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批評はLife Style −『歌というフィクション』をめぐる対話 pt.3− (対談:伏見瞬+韻踏み夫)

韻踏み夫(I)
伏見瞬(F)
吉田雅史(Y)

Y:戻りました。

F:よし。
先ほどの話で、勇気づけられたところがありました。実は、私は文芸批評書きたいな・書くべきだなと前から思っていました。自分のルーツが音楽と文学双方にまたがっているし、音楽ばかりなのはバランスがよくないと思っていて。ただ、今の文芸批評に取り掛かるときの手掛かりが見当たらないとずっと書きあぐねていた。「近代文学の終わり」の後に書くのは不毛だと感じたのが大きな理由です。1990年代以降、小説がかつて日本の文化圏で背負っていたような中心的役割をもう果たさない。もちろん、「終わったからこそわかることやできることがある」という態度もあり得るし、90年代以降に登場した保坂和志の小説論にも大いに刺激されてきた。それでも、小説、あるいは詩やエッセイも含んだ「文学」をどう批評していくかの、アプローチが見つからなかった。
韻踏み夫くんが先ほど指摘したのは、音楽批評において左翼的なヴィジョンが無効化する流れと、柄谷行人がいうところの「近代文学の終わり」はパラレルではないか、ということですよね。そこが同時進行なら、音楽批評に対しても文芸批評に対しても同じ姿勢が有効になる。つまり、個々の作品を一つの基準点から批判するのではなく、作品を分析して語りつつ、全体の構造に対しては批判的なアクションをする、みたいな態度はまだできるのではないか。実際、いい小説・刺激を受ける小説は全然ある。社会での立ち位置が変わっただけ。売れなくなったから文学が終わった、という経済基準の話でもないわけですよね。柄谷もそういう風には言ってない。大塚英志が言う「サブカルチャー化」したなりの文芸批評のやり方はあるはずで、そのヒントを韻踏み夫くんから得たような気持ちになりました。『歌というフィクション』にも同じような刺激があった。リズムと共同性の問題で小説を語ることはできるし、まだまだやってる人がいない方法論でもある。

I:僕も、最初なんで批評をやるうえで対象を日本語ラップにしたのか、というときに文芸批評について考えました。僕が日本語ラップ批評書き始めた2015、6年くらいにちょうど日本語ラップはブームが来てた。いまも上り調子だと思うけど、やっぱり日本語ラップは長らく文化として認められず、なんとなくバカにされていた。宇多丸が戦ってたような、世間への怨念とか鬱屈みたいなのが僕にもあるわけです。バカにされてるけど、一番偉いのは、一番イケてるのは俺らだろと認めさせなきゃいけない。そういう日本語ラップマインドは僕も共有している。書き始めたときは、そこらの文芸批評家よりも鋭くて意味があるような日本語ラップ批評書いて目に物言わせてやるぞ、みたいな若気の至りみたいな気持ちを持っていた。けれど、最近ふっと周りを見たら、イケてるなと思う同世代の書き手はむしろ文芸批評よりも音楽批評とかの方が多い状況になっていた。あれ?みたいな。

F:うんうん、現状の文芸批評ちょっと貧しい感じしちゃうよね。だったらこっちがやろうかなって気分になるよね。

I:そう、すごいわかる。でも、文芸批評家がダメでも、小説自体はすごく面白い状況だと思います。たとえば、九段理恵や大田ステファニー歓人みたいな小説家の登場は、僕ら音楽聴いて育ってきて批評書くようになった人間にとってフィールするところが大きいのではないでしょうか。このあいだ、福岡で鳥羽和久さんがやっている、とらきつねという書店で町屋良平さんが来てイベントがあったのですが、それも本当に面白かった。

F:文芸批評でガチですごい人って山本浩貴君ぐらいだなって思います。

I:たしかに。

Y:単著の連作は楽しみすぎるよね。『新しい距離』はこの前出ましたが。

I:三部作なんでしょ。どういうこと(笑)

F:彼はほんとすごい。尊敬してます。

I:「歌舞伎町のフランクフルト学派」(以下、かぶふら)にも出てますよね?

