績と足跡を刻んだその駅名との訣別は簡単に受け入れる事ができるモノではないと改めて考える。
駅の古びた跨線橋を渡り、プレハブ小屋のような駅舎へ。決して綺麗な駅舎とは御世辞にも言えない。西九州を旅立つ前にどうしても見ておきたかったもの…が駅を出て車の通る道に並行に歩いてみると、すぐ見つかった。
29611 大町ふるさと館
まず、大町駅を出て車と並行に歩き江北・佐賀方面に歩いて行くとこのようなマンホールに遭遇する。奇しくもこのマンホールは前回の記事にも登場したTVアニメ・『ゾンビランドサガ』のキャラクターを模ったマンホールのようだ。
そして、幾つもの建物を並べた道の駅…ドライブインのような施設が現れる。その施設に目的の存在があった。(決してゾンサガではない)
9600形蒸気機関車。通称・キューロク。またの名を、クンロクと呼ぶ。この九州の大地では石炭に関する場所、炭鉱での関わりが強く、田川後藤寺線や若松線での活躍が多い存在であったがこの佐賀県・大町にもその功績が残っているようで保存がされているという。
炭鉱といえば福岡という…歴史が多く残されているが、この佐賀県には杵築の炭鉱の歴史が残されている。その歴史は江戸時代から数えられており、隣町である江北町にもその影響を与えた。昭和44年の閉山までその歴史は続いていたのだそうだ。
しかし、佐賀県の杵島炭鉱で主に実施していた石炭輸送である手段は団平船という手段で、船舶を用いたもの。この9600形蒸気機関車に関しては最後を後藤寺機関区にて生涯を閉じた形になっており、佐賀県とは全く関係がない。石炭輸送手段の語り部としてこの地にやって来たと見て良いだろうか。
29611の近くには丁度、ゾンビランドサガのマンホールが存在している。こうした記念写真の撮影も可能で、昨今の鉄道ファン事情である『アニメ×鉄道』の需要にも簡単に応えられるといった様子だろうか。こうしたさりげない要素からも土地の風味を残しておく…のが保存機撮影の醍醐味であり、楽しさである。機関車は福岡の炭鉱町で生涯を閉じ、マンホールは新たな佐賀県の盛り上げ役。取り合せの無さそうな組合せが実現した。
だが、こうして見ても分かってしまうのは29611の保存状態の悪化状態…とでも表現しようか。とても良い感触とは言えず、サビや老化が目立ってくるようになっている。
炭鉱の輸送手段として九州に奔走し貢献した役者としてその功績を讃える…のであればそれ相応の整備が切望されてしまうのはどうしても、というところだろうか。
このゾンビランドサガのマンホールをキッカケにして、作品と鉄道のファン…または作品のファンの方が機関車に目を付けた動きをして下さる、なんて事が今後あると自分としては非常に面白いと思っている。今後はどうなっていくのだろうか。ただ静かに見守っているだけとなっている。
29611には接近しての撮影がとにかく難しい状態で、縦アングルの顔写真に関しては撮影しようとすると必ず屋根の柱が入ってしまうという状態だった。その為、顔の写真についてはこの縦構図で妥協としている。(こういった妥協はあまり良くないだろう)
ゾンビランドサガのマンホール越しで確認しても分かってしまうように、29611の状態は接近して眺めて見ても非常に良くない状態になっている。長年の整備が恐らくされていない事は勿論…だろうが、とっくの事に住民から忘れられている懸念もあるのではと心配になってくるほどだ。
更にこの機関車を観察してみよう。この機関車の観察していて最も目立つ場所…とされるのがこの赤いナンバーだ。
確実にレプリカものだと思われるが、このレプリカプレートが車両の個性を引き立ててくると同時に車両の残念さを同時に演出しているような気がしてしまう。
九州に貢献した機関車にレプリカの品を装着するとは…と思ったが、コレはコレで考えてみてば少し面白いかもしれない。こういった場合は預かっている自治体などが本物を管理していそうだが、実際その『本物』は存在しているのだろうか。
そのまま機関車に沿って歩き、テンダー側に到達した。と同時に、この側を見て言葉を失ってしまう。
