批評はLife Style −『歌というフィクション』をめぐる対話 pt.1− (対談:伏見瞬+韻踏み夫)
韻踏み夫(I)
伏見瞬(F)
吉田雅史(Y)
I:本日は伏見瞬さんをSCRAPTという無名のnoteアカウントにお招きして対談を取らせていただけるということで、ありがとうございます。まず、このSCRAPTは、いま収録にも同席している吉田雅史と僕が日本語ラップ批評を気軽に書ける場を、ということで去年立ち上げたものです。更新頻度などお恥ずかしいもので、現状われわれ二人が思いついたときに文章をアップしているだけですが、本当は原稿持ち込みとか待ってるぜと思っているし、いろんな人を巻き込めたらいいねとは話していました。それでようやく、はじめてゲストを呼べる、それもいま「てけしゅん音楽情報」が方々で話題の伏見瞬さんにきていただけるというので、大変うれしく思います。それで、なぜ伏見さんが来ていただけることになったかというきっかけを話しておくと、伏見さんがツイートをしてくれていたんですよね。
F:そうそう、僕が先にツイッターで言ったんですよね。順に経緯を説明します。
大谷能生さんの『歌というフィクション』という本が2023年の春に出ました。僕はこの本、大好きなんです。もちろん音楽批評の本だけど、同時に文学批評の本でもある。さらに大事なのが、実はこれは政治性の高い本でもある。いま、若くて批評をやりたいと思っている人たちには、政治と批評が結びつけようとしている人たちが多いなという印象を持っているんですけど、あまりこの本が読まれている様子がない。政治性について考えたい人達の中で、もっと読まれるべきだと思っているわけです。僕は本書に出版前の下読みという形で関わっているんですけど、吉田さんや韻踏み夫さんも同じように関わっていることを知り、だったら一度お話ししたら面白いんじゃないかなと。それこそ、韻踏み夫さんはまさに政治と批評を結び付けて文章を書いている方ですし。まあこうやってちゃんとした収録じゃなくても、飲み会でも話せたらな、くらいの気持ちでツイートしました。
I:そのツイートを見て、是非お誘いしたいと言ったところご快諾いただいたという次第です。それでこの収録はオンラインでとっているわけですが、その前にこのあいだ僕が東京遊びに行く機会があったので、もしできたらそこで収録したらいいし、とか思ってたらまさかあの大雪の日にぶつかり……ほかにも誘ってた人いたけどやはり来られなくなるなか、吉田さん、伏見さん、西村紗知さんはしっかり集まって、やはり批評再生塾出身の人たちは大雪程度じゃ動じないのだなと感心させられたり(笑)それは冗談ですが、つまり言いたいのは、伏見さんとはその時が初対面で、だけど同じくらいの時期に音楽批評で書き始めたという共通点があったんです。批評再生塾のときも、僕は塾生じゃないけど足を運ぶ機会があったのでそこでニアミスしていたりします。何よりも、伏見さんの最初の本である『スピッツ論』が2021年の終わりくらいに出ていて、約一年後ぐらいに僕の『日本語ラップ名盤100』が同じ版元のイースト·プレスから出ているというのもあります。いくつか縁もあるので、お話しできてうれしいなと思います。
Y:二人の世代はどんな感じなんだっけ。
F:それも面白くて、吉田さん、僕、韻踏み夫さんでちょうど10歳ぐらい差ずつ違うんですよね。吉田さんの10個下が僕で、僕の9個下が韻踏み夫さん。だから世代的な差についても話せるかもしれない。
I:書き始めた時期はみんな同じくらいなんだけど、年齢は違って、でも話していると世代差みたいなのは全然感じず、という不思議な。
まずは、互いの本の印象について話すところから話したいと思います。『スピッツ論』を読み返して、面白いなと思った論点がいくつかある。メモをそのまま読むから箇条書きっぽくなっちゃうけど、まず、ヒップホップ批評という観点から見たときに面白いなと思ったのは、スピッツのグルーヴ性に注目していることです。グルーヴというとやはりブラック·ミュージック的なものであり、ロックバンドでありまたJポップ的にも受容されているスピッツにグルーヴの方向から光を当てるという読みが面白いなと思ったし、それに関連してドラムがとてもヒップホップ的リズムになってる曲があるという指摘もあって、聴くと本当にそうなっているじゃんと気づいたり。「名前をつけてやる」とか「青い車」が本の中では挙げられています。
F:スピッツのドラマー、崎山龍男さんのシャッフル・ビートの感覚が、ヒップホップにおけるブーンバップのリズム感に近いと思ったんですよね。
I:それでこれは大谷さんの本とも関わってくる論点かもしれないけど、スピッツの「童謡」性についての議論も射程が広いなと思いました。日本の音楽が西洋近代化するうえで、「唱歌」と「童謡」があり、スピッツは「童謡」性を引き継いでいるんじゃないか、ということが言われています。歴史の掘り出し方もいいし、実感としても納得する。
さらにそこから派生して、スピッツに独特の、幼さと性の芽生えというかエロスが同居した瞬間をとらえる感覚に迫っていくのが刺激的でした。作家のいわく言い難い特徴を批評がうまく捉えていると思ったし、さらにその幼児性を、再生産を拒否するクィア性として読み込んでいく。その読みのドライブ感も批評として面白かった。再生産を拒否するということは、「成熟」を拒否することでもあって、文芸批評での江藤淳の『成熟と喪失』的な議論──伏見さんともつながりのある西村紗知さんの椎名林檎論もそうですが、江藤は昨今再注目されている──もあるのかなと勘ぐったり。まあとにかく文章自体もよくて、読みの手さばきも心地よく、刺激的な視点もあり、面白く読みました。