F:そう、「かぶふら」で「かぶー1グランプリ2022」という批評の賞を勝手に開催しているのですが、僭越ながら山本君のホラー論を大賞に西村さんと私で選びました。その流れもあって、昨年の9月の「かぶふら」でゲストに来ていただいた。出演いただいたときの山本君の話も、たとえば今のエッセイブームというものは単にフィクションの価値低下なんだという鋭い指摘をいただき、やっぱこの人見えてるもの違うな、とうれしくなりました。しかも、あんな難しいこと書いてるのに話すといい人だからね。いいなと思った。韻君もそうだけど、理論的に鋭いことを書いてるひとが、人として接しやすいというのは、俺の中ででかい(笑)批判的だったり気難かしかったりしなくてもすごい批評は書ける(笑)

I:ああ、なるほど。でもやっぱり、リアルと理論が分離されてたら、批評として嘘だなって思うからね。自分の場合は。それはヒップホップ的に違うでしょと思う。自分が使う理論があったときに、それに見合う自分にならなくちゃフェイクでしょ、みたいな。そこは大事。

F:そうだよね。

I:なんか、最近すごい思うのは、BAD HOPじゃないけど「俺らの批評はライフスタイル♪」でしょ、みたいな(笑)こういうこと言うと、バカにしてくるのかもしれないけど、いや超大事だからって僕は言いたい。それがなかったら批評とかやる意味ないと思うんですよ。

F:うん、だからテクスト論的なものもさ、人間性が大事って話なんですよ。アイデンティティ・ポリティクス的な、この人は白人男性だから、この人はマイノリティだからっていうのが、テクスト論の反対にあるものとして存在している。現在はそのようなアイデンティティを前面に出す立論が人口に膾炙している。でも、アイデンティティを切り話すテクスト論でも、アイデンティティを前にだす政治性でもない、どちらでもない立場はありうると思う。というかそこを常に意識しないいけない。「ライフスタイル」こそが批評だ、っていうのはすごいその通りで、アイデンティティのリアルがあるからこそ、作者を排除したテクスト性も輝く。そういう表裏一体がある。

I:テクスト論的な発想というか、バルトの「作者の死」の通俗的な理解みたいな、作者の人格とテクストはまったく関係ないみたいな規範は長らく流通してきた。もちろん、その逆に、単にテクストは書き手のリアルの反映だという素朴なことが言いたいのでもない。テクストを読み、書くプロセスを通して別の人間になるというのが、本来的にライフスタイルを、新しい生のスタイルを構築するということが言いたい。よく言うけど、浅田は「スキゾ・キッズ」という生き方を提示して、東は「オタク」で、千葉は「ギャル男」で、みたいなライフスタイルを示したと思う。そういう意味で、僕は「日本語ラップ」という生き方があると思ってる。それを書きたいし、連載「フーズ・ワールド・イズ・ディス?」の最終回にもそういうことも書いた。一見そういうのなさそうな絓秀実だって「ジャンク」という生き方を提示していると思うし。特にSNS時代だと、生き方を提示して引き受けるのは大事だと思うな。

F:去年『絓秀実コレクション』が出たじゃない。あそこで、綿野恵太さんが解説書いてて、とてもよかったんですよね。「ジャンク」な生き方はどうあるべきか、プロレタリアートでも高貴に生きるにはどうするべきか、という問題設定が絓にはあると綿野さんは書いている。

I:綿野さんだって、「逆張り」という生き方を書いてるわけですね。こういう「生」みたいな問題って、音楽批評だとむしろやりやすい。思考だけじゃなくて、ファッションから人が変わっていったりもすることを、音楽批評では示しやすいから。

F:そうだよね。今、自分が書いている「蓮實重彦論」をどうまとめるかをすごい悩んでいるんです。もちろん、蓮實だからテクスト論的に取り組むのが正解な気がするんだけど、それはそれで芸がなくて面白くならない気もしていて。今の話で、そっか、蓮實重彦という生き方について論じればいいのか、みたいなことを思いました。

I:蓮實論はどこかにまとめる予定なんですか?