写真のように、車両に付いているであろう部品の殆どが欠損しているのだ。この状態には流石に驚いてしまい、機関車の手入れ状態について沈黙せざるを得なかった。
しかし、錆が侵食してはいるものの白線の装飾塗装などはそのままを維持しているようで、現役時の塗装は辛うじてではあるが留めているように感じられた。あとはサビの侵食が見られたのは写真で確認できる分…とすれば車輪付近の入換時に使用するステップであろうか。それ以外は、殆どのライト関係やナンバー関係の部品が抜かれ長年の整備放置も祟り寂しく荒廃した姿を見せている。正直に捉えて、この姿を見る方がキツいかもしれない。
機関車周辺には足場が組まれている。先ほどに佐賀市役所で確認したD51と同じようになっている…が、こちらに関してはキャブ内に入る事が可能になっており、開放的な展示を眺める事が出来た。
そして足場の近くには機関車を紹介するプレートが掲出されている。
その中には、『火室を大きめに設計して少し高めな機関車になっている事』と『戦時中は250両の同包が中国大陸へ軍事供出の為に旅立ち、近代史を語る上で欠かせない戦争という劇的な場面に巻き込まれた事が記されていた。
こういった説明書きが入っている事に非常に、まずそもそもの好感が持てる。こうした1歩を機関車の普及という点でも良いので進め、保存活動にどうにか活かしていけないだろうか。きっと大きな影響を残す事間違いなしだと自分は思う。
この機関車、9600形の動輪は今までの機関車の動輪よりも小さく設計されているのが特徴だ。
そして、説明書きにもあるように『火室』…つまり蒸気機関車の心臓となる火を燃やす場所を高い重心の場所に設置した事にある。
それまでの蒸気機関車、または欧米からの輸入蒸気機関車は動輪が大きく、大きな動輪で火室を挟んで石炭。動力源の燃焼面積を小さくしていた事が大きな原因にありコレが牽引力・馬力低下を招いていた。
しかし、9600形ではこの設計を変更したのだ。動輪を小さくして火室を高い位置に設置する。従来の動輪が心臓を挟んだ設計を見直し、動輪で心臓を支える設計に変更した。
この設計は大きく当たり、それまで挟まれて発揮できなかった燃料分も消費出来るようになり牽引力の向上に繋がっていったのである。足回りを小柄にし、蒸気機関車の心臓である火室の面積を大きくする。これだけの設計変更ではあるが、当時の鉄道技術では十分すぎる近代化だったのだ。
9600形の誕生は、大正初期の話となる。
大正の時期に少しづつ量産を開始し、徐々に昭和になっても量産を続けその数は770両にまで到達した。この9600形蒸気機関車の製造数。770両という数は国鉄時代の更に先。D51の1,115両によって記録を塗り替えられるまでずっと破られなかった記録なのである。
こうして9600形機関車は大正〜昭和期の貨物機関車のエースとなり、ある全盛期には
『鉄路あるとこキューロクあり』
と親しまれ北は北海道。南はこの九州までを駆け回ったのである。その活躍は四国を除外する日本全土で続いていた。
(D51は前回、佐賀市役所で訪問した分があります)
そして、9600形蒸気機関車は説明書きのように線路を改軌して中国大陸への進出も果たした。これは日中戦争に伴う軍事供出であり、250両ほどを9600形は戦地へ送り届けた。
奇しくも今回訪問の29611に関してはこの『中国進出機』のような妖しい雰囲気が漂っており、正に『軍事供出で逝った仲間の分宜しく』
と囁かぬばかりの中国感があった。(実際調べるとこんな感じの9600形が中国で活躍していた記録が見つかります)
この他にも9600形蒸気機関車の活躍に関しては様々な記録がある…が、29611は昭和43年まで九州で活躍を続けた。大正13年に直方で配置されて以来の一貫した九州暮らし。そして、昭和の高度経済成長を見届けて逝く。鉄道車両として。機械として充分な老兵の生涯を歩んでいたのだ。
とそんな横を、佐世保線の特急列車たちが次々通過していく。
しかも大町駅のホームがすぐ横に見える為、かなり駅近な保存機である事が確認できる。訪問した時間帯は、佐賀市役所同様に多くの人が訪問する事はなかったが、こうして特急列車とすぐ横の道を車が疾走していく音だけが残っていた。