F:童謡的な要素が性的なものに繋がるっているという風に指摘いただいたのはうれしいです。あの本は、文芸批評の流れを汲みたいと思って書いたところがあります。『スピッツ論』は、世界大戦での敗戦が、スピッツやほかのポップミュージックにどのように影響しているかという話もしている。多くの議論があり意見もそれぞれですが、日本は戦争によって引き裂かれたというのは間違いなく言える。すると、戦前に流行した童謡とか唱歌とかってものが宙ぶらりんになってしまう。明治維新で一回トラウマを負い、そのあと敗戦でトラウマを負ったので、そのあいだに出現したジャンルである童謡や唱歌をどのように捉えていいかがわからなくなる。日本人の国民的なアイデンティティにとって、曖昧になってしまう。その曖昧な感覚を、スピッツは受け継いでしまっている。草野マサムネには童謡っぽくしようって意識は多分ないけど、それを引き継いでしまう、その点に、加藤典洋『アメリカの影』的なものを僕は映しているわけですね。江藤淳から加藤典洋、大塚英志へと受け継がれている議論の接続という意識があった。文脈は受け継ぎつつ、江藤の「成熟」からは切り離す、「成熟」はあえて素通りして性的な体験に近づけるという身振りを示した。『スピッツ論』が文芸批評の流れの中で読まれたら嬉しいなと思っていました。今に至るまで表立ってそういう声は上がってきてなかったので、そうやって言ってもらえたというのは非常に嬉しいことです。多くの文脈とつなぎたい意識はあったので、ラップの批評でも小説の批評でも、あるいは映画や絵画も含まれるかもしないけど、音楽以外のジャンルの批評にも、『スピッツ論』の議論が使われるといいなと思っています。もちろん、否定的に使ってくれても構わない。否定された瞬間は多分悔しがりますが(笑)。大谷さんは『ニッポンの音楽批評150年』で、1945年の敗戦は日本の文化にとって分水嶺ではないという説を唱えているし、そこは『スピッツ論』のオーソドックスな(悪く言えばありきたりな)歴史観とは異なりますね。
後でもっと詳しく話すかもしれないけど、僕は30歳過ぎてから、ナショナリズムについて考えなくちゃいけないなと思うことが増えてきた。その思いの発露が童謡・唱歌の箇所ということだと思います。(読者への註:童謡と唱歌は同じものではなく歴史的に異なるジャンルなので、そのあたりは『スピッツ論』をお読みいただけると嬉しいです)
I:ナショナリズムへの意識は出ていますね。本のなかでは、スピッツとアイヌということについても指摘されている。小学校でも歌われるという話があるように、スピッツというのはもはや「国民的」なミュージシャンであるわけで、その存在が国民的だからこそナショナリズムの問題も出てくるし、批評の側がその国民性を掘り崩すようなマイナー性(クィア性やアイヌとの接点)を作家に嗅ぎ当てていくというのがとてもちゃんとしているなと思ったと言うか。
F:自分で種明かしみたいなことをするのもあれだけど、パフォーマティブな効果を狙ったところもあります。どういうことかというと、20年、30年後に、スピッツってもっと日本にとってデカいバンドになっているだろうと思うんです。誰もが知ってて当たり前みたいな感じになり、偉い立場の政治家とかが「スピッツは日本の心ですね」みたいなことをしたり顔で言い出す未来がなんか見えたんですよ。そうなったときへの抵抗というか、「違うわ」と先回りして書いておきたかった。
I:それは批評家としてまったく正当なことだと思いますね。やっぱりスピッツのような大きい、メジャーな存在を論じるときには広い読者への意識が絶対必要になるし、逆に日本語ラップの場合は国民的たりえないようなマイナーなジャンルという歴史性がある。ジャンルや作家に応じて、批評書くときに取るべき戦略が違ってくる。スピッツのメジャーさを批評が掘り崩す意識があったとおっしゃられたけど、それって実際、文芸批評がやってきたことなわけですよね。「漱石神話」を批判する、とか。もちろんそれは90年代くらいの、カルスタ·ポスコロの衝撃以後とくに顕著だったと思うけれど。同じことを音楽批評でもやる必要を僕も感じてた。
F:そうですよね。韻踏み夫さんとは問題設定や問題意識を共有していると僕も思ったから、話したいなと思っていた。『スピッツ論』の参考文献には挙げてないけど、書くにあたって柄谷行人『日本近代文学の起源』を読み直したし。『歌というフィクション』について語りたいと思ったのも、文芸批評と音楽批評の両方の視点があって、それを繋げようとして実際に成功している本だからです。あの本以上に、上手く文芸批評と音楽批評を繋げるということが僕にできるかな、という風にを思わされてしまう。そして、大谷さんの議論を使ってもっと深めていくようなことをラップ批評のなかでできるのが韻踏み夫君だなと思ったし、僕も若干別のフィールドでですが、近いことをやりたいと思っている。
I:音楽批評と文芸批評というのが今日の大きなトークテーマになりそうですね。
F;はい。では次は、僕の方から簡単に『日本語ラップ名盤100』への感想をお伝えします。まずすごく単純な感想として、超勉強になりました。日本語ラップを聴いてきてはいたけど、つまみ食い的な聴き方だったし、興味が出たりなくなったりを繰り返してきた。抜けている知識も多かった。歴史を総覧したディスクガイドは、大変ありがたかった。
次に、これは大谷さんとの往復書簡でも言っていたけど、「テクスト論」的なことじゃないことをやろうとしているというのが強い印象。いい意味で広告的な書き方をしている、ディスクガイドは広告的にならざるをえない面があると思うけど、「これははじめてゲットーを発見したものです」とか「フェミニズムのはじまりです」とか、かなり意識的にやっていることが伝わる。もともとテクスト論的な批評から出発した韻踏み夫くんだけに尚更そう感じた。
そして、100枚、関連盤含めると300枚を選んで並べるというのを、韻踏み夫君の年齢で、日本語ラップという厳しいリスナーがたくさんいるジャンルでやり切る胆力に敬意を表したいと私は思う(笑)でもこれ、文句とか来た?