F:本にまとめたいと思ってるよ。目標は、蓮實さんが亡くなる前には出したい。

I:絶対本人に読んでもらいたいですよね。

F:だから時間との勝負、といったら失礼かな(笑)長生きしてほしいのですが、蓮實さんがすでに87歳というのは厳粛な事実としてありますので…。ちゃんと読んでいただいて、バカにするならしていただいて、でも俺は一人でやったぞ、あんたについて徒手空拳で書いたんだぞ、ということはご本人に伝えたい。

I:うん、もし怒られても、怒られたことが勲章になりますからね。蓮實レベルになると。

F:うん、なんとか頑張りたいと思うけど、本当に手ごわいから。半分趣味・半分勉強で、蓮實が訳したフローベールの短編の、原文と訳文を毎日少しずつ写経してる(笑)

I:すげえな(笑)

F:そんぐらいしないと、蓮實論なんてできない。

I:写経をやってるのもすごいけど、その時間をいつ作ってるの、というのもすごい。

F:仕事中サボる時間見つけつつとか、喫茶店行ったついでとか。一日2~30分くらいちょっとずつやってるだけどさ。でも、なかなか「なにかがみえた!」という実感がつかめない。さっきの話を聞いて、テクスト論であるがゆえのライフスタイルってあるなと思いました。

I:たぶんフーコーの言葉だったと思うんですけど、なんで書くかって言ったら、自己から抜け出すためだ、というような話がありますから。フーコーはバルトともにテクスト論を広めた人ですが、本来はそういう自己とのかかわりの話だったわけですよね。違う自分になるというのが、ライフスタイルを作るってことである。この流れで、伏見さんが議題にあげてくれていた「SNS時代に有効な批評とは」というような話をしたい。

F:SNSで無効になった批評のスタイルがあると思う。一つは「挑発的な批評」ですね。挑発的なことを書いても、SNSの話題になって終わって、読者への働きかけという点がうまく機能しなくなる。いまは、アテンションを集めるために、批評的な意識のない人がどんどん過激なことをいっちゃうから。今までだったら、あえて極論を断言することによって、議論を呼び起こすとか、人の心に訴えかけてアクションを起こさせるとか、そういう機能があったと思うんです。けどいまは、挑発するという行為が非常に安っぽくなってしまっている。じゃあ、逆に細かく繊細に分析して記述することがどこまで有効というのも、定かじゃない。複雑なことを繊細に書いたものは、無策に市場に投げただけではほとんど誰にも読まれない。暴論で断言することと、丁寧に書くことの二項対立じゃない、どっちでもないスタイルがあるのではないか。どっちも今は無効化しているなかで、別のスタイルを検討しなくてはいけない状況にある。

I:大変よくわかります。その通りだと思いますね。断言的なものと繊細なものがどっちも無効になっているというの、ハッとする整理でした。それこそ蓮實はそれが誰よりも上手く人ですよね。実際、「こんなん読んでるやつ、聴いてるやつバカだ」みたいな批評ってもう通用しない。