佐世保線の列車を、29611は頼もしく見守っている。本線の線路に近く、こうして営業している列車と並んだ位置で観察できるのは素晴らしい事だと思ってしまう。29611の周辺に居た際も何本か佐世保線の列車が通り過ぎていったが、佇む老兵に向けて手を振るように走り去っていく。環境、特急列車が停車しない事、そして臨時列車関係も一通り終了している事から何か静かにこの機関車を見届ける事が出来たと思う。
そのまま大町ふるさと館に入館する。手頃な値段でスイーツが販売されていたので、食事を僅かな開店時間ではあったがして帰る事にした。
店の商品。特にカフェ関係の値札に関しては蒸気機関車のポップが配されたモノもあり、支払いの間に
「蒸気機関車の整備の金銭になりますように」
と祈りながら商品を購入した。
こうした気持ちで蒸気機関車をはじめとした保存施設への寄付、または商品の購入が出来るのが非常に保存車を巡っている中で面白い時間だ。
今回は微々たるモノしか食せなかったが…。
大町ふるさと館のスタッフの方に質問をし、店内を撮影させていただく。
県の特産品。特に先ほどの有田近辺ではないが、佐賀県の長崎県境付近では陶器関係が盛んにヒットしているようだ。
陶器といえば渋い職人技光る日本モノしか浮かばず、有田陶器市でもそういったものが並ぶかといえばそうでもないのだという。こうした日常生活でも使用する洋食器の陶器も有田陶器市では並び、全国や世界から注目されるのだそうだ。
また、大町ふるさと館には地元で消費されている肉の特産品販売や冷凍イタリアン(冷蔵もあり)の販売も行われていた。場所としては物産館にあたるようだが、かなり地味で自分としては分かりづらいというか入るのに勇気を要した。
しかし、また大町で時間を潰せそうならこのカフェやふるさと館に寄ってもっと食品の消費や地産商品の購入に貢献しよう。
そしてこの時には別のライダーの方が休憩がてらにと立ち寄っている場面に遭遇した。そのライダーの方、施設前の蒸気機関車目当ての自分…と施設の方は盛んに会話を交わしてくださり、非常に思い出が楽しいものになった。
次の思い出、また寄るべき場所が増したかもしれない。
「次はSL、綺麗になっているとイイですね!」
と一言。
果たして叶うだろうか?
大波乱
そのまま、列車の時間が近づいたので大町を去る事にした。肥前山口が次駅ではなく江北の状態となっているのが少し歯痒い気分になるが、そのまま乗車して先に向かう事にしよう。
やって来た電車は鳥栖行きの電車だった。この電車に乗車すれば、江北で下車する必要もないしそのまま先の方面までカバーする事も可能になる。少し安堵した気分で列車に乗り込んだのだった。
既に車内は有田陶器市の賑わいも消えていて、列車の賑わいは長い連休に向けた賑わいに変化していた。そのまま817系独特の補助席を開いて乗車する。下車印を求めてそのまま新鳥栖まで乗車する事にした。
長崎本線は単線で運転されている路線である。列車は途中、中原(なかばる)に通過待ちを兼ねて停車した。
既に夕陽が落ち、暗くなった時間に817系のブラックフェイスがよく似合っている。乗客の下車する様子もまばらで、ゆったりとした列車の旅の情緒をこの時は感じていた…が、後に波乱に巻き込まれるとは想定もしていなかった。
そして、しばらくすると囀りのように接近放送が流れる。轟音がけたたましく唸り、特急列車が通過してきた。787系車両だ。
全く長崎方面に関しては訪問しても全く理解が及んでいないが、長崎方面の特急列車に関してもカラフル…というか西九州の特急は多彩で個性が多いものだと感じさせられた。
列車を待避している817系の塗装が黒を基準にしているので、余計にその塗装の強調と云うのだろうか。互いの暗い色が目立ってくる。
この写真を撮影したのちにそそくさと乗車し、鳥栖方面への旅路を再開した。
新鳥栖に到着した。長崎本線の駅ではあるが、新幹線は熊本・鹿児島方面に向かう九州新幹線と接続している駅である。
この駅では下車印を貰っただけ…だったが、新幹線に乗る事に関して少し頭を捻っただけで改札に戻ってしまった。