I:これがね、驚くべきことに来てないんですよ。少なくとも僕の目には入ってきてない。
F:そうだよね。
I:でもやっぱり、オタクに文句言わせない選盤にするぞというのはかなり強く意識しましたね。(プルルル)ちょっと待ってくださいね、仕事の電話が。(一時退席)
Y;ちょっと繋いでおきましょう。さっきの話で言うと、伏見君の本も、韻踏み夫の本も、やっぱり「批評をやってる」二人なんですよね。別にあなたは「音楽ライター」、あなたは「批評家」なんて区別つけずにみんな仕事している現状がある。だけど、二人は明らかに軸足の置き方が批評にある。批評全体の話とか、音楽批評と文芸批評のポジショニングとか、批評全体の枠組みをエクスパンドさせるということが意識されてる。伏見君の本が出た後のゲンロンのリリースイベントでも、あの本の表面から読み取れないような、「実はこれは批評の伝統的な流れの先に位置づけられてるんだよ」という裏側の意図をスゴく理解できた。韻踏み夫も同じで、今後書籍化される予定の昨年までの彼の連載の文章は、日本語ラップ批評史をまとめて、自分たちの位置も含めてマッピングする仕事をしている。少し自分の話になるけど、俺は今の問題意識で言うと、実作者としての視点からビートやラップの実証分析でなにか新しいやり方はないかという問いにずっととらわれている。でも同時に、一度は棄却された印象批評的なレトリックの復権も必要だろう、ってことも考えていて。批評という枠組みに照らして自分の仕事を考えてる人がまず、絶滅危惧種なわけだよね。自分の名前で本が出せるみたいなポジションで、批評を引き継ごうとしている人たちが本当に少ないと感じていて。だからこそ二人はスゴく重要な立場にいるんじゃないかと。大谷さんの仕事もこの二人が受け取らないと、他にやる人がいないのでは?って思ってしまうくらい。
I:戻りました。失礼しました。
F:会社のあれ?
I:会社ですよ。トラブル発生で。すいません。話を戻しましょうか。
F:僕の感想の続きだよね。読者から文句が来なかったというのは、韻踏み夫君の資料調査の力とか、言葉の手堅さを証立てているよね。「ここを押さえておけばこいつらは黙るだろう」みたいなところをちゃんと踏む、能力の高さみたいなのをすごく感じた。だから、この本は「守備力の高さ」を証明した一冊ですよね。それは重要なことだと思います。
とはいえ、これはディスクガイドの本だからどれも長文ではないわけで、たとえば安倍晋三が死んだときに韻踏み夫君がnoteに書いた文章にある、文学性みたいなものはなかなか表現しにくい。もちろん、九鬼周造とかドゥルーズとかをディスクレビューで出てくるところに、韻踏み夫君が込めたいメッセージは伝わる。そのメッセージが前面に発揮されている本が読みたいと思いました。だから、次の一手がどう出てくるのかということに興味があります。
I:ありがとうございます。同じように批評をやっている人と話すと嬉しいのは、自分が意識したことをちゃんと読み取ってくれるということですよね。最初に指摘いただいた、「これは〇〇」みたいな広告的に作品を位置づける書き方というのもすごく意識したことです。やっぱり日本語ラップの歴史を書いた本はまだないので、その代わりを果たしたいと思った。歴史の提示のために、半分暴力的にカテゴリー化することを選んだ。そのときに、「守備力」が必要になる。音楽批評をやるうえで、「守備力」は大事ですよね。まあ、そんなことを言ったら「てけしゅん音楽情報」のユーチューブをやっている伏見さんの「守備力」の方が半端ないと思うわけですが(笑)
F:守備力ないけどね(笑)よく突っ込まれているから。
I:あ、ほんと?