F:今では誰でも手軽に出来ちゃうからね。

I:SNSの状況によって批評がやりづらくなっているというのはその通りで、批評が衰退したとも言える。でもいまのSNSの言論は、かつて批評の世界で最先端だったものを俗流化させてパクったものがほとんどなわけですよね。逆に言うと、SNSにいる大衆は批評の力に魅了されているのだとも言える。もちろんねじれた形で、ですけど。簡単に言うと、批評家が嫌いだと言いながら、批評家の真似をしている。だったら、モノホンの批評家は別に嫌われたとかで一喜一憂するんじゃなくて、堂々としていればいいとも思う。今のSNSで流通している批評の真似という点では、ポリコレだってまさにそれですよね。90年代くらいの、ポスコロ、カルスタ、フェミニズム、クィア批評あたりの批評がやってたことを俗流化した形でやっている。昔バルトが広告の批評をやったときはすごい先鋭的なことだったけど、いまや「表現の自由」対「フェミ」みたいになっちゃった(笑)この俗流化をどう考えればいいか。絓秀実にならって言うなら、ポリコレは68年の皮肉な「勝利」だという話になるわけだけど、そういう前衛だったものが通俗化して蔓延するという問題だとも言える。

F:この話は『〈ツイッター〉にとって美とはなにか』の話につながるわけですよね。かつて書き言葉はある種のエリート階級のものだった。カッコつきの「知識人」のものだった。そうした独占状況がSNSの一般化によって変わった。書き言葉が民衆化した。イコール批評が民衆化、大衆化した。批評は、誰もがやるものになっている。それによって、批評家の特権性が失われた、というのが現状。そのなかで批評を生業にする我々に何ができるのか、そもそも批評家っていうのが成り立つのかっていう話がある。で、大谷さんの整理としては、結局ツイッターにおける言葉は、書き言葉と話し言葉のちゃんぽんになっていて、どっちか確定できないがゆえにみんなぎくしゃくするっていうことだった。書き言葉と話し言葉のちゃんぽんという整理はまさにその通りだと思う。では一方で、どういうことができるかっていうことが問われていて、一つのやり方としては、だったら書き言葉と話し言葉をどんどん往復すればいいんちゃう、ということですね。

I:つまり伏見さんの活動で言うと、批評を書きながら、「てけしゅん」や「かぶふら」をやる、ということですよね。

F:そうそう、両方を往還することによって、テクストも多義的に読めるし、喋りも多義的に聞ける。ツイッターがぎくしゃくする問題って、その人の一面だけしか見えなくなっているということですよね。ゆえに敵対関係が起こる。「こいつはツイフェミだ」、「こいつはネトウヨだ」とか、「いけ好かないインテリだ」とか、そういうラベリングが起きて、ラベリングゆえに何を言ってもムカつくみたいなことが発生する。実際自分もツイッターみてるときに似たような心情になっているなって思うし。それを解除するためには、結局、「この人って話すとこんな感じなんや」みたいな実感が大事。その人が持ってる多義性、多面性を表現することは批評に限らず必要だと思うんだけど、それを率先してできるのがたぶん批評やってる人なんですよね。それは批評家が条件として持っておいた方がいいことだと思う。もちろんそれだけで事足りるわけでもないし、他のことももっとやるべきかもしれないけど、少なくともやっといた方がいいことの一つだなと思う。

I:なるほど、これはつまり、「人を見せる」みたいなことですよね。

F:先ほどの「ライフスタイル」の話と通じますよね。

I:これは僕も実際に意識するときがある。僕はボブ・ディランすごい好きだったから、ディランはまさに次々とスタイルを変えて、窮屈さや硬直から逃げ続けた。ディランのエレキ転向のブーイングって、今で言うと、「お前は正義の側だったのに突然冷笑になった」と炎上した、みたいな話なわけですよね。それと徹底的に戦った。「お前はうそつきだ、信じないぞ」って言って。そんでロック三部作で頂点とったかと思ったら隠遁してカントリーやるとか。僕にとってディランはSNS時代にこそ思い出したくなる作家です。

F:この対談でそれぞれが出すフィーリングと、僕らが個別で書いてる批評文って絶対印象違いますよね。対談の書き言葉と、批評文の書き言葉も全然違う。その辺のバリエーションをいろいろ増やすっていうのは一つの戦略。