しかし、改札に戻っても先程の列車が新鳥栖を出てしまうと19時43分まで普通列車は来ない。かと言って、自分のフリー乗車券では特急に乗車する為に追加料金を支払わなくてはならない。乗車券分としてはフリー乗車券が全て面倒を見てくれている…ので、あとはその残り。『追加課金』の用意だけだった。
しかし、新鳥栖には周辺に銀行らしき場所がない。(自分がこの時盲目だっただけかもしれない)かといって引き返しも難しい。
結局、財布の残金で特急に乗車して一旦は二日市まで乗車する事にした。先へ向かい、銀行のありそうな街を探して特急・新幹線への再乗車を計画したのである。
しかし、、そうは言って見つかるのだろうか。不安が少し残ってくるものがあった。かと言って新幹線に関しても新鳥栖の停車本数は新鳥栖の停車本数で…と不安を煽り難しかった。
ちなみに写真は待ち時間中に撮影した特急の写真だが、闇の中で撮影する課題としては上手くやれた気がする。
一方で佐賀方面に関してだが、そのまま待機していると佐世保17時31分発の博多行き観光臨時特急・36ぷらす3に遭遇した可能性があったらしい。しかしこんな場面で遭遇してもなぁ…
そのまま特急着弾。(降車後に撮影した記録です)
鳥栖まで乗車しても、二日市まで乗車しても特急代金変わらず560円くらい。しかしその事に関しては自分にとって気が引ける話であり、
「同額なら2駅先の二日市まで行くか!」
と勇んだ結果二日市まで乗車した。
鳥栖まで折返しを食う事になったが、フリーの乗車券だったのでむしろ代金が追加されお得になったのではないだろうか。まんまと会社の策略に堕ちてしまった。(そんなことではない、決して)
鳥栖までの折り返し乗車で乗車した電車はまさかの都市圏の電車、813系電車であった。
「こんな形で福岡の都市圏に帰ってくるとは」
という気分にもさせられたが、まだ帰るには早すぎるだろう…
乗車した特急は、JR九州にて民営化後に誕生した『画期的な電車』と語られた783系電車だった。
この特急電車の特徴は、真ん中に乗降のドアが存在している事にある。
詳しい話は長時間乗車できた際に書くとしようではないか。この車両の画期的な取組みが、JRを大きく変える事になっていく…のだが、それはたったの短時間乗車、そして多くの乗客が乗車している密集した時間では分からないままだ。
本当に真ん中にあるのかって?
実際の写真。本当に真ん中に客用のドアが設置されており、このドアで自由席と指定席を仕切ってサービスを展開していた。
この回転の良いサービスは、783系の魅力となり民営化後の九州を象徴していくモノに変化していった。また次回、長時間乗車してその詳しい情報に迫って行きたいと思う。
名選手に見送られ
二日市駅に銀行はなかった。更に追加条件としてATM機器にまで絞ったが発見できず座礁。
という事で鳥栖に戻っていたのである。鳥栖で一旦、現金を引き出し。鳥栖から再び長崎本線の普通電車に乗車して再び新鳥栖に到着した。
と新鳥栖へ。写真は新鳥栖の新幹線改札内で発見したものだ。
鳥栖市出身有名人の紹介をします…と書かれたショーケースには、サッカーに関する著名人と野球に関する著名人が。サッカーは知らなかったので、野球に関する著名人へ。(サッカーの方申し訳ない)
野球に関する著名人は、広島カープの緒方孝市さんだった。
どうやら緒方孝市さんは鳥栖出身の野球選手としてプロ野球に羽ばたいた際に広島カープに入団。そして、広島カープを2017年の優勝に導いた貢献を残したと記されていた。
新幹線はその都市を代表する交通機関としての役割を持たせているからこそ、なのか改札内が博物館や物産の展示室のようになっているのが非常に様々な駅を回ってみて面白いと感じるところだ。
ショーケース内にはサインボール・バット・グローブが収蔵されていた。そして現役時の緒方孝市さんの写真。
とここで。既に周知の方の方が多いかも…しれないが、緒方孝市氏の選手として。そして広島野球に関わったここまでについてを自分で知らなかったので、少し調べてみる事にした。結構前の野球ゲームで広島のチームを選択すると『緒方』の名前が入っていたので、その名前で見て以来緒方孝市氏の足跡について興味を持ったかもしれない。