F:ちょいちょいやらかしてますよ
Y:あんだけの範囲やってたら、そりゃどうしてもそうなるよね。
F:やってる側としては、全体としてこんだけ調べてるんだから許してくれよ、と言いたい。言いたいけど、個別の動画のオーディエンスにとっては関係ないからね。まあでも今のところダメージを受けるわけじゃないし、やりながら修正していけばいいかなと。
それはさておき、さっき吉田さんが、この二人は音楽について書いてる人の中でも批評への意識が強いと言ったけど、それはその通りですよね。そして、『歌というフィクション』に関しては、おそらくこの本に反応するための批評リテラシーが必要なんですよね。吉本隆明や小林秀雄、あるいはアドルノやベルクソンの名前が出てきた瞬間に「だいたいこういうこと言ってんだろうな」と推測できるのが、読み時にはとても役立つ。リテラシーを要求されるから、多くの人がこの本に反応していないのは仕方ない部分もある。でも、批評の書き手や読み手には、この本を読むくらいのリテラシーは持っていてほしいと、僭越ながら思うわけです。もっと『歌というフィクション』に関して強い反応がなきゃいけない。それくらいの内実を持った本であるのは間違いない。
一部の音楽ライターや音楽好きの発言者に対しては、この本の前提となっていることに目くばせしないで音楽や政治とか言ってんじゃないよ、みたいなことは思っていますね。せっかく新刊として充実した刺激的な本が出ているのに、無反応かと。
I:いいっすね(笑)まあでもその空気はわかります。やっぱり新譜だけ追って、音楽の事だけしか知らないとか、そういうんじゃ最終的にはダメですよね。それで今回は上の世代の大谷さんに学ぼうという話でもありますが、順を追いましょう。まず、そもそも大谷能生という書き手についてどう思ってるかという点から入れたらなと。そうだな、まずは僕の場合について話しましょうか。
大谷さんはもちろん音楽批評の一時代を築いた人で、菊地成孔とのコンビでの仕事の数々があり、ゼロ年代批評に大きなインパクトを与えたというのが一般的な理解で、僕も最初はそうやって読んできてはいた。で、大谷さん本人と最初会ったのは、それこそ『日本語ラップ名盤100』が出たときに吉田さんと荘子itさんと東京でやったイベントで、大谷さんも遊びに来てくれていた。その打ち上げでサイゼに行って飲んでたんだけど、当時の話とか聞いたんですやっぱね、どんだけイベントに人が来てたとか、どんだけ本が売れたとか、そういう話に素朴にめっちゃ食らって。「やっぱレジェンドだわ」、みたいな。で、去年から大谷さんとは『出版人·広告人』という雑誌で往復書簡の連載をやり始めたんだけど、始まるにあたって、菊地さんとの仕事じゃなくて、大谷さんソロ作もあらためてしっかり読んだ。やっぱり面白かったり、いろいろ考えたりフィールするところがあった。人にも言われるんだけど、大谷さんと僕は結構書き手としての特性が似てたりするなとも思ったり。昔にさかのぼるのが好きで、啓蒙的に書こうとする。
批評の角度も、特に最初の『貧しい音楽』は本当にすごいなと思った。最初はジャズをすごく、テクスト論的なというか、尖鋭な理論でやるっていうところからはじめて、後の仕事では歴史をさかのぼり、植草甚一や平岡正明の本とかも書くようになる。『歌というフィクション』もその延長で、かつ集大成みたいな面があると思われる。仕事の積み上げ方がリスペクトだなと思いましたね。
F:歴史を掘り起こす人としての大谷さんの側面が全面的に出てるなってことですね。僕の大谷さんとの出会いというか、ちゃんと話したのは『スピッツ論』出した後に大谷さんと荘子it君をゲストにゲンロンカフェでイベントやったときで、その前に打ち合わせがてら横浜で大谷さんと二人で飲んで話した。でも実は、そこからさかのぼること15年前くらい、2007、8年に出会ってるんですよね。佐々木敦主宰のイベントで漫画家の西島大介がXジャパンのコピーバンドをやるという謎展開があったんですけど、そのバンドのベースが僕だったんですね。西島さんが、佐々木敦が絶対好きじゃないバンドのコピバンやるっていうのでXになったんですが(笑)、そこで僕は「エックス!」とか叫んで飛び跳ねてた。で、そのライヴでXジャンプしてたなかの一人が大谷能生だった。そのときは大谷さんのこともよく知らなかったんだけど、互いに酔っ払いながらしゃべったのが最初の出会い。そのあとは大谷さんの本も読んで、客としてイベントに足を運んで、ちょこちょこ話したりしていた。
やっぱり菊地さんとの『東京大学のアルバート·アイラー』は大好きで、何度も読み返した。あの本ではやっぱり、菊地さんのスター性に光があたっているから、大谷さんは目立たない感じでもあった。でも、大谷さん一人の仕事を読んでいくと、やっぱり菊地さんとは異なる特徴が見えてきて、最近の仕事に特に顕著。それは、先ほど話に合った歴史性ですよね。たとえば戦前のジャズを追いかけるとか、音楽の教科書を追っかけるとか、150年間の日本の音楽批評を全部追いかけるとか。そういう売れるかわかんないけどじっくりやるには大変なテーマで本を書くことを繰り返してきた。その結実として、『歌というフィクション』と『〈ツイッター〉にとって美とはなにか』という二冊の姉妹本がある。この二冊で、いままで見えてこなかった大谷能生の核心が出てきたなという興奮があった。
大谷さんは、複製技術に関心があるとずっと言っている。複製技術というのは音楽、映画、文章の三種に通底する問題で、その三つの分野を大谷さんはきわめて綺麗につなげることができている。実際、それぞれの分野全部に詳しい。僕の関心に話を引っ張ると、最近音楽と文学はかなり近しいジャンルだって考えるようになった。どちらにも音楽性とテクスト性が含まれている。ジャンルの違いは音楽性が高いかテクスト性が高いかのグラデーションでしかないのではないか。録音作品と、印刷されたテクストはひと繋ぎなんではないかという印象を強く持っていて、その感覚をうまく文章にできないかと考えているところだった。たとえば小説も、音とかリズムの側面から分析できないかな、みたいな。そういうタイミングで『歌というフィクション』という本が現れて、「なんだ、やられちゃったな」みたいな感じになった。この本があれば、音楽と文学の近似性についてはわかる。自分がやる必要はなくなっちゃったけども、でもこの本があるという上でできることはたくさんあるなと思っています。