I:それで思い出すのは、大澤聡『批評メディア論』ですね。文庫化したみたいですが。

F:あ~!読み直さなきゃと思ってたんだ。

I:あれは、批評というシーンが立ち上がったときに、文章だけじゃなくて座談会文化などが大事だったみたいなことを明かした本ですよね。この批評が誰とどんな組み合わせで、どういう話をするかとかという見せ方で、批評のイメージができあがっていったという話。ヒップホップも似たところがあって、誰と誰がビーフして、誰が誰の曲に客演に参加してて、みたいなことは重要。批評も同じなんですよね。この対談もSNSがきっかけで喋ろうとなったわけで、SNSはダメなところはダメだが、そういういい使い方はしていきたいですね。

F:僕はSNS、ツイッター大好きなんだけど、なんでかっていうと、今回の韻踏み夫くんと会って話したのと似た経験を重ねているからなんですよね。ツイッターで知り合った人と会って話すと、ツイッターやるのも楽しくなるのよ。「てけしゅん」の照沼君も知り合ったきっかけはツイッターだしさ。

I:そうなんだ。

F:東日本大震災のひと月後くらいに吉祥寺でオフ会があって、そこではじめて出会ってる。実際に会うのをを繰り返していくなかで楽しくなっていくから。当たり前だけど、どっか一つに居続けると息詰まる。ソーシャルネットワークでの会話と、実際に会うことの往還のなかで生まれてくる自由さを愛しているんですよね。

I:批評の話に戻すと、批評っていうのは公共空間、言論空間に介入していくような面が確実にあり、その意味でいまの言論の中心の少なくとも一つがツイッターというのは否定できない。だから、批評がツイッターのダメさを批判するという戦略も一つにはある。ツイッター的な議論に、実際あんなもんが取るに足らないしょうもないことは自明だが、あえてそこに粘り強く付き合って、内在的に批判しようとするみたいな批評で素晴らしいものもたくさんある。ああいうの偉いなと思うんだけど、僕の感覚では、いつまでも付き合ってられんでしょと思う。既存のメインストリームの言論空間を内側から揺さぶろうとするのも大事だけど、主流と対決するのではなく、マイナーではあれ勝手に自分たちで面白いことやって面白い言論空間を作っていくっていうのも、両方必要。もちろん、今批評書く上で、ツイッター的な言論空間の磁場を完全に無視はできないけれど、その中で面白いことをやろうっていうような人に、僕は共感するし、一緒に上がってこうぜと思う。

F:それこそ、誰もが書き言葉を使えるようになったということのネガティブな側面がいまは前面化している。だけれども、これは過渡期なんだって捉えることもできる。要するに、書き言葉をみんな使っちゃうと、こんなに大変なことになるんだ、っていうのが現状ですよね。でも、その大変は状況がここからどういう風に変化していくか。状況にどのように介入できるか。我々がポジティブに変化させることもできるんじゃないかなって思います。だから、ツイッターがオワコンとか、他のSNSがオワコンって感じは実は全然ない。まあ、いきなりイーロン・マスクが閉めたら終わりだけど。一企業に乗っかってる危うさはあるけど、続いてる限りは別に悪いもんでもない。ツイッターやめたいと思ったことは一度もないんだよね。

I:俺も最近は全然ないな。あんまり期待しすぎてないってのもあるのかもしれないけど。まあさっき、書き言葉の大衆化という話が出て、そういうときにどう批評を書くかという話をすると、たとえば大谷さんもそういう意識があるんじゃないかって気がする。一緒の本を読んで、一緒に勉強して頭よくなっていこうぜ的な、そういうことを感じながら書いている。共同作業は、SNS時代にやりやすくなったこと。僕にも音楽ライターとしての仕事が来ることもあり、もちろん何でも書くわけだけど、そういうときはだいたい新しい音楽なり、誰も知らない音楽なりを読者に紹介してあげる、みたいな役割を負うことになる。それが必要なのもむろんわかってはいるけど、俺の性格的には、なんか嫌。俺のやってることはサービス業じゃない、と思っちゃう。読者が求めてるものを過不足なく安心安全に供給してあげる、みたいなことを自分がするのはあんまり好きじゃない。言い換えると、読者と書き手の関係が、消費者とサービスの提供者、みたいにはなりたくない。だからいつもだいたい、ああまた編集者に「こいつめんど」って思われてんだろうなと思いつつ、反抗的な書き方を忍ばせることになる(笑)僕は読者を一緒に上がって行く同志みたいに思っていて、そういう関係でありたい。そのとき、SNSと連動させてうまくやるやり方がないかなと思ってる。なかなか難しいんだけど。