緒方孝市氏は佐賀県・鳥栖市…鳥栖高校から広島カープへ昭和61年にドラフト3位にて入団。外野手として走力・打撃・守備力を揃えた活躍を見せるが、入団当初は一軍定着が中々叶わない状況が続く。しかし、平成7年。試合出場数を次々伸ばしていく中で101試合に出場。335打席にも関わらず47盗塁をマークし、広島の瞬足選手として定着を見せ始めていく。
この年からは3年連続で盗塁王・ゴールデングラブ賞を獲得し、広島野球の黄金期に貢献していくのであった。
平成11年には大記録として初回先頭打者本塁打を8本記録した。この記録は当時の日本人最多タイ記録である。
盗塁で記録を達成した後には、打撃で広島を牽引していった。平成14年からは4年連続の20本塁打を達成している。そのうち3シーズンの打率は3割をキープしており、打撃・肩力・守備力・走力…などでチームを牽引し、広島の主力選手に育っていった。
現役は2009年に引退。通算の記録は1808試合出場。1506安打。241本塁打、725打点。268盗塁…との記録に終了。現役最終時の打率は.282であった。
しかし2009年に引退してもすぐにはチームを離れる事はなかった。現役引退後はコーチに就任し、2015年からは監督にも就いた。初年度こそ4位と終了してしまったが、2016年にはチームを25年ぶりのリーグ優勝へ。そして2017年には37年ぶりの連覇を果たし、広島の街に希望を届けたのであった。2018年、球団史上初のリーグ3連覇を達成。日本シリーズまで勝ち進めたモノの、惜しくも敗退してしまう。しかし、この3連覇は広島県の希望になり。勇気になった事は間違いないだろう。そのうち1回は広島県内の本拠地胴上げを達成しており、これもまた欠かせない話の1つだ。
しかし、2019年に4連覇を目指し再び指揮を執るもこの年は成績が4位に下降。シーズン終了と共に球団を去った。
以降は野球評論家としての活動を行なっており、時に広島カープでの選手生活などを語っている…そうだ。(そして妻の方が女優である事も有名だそうだ)
緒方孝市氏の話…で埋め尽くしてしまうところだった。この切符で初の新幹線乗車という経験が始まろうというのに。
改めて復習しよう。今回使用した切符は、「在来線の乗車券としてのみ使用可能になっているフリー区間乗車券」として九州全土での乗車が可能になっている。しかし。「一部の特急列車と九州新幹線・西九州新幹線」については追加料金で乗車が可能になっている切符なのだ。
そして、何故一旦鳥栖に戻ってから新鳥栖へ行ったのか。鳥栖でコンビニATMを発見し、このタイミングで新幹線代金含めた大雑把な特急代を引き下ろした。手数料は掛かってしまったが、今晩最後のタイミングだったろう。そう。簡単に行ってしまえば、特急課金に向けた金銭の装填である。この時の所持金は最低額しか持っていなかったので、何もかくにも駅に寄って現金を下ろす必要があった。
九州区間で新幹線に乗車する…のは今回が初の経験となる。しかし、自分を出迎えてくれたのは新大阪からの山陽直通新幹線だった。
「あぁ、そうは簡単に行かなかったか」
九州初の新幹線乗車というタイミングだったので、どうしても800系新幹線に乗車してみたかった。
今回乗車している新幹線は、この車両である。N700系8000・9000番台。JR西日本とJR九州が共同開発・共同保有し山陽新幹線⇄九州新幹線での直通運転で使用している新幹線だ。西九州新幹線でもN700系がJR九州開発の元・運用されているがあちらはN700Sという現在に新しく開発した新幹線なので種類が異なる。
そして、この車両の内装は基本的に両者変化していない。乗車した際の貫通通路を通過した時。車内に向かって歩き出した際に『JR九州』と目に入るか『JR西日本』と目に入るかの違い…が結構大きいが、最も大きな違いが乗車して暫くすると起きる。
乗車中、座席に腰掛け電球色の室内灯を眺めていた時の事だ。新幹線の車内チャイムが鳴動する。
「〜♪)あぁ日本の何処かに 私を待ってる 人がいる」
そう。車内チャイムである。JR西日本車両の場合、この山口百恵氏による『いい日旅立ち』をアレンジした車内チャイムが鳴動するのだ。