I:音楽と文学を複製技術を通して考えるというのは、つまり近代化という問題に繋がっている。その広い射程で論じているなとは思っていて、西洋音楽も西洋文学も近代化の過程で入ってきた輸入文化なわけで。複製芸術のあれこれを掘ることで、近代日本の自明性を崩していこうという方向かなと思います。その掘り進め方にすごい迫力がある。もう一つ、『歌というフィクション』と『〈ツイッター〉にとって美とはなにか』の二冊に共通する特徴として、時枝誠記の言語学、吉本隆明の「自己表出」/「指示表出」、菅谷規矩雄の詩学という三つの理論を縦横無尽に全面展開する、という戦略が取られている点が挙げられる。なんだけど、僕はここのリアリティがあんまりわからない。なんでいまこれを?という素朴な疑問がある。その点、どうですか。人の意見を聞いてみたいと思っていた。
F:僕の場合は結構自然に入ってきたかもしんない。音楽を「行為」として捉えた『ミュージッキング』って本があるけど、時枝がやっているのはいわば「ランゲージイング」なんだと大谷さんは言っていて、行為として捉えることによって言語活動を固まった文法体系ではないかたちで考えられる。「ランゲージイング」としての時枝の展開の中に、吉本の指示表出/自己表出もあって、つまり社会性と私性に言語の性質は分けられると吉本は考えた。菅谷に関してはどこまで理解できているかわからないんだけども、等拍性や加速性として日本語のリズムを考察した。この本が政治的なリアリティを持ったなって思ったのは、菅谷のリズムの話から深沢七郎のエピソードにつながる箇所です。農村で暮らしていた深沢が、みんなが一緒に手を叩いて盛り上がっている場にすごく嫌な気持ちになったという話。つまり、共有されるリズムみたいなものに対する、生理的レベルでの気持ち悪さがある。俺はここで、一気に政治性が出たと思ったんですよ。共同体とリズムをどう考えるべきか。一般的に、共同体とリズムって相性のいいものじゃないですか。同じ音を聴けばみんなが同じように踊るとか。そもそも日本に最初に入ってきた西洋の音楽というのは軍楽で、つまりみんなで同じ動きをして行進して鉄砲撃つための音楽であるわけで、国家とか共同体みたいなものと相性がいい。そうした、共同体=リズムの等式に抗う方法はないのかという話が、菅谷と深沢のところで提出されたなと思った。菅谷から深沢をつなぐリズム論に、『歌というフィクション』の重要性があると思ったわけです。
I:なるほど、ちょっと話が見えてきました。
Y:ちょっと入ります。俺は大谷さんに近い世代だから実感としてわかるところがあって。菅谷ってさ、今は誰も注目してない人ですよね。吉本はいまだに力持ってて読まれてるけど、菅谷は神保町の古本屋でたまに見かけるくらいで。詩論がかえりみられるのは、いまや、現代詩のインサイダーの人たちによってでしかない状況。大谷さんがそういうところに目をつけるっていうのはだから面白い。そこですごいのは、やっぱ理論とか音楽的な正解っていうのはあの人わかってるわけで、にもかかわらず菅谷のリズム加速のようなある種のトンデモ論法のようにとらえられかねない刺激的な論もちゃんと拾っている。「この観点から見たら十分面白く展開できる」と、批評家の手つきで取り出す。音楽家として音楽を精緻に分析する視点と、批評家としてそれを文学性なり政治性に広げる視点の両方を持ってるからですよね。両方をちょうどよくミックスできるのが大谷さんのスゴさかなと。アナリーゼやりながら文学的な文章を書けちゃう、みたいな人だよね。
I:うんうん。僕が理論的な道具立ての必然性がわからないと言ったのは、つまりこういうことです。大谷さんとの往復書簡でも言ったけど、時枝なり吉本なりの言語論というのは一回構造主義、ポスト構造主義が入ってきて切断されたわけですよね。僕は世間で絓(秀実)派とか言われてるらしく、絓派から言うと吉本的なものへの警戒も根強くあったりする。かつ、大学の時にソシュールなりヤコブソンなりバルトなりみたいな言語観を叩きこまれた人間なわけですよ(笑)で、初期の大谷さんの書き方は、構造主義~ポスト構造主義と親和性のあるような感じでもあった。もちろんね、吉本再評価もあっていいに決まってるけど、かつての批判を乗り越えたうえでの再評価なのかという部分が見えなかった。僕のこだわりすぎかもしれないけど。あと、次のようなことも言えます。時枝がソシュールを知っていたという話がたしかあったと思うし、吉本はフランス現代思想かぶれを批判するみたいな人でもあった。それは、西洋的な理論、科学性のようなものへの疑義で、それは一理ある。大谷さんが近代化という問題を考えているという話をしたけど、理論面における近代化の自明視をズラすために、時枝や吉本のような日本独自な理論を使ったのかもしれない。あと、連載で大谷さんに書いた話をしとくと、近代批判というのはそもそもモダンを批判してポストモダンを考えるということだった。他方、僕は現代というのはポストモダンの消費社会的なところやバブル経済みたいなのがボロボロはげ落ちて、端的にネオリベグローバリズムの剥き出しの世界だと思っている。それは68年への反革命であると規定されている。だから、ネオリベグローバリズムを考えるために68年を考える、というような歴史観でやっている。近代批判というのは批評でも昔はすごい流行って収穫すごかったと思うけど、いまこの時代にどこまで有効なのかというのを考えていたりする。まあこれは世代的なズレかもしれないけど。
F:68年の捉え方が焦点になっているという話?