F:今の話の回答になるかわからないんだけども、ユーチューブ始めたことによって、書くときの自由を得たなと思っている。前はさ、いかに哲学、思想も含めた批評的な言説を多くの人に伝えることができるかというチャレンジを考えてた。ざっくりいうと、ポップとハードコアの両立みたいな発想ですね。『スピッツ論』もそういう気持ちで書いた。そもそもスピッツがポップとハードコアの両立、みたいなバンドですし。でも、大衆的な磁場に開かれているという点では、どんな文章もユーチューブには敵わないとわかった。ポップなことをユーチューブでやるなら、じゃあ文章はハードコアでいいやという開き直りが生まれた。ほんとに哲学的な議論ばかり書いてもいいやと。自分にとってはすごく重要だけどほかの人にとっては縁遠いものも書いていい。一万人とか十万人には読まれないだろう。多くて二百人くらいしか今は読まないかもしれない。けれど、もしかしたら百年後も読まれてるかもしれない。そういう仕事も、ユーチューブのポップ方面を押さえていたらできる。両方をやる、というのが私の戦略なんだよね。どっちもやる、が基本。

I:いやそれ超大事っすよ。まじ素晴らしい話。たとえば僕の場合、単著を出す前と出した後では意識が変わった部分がある。いろいろ頭の中に抱えていたものを一気にアウトプットしたあとには、じゃあ前回ここまでアウトプットしたから次は別の角度を、とか、もっと上級向けに発展させたものを、とか、別の展開が考えられるようになった。仕事を積み上げることで、新しい思考の視界に立てるようになったというか。つまり、なにか形に残すと、楽になるのは後の自分なんですよね。だから、ユーチューブやった分今度はハードに行けるようになったというのはすごいいい話だと思います。さっきの「ライフスタイルを見せる」「人を見せる」という話もそうだけど、「両方やる」はほんと俺もその通りだと思う。有名な話ですが、柄谷も批評とは一人二役やることだと言ってた。二つの視点の幅を保持するときの揺れとか、葛藤とかに、批評って生まれるみたいな話あるから。

F:批評とはなにかとかさ、何をやるべきかみたいな話は昔からよく出るけど、俺の結論は超単純でさ、「全部やる」なんだよね。

I:いやほんとほんと。間違いないっすよ。

F:やれること全部やる以外にないだろ。

I:なんかこうね、こうすべき、これをしちゃいけないとか、そういうのにとらわれてグルグルしちゃってこじらせちゃう人いるけど、だいたい両方やったら解決しますからね。

F:両方やればさ、どっちか一個辛くなったらもう一個に逃げればいいんだから。

I:たとえば僕が日本語ラップ批評書き始めたときに、こいつ偉そうに書いてるけどヘッズの俺の方が詳しいみたいな感じで言われたりしたから、それにむかついて、じゃあオタクレベルに詳しくなってやるぞと勉強したりとかさ。そういう閉鎖性があるから音楽の批評書きづらいとか言ってやめちゃう人いるけど、勉強すればいいだけと思う。批評かオタクか、じゃなくてどっちもやる。だから曲がりなりにも『日本語ラップ名盤100』が書けた。で、300枚扱ったからあとは自分が好きなアーティストだけ書けばいいや、という風に次に進んでいく。