「今日も。新幹線をご利用くださいまして。ありがとうございます。」
なんか知らんけど新幹線のアナウンスって凄くヌッルヌルしてますよね、うん。
その後、自分の乗車している新幹線は新鳥栖を発車すると久留米に停車。その後は幾つもの駅を全て通過して、熊本に向かっていった。この熊本が今回の目的の駅である。
コンセントを挿して、ぼーっとビュンビュン飛んでいく夜の車窓を眺めている。新幹線に乗車する感覚というのは、特別で面白いという感覚があるものの、一種自分で見方を変えると時間をググっと無理に縮められた、地を這う飛行機のような感覚にさせられる。
乗車している新幹線。『さくら567号』の自由席は閑散としている車内だった。新鳥栖から何人かの乗降があったとて、車内を埋めるのは
ゴォぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ
という新幹線の地鳴りのような走りだけだ。外を見ていると、駅名標が過ぎていく。新大牟田、新玉名。自分にとっては初遭遇な駅だらけだ。
火の国到着
西九州から、一気に新幹線で駆け抜けて熊本に到着した。今回の宿はこの駅前のチェーンホテルに宿泊する事になっている。
到着すると、自分が見てみたかった九州新幹線の定番。800系新幹線が停車していた。800系新幹線にむかって
「ほら!〇〇!新幹線だよ〜!」
と肩車した親子が近付いている。新幹線駅で肩車ほど危なっかしい事は無いので個人的には怖かったのだが。
自分の乗車した『さくら567』号は鹿児島に向けて消えていった。これから先の長旅が待っている。しかし規制緩和された旅路で新幹線の数字が567とは何か縁起が悪いのではないだろうか?どうだろう。車内ではケータイをずっと充電して過ごし、3列席の真ん中に座りながらビジネス広告をずっと眺めていた。
「プリントパック、名刺430円…」
「科学で社会を変える会社…」
「キップをスキップ!乗車券の手間…」
特急列車に乗車、特に新幹線に乗車しているとそういった類の広告をぼんやり眺めてしまう気がする、のだがどうだろうか。共感できる方がいらっしゃると非常に作者冥利に尽きるというものだ。
熊本に到着し、ここから先は本格的な九州の奥地を目指していく旅路が進行していく事になる。本数も脆弱で、何本走っているか分からない。特急乗車も当たり前。そういった区間が続き…と自分にとっては多くの刺激を感じる区間が連鎖する。
しかしこの時の自分は
「熊本に着いたし、チェックインしてからJRと市電どっちを撮影しようか」
と呑気に自分の事しか考えていなかった。既に時間はかなり経過しているハズなのに。そして、西九州を出てからそれなりに経過しているはずなのに。旅先に到着すると自分の体力というのは勝手に回復してしまうんだと認識させられた。
熊本に到着して撮影したスグの記録。
800系新幹線といえば大きく『つばめ』ロゴが輝く新幹線だと思っていたが、今では787系同様に小さなツバメのロゴマークが配されている。
きっと見渡せば車外にその『つばめ』マークもあるかもしれないのだろうが、最近の800系新幹線は殆どこうなってしまったのだろうか。そして何気に観察してみると、この800系新幹線の下部に見える車両番号で821-1と確認できる。
1番という事はこの車両がこの形式の中で最も最初に製造された部類であり、用語を用いるなら『トップナンバー』という事になる。旅の最後に何気ないありがたみを貰って駅を後にした。
そのまま駅の改札を出札して、チェーンのホテルに向かう。ホテルは路面電車側に面しており、スグにアクセスが効く場所であった。今回はゲストハウスなどの宿泊が全く取れなかったので、この手段しかなくビジネスホテルへ。中々落ち着かない状態ではあるが、荷物を提げて今日の食事をコンビニで済ませる為に再び向かった。チェックイン、無事に終了。
さて、次回はこの先。路面電車側に宿泊できたからこその大きな運と翌朝の路面電車撮影に関してを記していこうかと思う。同時に、その際に熊本が誇る日本の鉄道史を変えたとされる電車にも遭遇し非常に良い体験もする事が出来た。