I;まあ、そうですかね。たとえばその二冊でも、吉本を解説するのに、マルクスの疎外された類的本質の回復みたいな話をしてたりするけど、それってアルチュセールとか廣松、柄谷以前のマルクスなわけで……みたいな。かなりの程度啓蒙の意識でやってるとは思うんだけど、今それをやるリアリティが僕にはわからない。
F:『〈ツイッター〉にとって美とは何か』でも疎外論の話は出てきていましたね。労働によって人間が疎外されるというマルクス主義的な図式があり、それに対して柄谷の『マルクス、その可能性の中心』では、そういう疎外論的マルクスじゃなく、『資本論』における交換の話が大事だとされる。柄谷以降は後者のマルクスが重要視されてきた。対して、大谷能生の吉本解釈には、疎外論的な要素がそのまま入りこんでるように読める。でもそれは不思議だよね。大谷さんってむしろもともと理論的には柄谷・蓮實、まあ蓮實の方が強いだろうけど、1980年代以降主流になったポスト構造主義のスタイルから影響受けている人だと僕も思う。柄谷・蓮實的なバックボーン(厳密には柄谷と蓮實の思想もかなり違いますが)に、吉本にある疎外論的な部分を導入できるっていうのが少し驚きなんですよね。その二つが理論的にぶつからないんだ、という。
Y:自分が音楽も実践しているというところがデカいと思う。
I:なるほどね。あと、大谷さんは2018年に『平岡正明論』書いていて、その流れで平岡と同時代的な書き手として吉本に回帰している面というのもたぶんあり、その仕事をちゃんと積み重ねて発展させるというのも尊敬する部分ではあったりする。なんかね、最近同世代の音楽批評でも平岡好きって多くてね。
F:後藤護や赤井浩太ですね。
I:そうそう、平岡の解釈も後藤さんと赤井さんでそれぞれだったりもするんだろうけど。でも、僕も平岡はある程度は読んで、いいなと思うところもあるけど、正直平岡ブームがあんまりわかんないところもある。大谷さんとも話したけど、いわゆる60年安保と68年の全共闘は違うわけで、平岡から吉本へという大谷さんは前者で、僕は後者寄りに重心を置いて物を考えているというのもある。まあ、ごちゃごちゃ言ったけど、なんにせよ、もとは録音芸術を考えようとしていた批評家が、音楽を政治性を結び付けようとしているという姿勢に共感している。だって僕もそうだから(笑)もとは、いわゆるテクスト論というか、ヌーヴェル·クリティック的リリック分析でデビューした人間がブラックパンサー党とか言い出してるわけで。でもこれが、テン年代のリアリティだったなとも思うわけですよね。
F:うんうん。音楽に関して、政治性をどれだけ表に出すか出さないかというスタイルの問題が重要になってくると思うんですよ。これは僕がヒップホップ出自の感覚がないから特にそうなのかもしれない。政治性を表に出すということが、美学の表明にもなってしまうケースがある。そこでどうすべきかなって迷いがある。僕の場合、自分を規定している美意識が、政治性を表立って出さないタイプだったわけですよ。具体例を出した方が伝わるか。僕は中学生の頃からL'Arc~en~Cielが好きだけど、L'Arc~en~Cielの音楽が政治的な表現だったら美意識的に違うじゃん。本人たちが個人として政治的な活動をするかどうかとは別に、ラルクの表現として打ち出すのは似合わないと思うのね。でも、日本語ラップだったら政治的であることがカッコいいという美学が成り立つ。ラップ/ヒップホップにはジャンルの誕生から黒人差別という政治的課題が関わっていますし。
最近の若い批評家は、政治的であることがむしろ美学的にカッコいいという、いわば全共闘世代への揺り戻しのような空気を吸った人たちなのかなって感覚がある。1980年代半ば生まれの僕の時代には、政治的な表現がカルチャーから忌避されていた、あるいは無視されていた。僕の世代的な問題としては、政治的なものを切り離すことによって成り立たっていた美学に影響を受けてしまった人間として、どのように、どのような角度で政治と向き合うか。そういう問題が僕の中にある。世代論として、韻踏み夫君あたりの90年代半ば生まれの人たち、平たく言うとSEALDs以後の人たちとはどうしても視点が変わってくる。逆に言うと、僕の世代でストレートに政治的な人って少ないんですよね。
I:よくわかります。僕も全然もとから政治的な人間だったわけじゃなくて、大学生のときにも運動なんてしてなかったような奴だし。これはよく話すことだけど、最初に『ユリイカ』に書いて、あれはあれで書いてよかったなと思うんだけど、そのあとに続かなくなった感じがあった。テクスト論的なスタイルではもう世間で通用しないなと感じた。で、SNSもどんどん息苦しい感じになっていってたときに、日本語ラップ批評では赤井さんが2019年にすばるクリティーク賞を取った。同世代の批評に関しては『大失敗』、特に左藤青とかも出てきた。僕は同世代では一人だけ先にデビューしていて、それも日本語ラップという狭い世界で書いていたわけだけど、はじめて自分と同じ世代の批評を読んで、批評観もすごく共有できるような人たちが出てきたという感覚があった。たとえば、前に矢野利裕さんとYouTubeで話した時、なんで君らの世代で絓秀実がそんなに読まれてるんだろうねという話になって、やっぱりSEALDsを横目に見ていた世代であることが大きいんじゃないかと気づいた。彼らに完全に同意するような政治傾向ではなくてSEALDsに参加もしないけど、それでもやっぱり同世代として、「彼らは若いうちに何かをやったな。成したな。俺ら何にもやってないな」って刺激は受けるわけですよ。