F:そうだよね。『暇と退屈の倫理学』でさ、人間が退屈に感じるのは環世界を移動する能力があるからだ、そして環世界を移動しないと、ハイデガー的な決断主義に陥る、という話を國分さんが書いてる。結局批評やってるうちらも、それと同じだなと思うのよね。

I:ああ、それはめっちゃそうっすね。

F:ツイッターという環世界があれば、Discordで話す環世界もあるし、こないだみたいに東京で集まって飲むっていう環世界もある。それぞれモードが違っていて、そのモードが違うっていうことを楽しんでいけばいい。モードが違う場所を移動していけば、全部が楽しめる。めんどくさいこととかつらいことも、世界にはこのムードと価値観だけじゃないしな、みたいに相対的に見れるようになる。これは批評家だけじゃなく、一般的に普通にみんなにとっても同じだと思う。

I:うん、そこが我々の共感するところですよね。こういうことを言うとまたバカっぽいが、ちゃんとやることやって、行動して、社会にぶつけるという作業が大事ですよね。その積み重ねがないと成長していかないわけで。批評はひとのこと批判するから自分が失敗することを恐れがちになるけど、失敗していいよ、別に。最後にケツ拭けばいいだけだから。僕は大学の時、物書きほど恥ずかしい職業はない、恥かいてナンボと言われた。

F:みんながよく言うような「外部に開かれる」とかってさ、結局自分が社会に突進する以外にないんだよね。突進してぶつかって、ここは壁が突き抜けたとか、ここは鉄でできてたから痛い、骨折したとか。結局、その経験でしかない。

I:ほんとそうですよね。これは、SNS見てバッドに入ることはあるけど、バッドな経験があるからこそ、余計そこからどう切り抜けるかっていう発想が出てくるという話でもある。批評の話に戻すと、こういう時代性のなかで批評するというときには、やっぱり千葉雅也以後ということを引き受けなきゃいけないなと思う。接続過剰をたしなめた『動きすぎてはいけない』もやっぱ、SNS時代にこそ合ってる批評、哲学だったわけで。批評っていうのは本来的にコミュニケーション論というところがあるなというのを、最近よく考えてる。柄谷の交通も、東の誤配も、千葉の切断も、全部そう。絓『小説的強度』のキーワードも「コミュニケーション」。批評は「ライフスタイル」と「コミュニケーション」っていうのが自分の中の説。それで、その感覚は伏見さんの文章にも感じる。

F:それはあります。時代と衝突しつつ哲学・思想の仕事を続けている点で、僕も千葉さんはとても尊敬している。でも余談だけど、千葉さんに唯一思うのは、あんまりロックやパンクをバカにしないでほしいということ(笑)スティーリー・ダンに比べてニルヴァーナはダメだ、とか(笑)

I:千葉さんの音楽への趣味も、音楽批評が考えるべき一個の論点かもしれない(笑)キース・ジャレットが好き、とか。でも、ラップについても、批判的なものでいいから書いてもらえたら熟読したいなと思う。音楽批評プロパーこそ、外側からの知見をちゃんと吟味して考えるべきだとは思う。

F:千葉さんのように、頭良くて知識があり勘も鋭いような人が言うことはすべて正しいみたいに思っちゃうときもあるけど、音楽について我々はプロパーだからこそ相対化できるという強みもありますよね。相対化しつつ、ちゃんと吟味するというのが必要。

I:でも、たとえば昔は哲学や思想の一流の人はだいたい一流の文学に触れてる、少なくとも触れているべきという一致がある程度あった。音楽プロパー視点から、もっと大きい思想や批評、社会、政治を考えるということを、音楽批評家はもっとやっていくべきとも思う。たとえばニック・ランドがドラムンベース聴いてたとか、そういうこともあるわけで。もっと、僕らが聞いてきたような音楽を、もっと大きい議論の土台になるように共有していくことが必要というか。かつては文学がそれだったわけだけど、現状音楽が文学の役割に代われているわけでもない。