F;そうだよね。正解不正解はおいといて、なにかやることやったなって感覚はあるよね。
I:とはいえ、違和感もあって自分があれにベットできるなとは思わない、という微妙な感じ。彼らの政治的立場というのは戦後民主主義リベラルなわけで、それを批判的に乗り越えようとするなら、日本で一番ラディカルな戦後民主主義批判の批評家として絓秀実が浮かび上がってきた。だから現状の僕のスタイルは、テン年代後半のときの葛藤を経てできたものの延長みたいな感じ。もちろん現状スタイルをいつまで続けるかとかはわからないけど、いまはそう。
F:僕は韻踏み夫君とそんなに仕事被ってなかったけど、実は『ユリイカ』のマヒトゥ・ザ・ピーポー特集(2023年4月臨時の増刊号)にはどっちも寄稿してるんだよね。あれ書いてた時自分は鬱に近い状態で、すごい後ろ向きなテクストを書いた。一方、踏み夫君はマヒトの政治性みたいなものをちゃんと批判的に書いてた。あれはSEALDs批判の話じゃない。マヒトのやってることはSEALDsっぽいところがあって、実際インタビューも(はっきりとわかるかたちで示してないけど)奥田愛基さんが務めている。
で、僕は政治性を一切無視して、人間が音楽に求めるのは結局子供のときに抱いた幻想なんではないかっていうテーマで、後ろ向きに読めるテクストを書いた。音楽に子供の時の夢とか幻想を見出しちゃうことの問題はずっと俺の中にあって。音楽を聴くことが、どうしても非社会的になってしまう感覚があるんですよ。それは『スピッツ論』にも出てたと思うのだけど。他人とか社会とかに違和感があるんだ、社会がもたらすものは自分にとってリアルなものではないんだ、もっと手触りや実感のあるものが欲しいんだ。社会の変化や正義より大事なものが自分にはあるんだ。そのような、社会への拒否感や違和感をすくい上げるものとして音楽があった。僕が好きになった音楽はざっくり「ロック」に分類されるけど、本当は「ロック」って言葉が苦手。ロックって政治的、社会的、あるいは共同体的なもので、たとえば内田裕也が表してきた価値観や理想はロックの共同性にある僕は整理している。大谷さんも内田裕也をコスモポリタンなロック主義者として描いていたよね。内田裕也とは内実は違うけど、マヒトゥ・ザ・ピーポーにも共同性の希求がある。対して僕がやろうとしているのは、非社会的、非共同体的、自閉的な音楽のなかに、どのような政治性があるかを探ることなんです。
I:めちゃめちゃわかる話です。たとえば、政治運動を長くやってたりするような人と話すと、一般に思われてるのとは逆に、実は運動をやっている人こそ他人が嫌だというか、社会って面倒くさいみたいな感覚を共有しているなと思う。政治運動なんて人間的な面倒くささとどうやっていくかみたいなことが大部分です。ダメになった運動をよくよく見てみれば結局人間関係の問題、みたいなパターンもあるあるです。一つ僕の中で面白かったエピソードがある。僕「批評=運動研究会」とか言って読書会やってて、そこで千葉雅也『動きすぎてはいけない』の話になった。あれは簡単に言うと、人と繋がり過ぎず、いい加減なところで切断するというのを提唱していて、連帯連帯って言う政治的なものとは逆の非政治的なものに思われている。でも、これは運動の場でこそ必要な論理だと僕は思っていた。連合赤軍とか内ゲバって、つまり接続過剰で他人をいい加減なところで切断することができなくなったからああなったとも言える。だから僕は運動の場にこそ切断の感覚は必要だしそうでしかありえないと思ってる。そんな話をしてたら、研究会に来てくれてた、某それなりに知られてる活動家の人も、自分も『動きすぎてはいけない』をそう読んだみたいに共感しあえたというのがあって、やっぱそうだよなと思ったというか。
F:なるほど。今気づいたけど、さっき僕が言った非社会的もののな政治性って、柄谷行人の古井由吉論と同じこと言ってるよね(笑)内向の世代こそ政治的なんだという主張。
I:いやでもそれって本当に大事で、「文学的」な問題というのを忘れたら必ず足元すくわれるわけで、SNSでギャーギャーをやってる人たちにはそれがないから大変よくないよ(笑)ドゥルーズ=ガタリの言葉でいう「ミクロファシズム」的なものがあまりに溢れているし、それへの警戒も忘れられている。