F:これに関して僕が思ってるのは、最初の方に言った音楽と文学はひと繋ぎなんじゃないかという話と関連していて、文学読んでる人に聴かせるための音楽批評とか、逆に音楽好きに読ませるための文芸批評とかはやってもいいなって思う。

I:音楽と思想の関連もある。「ハードコア連続体」(サイモン・レイノルズ)と「憑在論」とか。僕がいま書いてる本でやりたいのはそういうことで、日本語ラップを思想化したい。日本語ラップという文化圏からはこういう思想に行き着くし、過去のこういう本も日本語ラップ的なものとして再発見されるし、みたいなこと。それと一緒で、テクノにはそれにふさわしい思想があるだろう。すごい適当に言うと、ジャージー・ドリルを聴きながら思弁的実在論を読む、とかそういうイメージ(笑)ティモシー・モートンというエコロジーの思想家はアンビエントを概念化してる、とか。そうやって、思想と音楽を結び付けるような動きが必要なんだと思う。つまり、いまは音楽ライターが音楽に閉じすぎててよくないと思うな。俺らが聴いてる音楽はもっと思想や社会や世界と関係があるんだってことをもう一度言ってかなきゃ。

F:2000年代には菊地大谷コンビが、音楽を現代思想で語るという動きが雑になってるからということで、それを切断したわけだよね。音楽は楽理としてとらえるべきであり、音楽には音楽特有の歴史があるということを一回やった。たぶん我々はその次の段階の世代ですよね。やっぱり音楽には思想というものがあって、人々の生き方みたいなものが絶対にあるということ。それは楽理から考えることを否定したいわけじゃなくて、思想や生き方に楽理が非常に大きく関わっている、みたいな話をする方が面白いと思うんですよ。

I:うん、その通りですよね。まあこの話はするか迷うが、避けて通れないので言うと、渡部直己も『子規的病床批評』で最後の課題はそこだと書いていた。絓がそういう風に渡部を批判したというのも絡んでるんだけど、テクストの精緻な分析と外の現実というのをどう結び付けるかということが一番難しいところで、答えが出ないと。僕もやっぱり、渡部直己が直面したアポリアずっと宿題のようにずっと抱え込んだままここまでやってきている。テクスト分析とかフォルマリズムはちょっといったんやめていいやというモードでここ数年やってるけど、それを忘れたわけでは全然ない。

F:『子規的病床批評』読んでないけど、批評再生塾でも渡部さんは正岡子規のことはずっと言ってましたね。

I:音楽に政治を持ち込むなというのに対し、「いや音楽は政治的だ」と言うけど、そこで言われる「政治」って単にリベラルでしかない。そうじゃなく、もっと深いレベルで考えたい。

F:音楽に政治性があるなんて当たり前の話ですよ。当然ある。でも本当は、政治性は音楽の形式とライフスタイルの交点に宿る。

I:いやあ、だいぶ話したなあ。

F:いくらでも話せますね(笑)

I:最近たまたまなんだけど、他のジャンルの音楽批評家の人と話す機会が続いてて、音楽批評をみんなでアゲていきたいなってモードなんですよね。もう夢を語ると、どっかが金だけ出してくれて、音楽批評雑誌の編集長とかやりたいっすもん。

F:うちらで「ガチ・最強・音楽批評の本」とか作るか。

I:僕の考えた最強の音楽批評雑誌(笑)

F:馬鹿っぽいけど(笑)作りたいよね。

Y:韻踏み夫と伏見君がいればやれそうだよね。

F:やれるよね。

I:やるか、やれるなあ……。雑誌じゃなくてもムックでもね。じゃあ、私たち「最強の音楽批評本」やりたいと思ってるので、この対談を読んで興味を持ってくれた方がいたら是非お声がけを、お問い合わせはDMまで、ということで終わりにしましょう。大変刺激的で楽しい対談になりました。あと、伏見さんは読者がすごい気になっているようなことをここまで話してくれるんだ、という感じでありがたい限りでした。

F:こちらこそありがとうございました。楽しかった!

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