F:これはまだ答えが出てなくて本当に問いでしかないんだけど、今の日本で政治的なことを考える、政治運動や言論活動としてアウトプットするときに、どんなにリベラルな思想家だとしても根本的にはナショナリスティックにならざるをえないんじゃないかと感じる。別にそれは悪いことじゃなくて。今に至るまでの日本は、ナショナルなものが脆弱であり続けたんだと思うんですよ。誰かが言ってたけど、たとえば台湾人のひとや、韓国人のひととかから見ると、日本はおこぼれで民主主義を達成しちゃった国に見える。それはたぶん本当のことで、うちらとしてもそう感じるわけだよね。1945年の敗戦で、アメリカが入ってきて、アメリカが民主主義っぽいことを導入したおかげで、日本に住む我々は民主主義アンド資本主義の流れに乗った。相対的に裕福な生活をできる国で過ごしている。
I:たしか河上徹太郎に「配給された自由」というのがありましたね。民主主義も戦後に配給されただけだ、という話。
F:そうそう。韓国とか台湾のひとは多くの犠牲を生みながら自分たちで獲得したという歴史意識があるわけじゃない。隣国と比較して、日本における「配給された自由」を批判的に考えるとしたら、ナショナリズムを形成しましょうって話にならざるをえないんじゃないかなと思うのよね。日本には安重根がスターになったみたいな、国民的ヒーローが生まれる過程がなかったのもナショナリズムの不在と関係している。平岡正明とかでもいいし絓秀実とかでもいいけど、左翼政治の思想を受け継いでいる人たちはそこをどのように考えてるのか。政治思想的にはちょっと素朴すぎる問いかもしれないけど、韻くんに聞いてみたい。
I:まあこの話は繰り返されてきたことではあり、いろいろ言えることはあるわけだけど、今のきわめて重要な問題を最もクリアにしたのは絓秀実『天皇制の隠語』になるでしょうね。例によって難解なんだけどさ(笑)簡単に言うと、「日本資本主義論争」という30年代に起きた共産党内部での、講座派と労農派のあいだでの論争の重要性が評価されている。どんな論争だったかというと、まず、マルクス主義のなかではブルジョワ革命で民主主義と資本主義が達成され、そのうえでプロレタリア革命が起きて社会主義が実現されるという話がある。マルクス主義のヴィジョンを日本に当てはめると今の日本はどの段階にあるのか、ということが問題になる。講座派が言ったことが、伏見さんの問題提起と繋がると思います。つまり、日本はブルジョワ革命が起きていない、封建的なものを残した社会であり、まず封建的なものを一掃するブルジョワ革命を起こすべき。その次に社会主義革命を、という二段階革命論を唱えた。「封建制」って言葉は吉本隆明も『転向論』なんかで使うけど、そのとき「封建」的なものは何を指すかというと、つまりそれが「天皇制の隠語」にほかならないんだ、という話でもある。日本人は民主主義を勝ち取ってない、という話で言うと、勝ち取れるとしたらそれは人民が天皇制という封建的なものを廃絶させたとき、になるわけですよね。そのときナショナリズムが求められるというのも、絓は書いています。「日本共産党=講座派理論に規定された戦後思想は、陰に陽に「ナショナリズム」の相貌をまとっていたと言える。それは、ブルジョワ民主主義革命を経て社会主義革命へといたるという二段階革命論が、その当初の第一段階(民主主義革命)においては、国民的な統一戦線を要請するからでもあった(……)「半封建的」と規定された日本の社会を西欧的な真の「市民社会」へと改鋳することは、すなわち、真のナショナリズムを要請することになる」云々。伏見さんの言ったことというのは、つまりはこの問題ですね。対して労農派は、明治維新がブルジョワ革命だったとして、いま必要なのは社会主義革命で、一段階革命の立場にたった。ここには、猪俣津南雄なんかがいて、津村喬へとつながって、津村から絓が出てくるという流れはあるわけだから、絓も労農派的なものの線で考えたいということなんだろうと思う。これ以上は長くなりますが。
F:なるほど。
I:批評史的には以上のようにように言えて、もう一個、この問題は日本語ラップとも関わってくる。なぜなら、キングギドラやRHYMESTERたちにとってヒップホップというのは、日本の近代化不十分で封建的で未熟な主体を変革するようなものと捉えられていたからです。ギドラは後に右傾化したけど、彼らはモダニストなわけで、さっきの話で言うと講座派的な観点を見出すことができる。そこも考える必要があるなというのは、前から思っていた。
F:RHYMESTERには二段階革命派的な考えがあるという整理でいいのかな。
I:もちろん彼らはマルクス主義者じゃないからプロレタリア革命を起こそうとはしてないけど(笑)、日本の近代化の段階をどうとらえるのか、それをまだ不十分と見なすという意味では、そうですね。
F:一回はちゃんと近代化しなくちゃいけない。そのうえでもう一段階、の流れでやらざるをえないという認識なわけですね。
I:僕も絓が言うように講座派的なものがすべて正しいとは思わないけど、日本語ラップを評価するうえで、その線からの評価も一面では必要だとは思っている。
F:今の話で思い出したのは、『群像』24年3月号に掲載された蓮實重彥「ミシェル・フーコー『The Japan Lectures』をめぐるインタビュー」。フーコーの日本での講演を英語で翻訳・編集したアメリカの学者が、フーコーの通訳を務めた蓮實に質問状を送る。その質問に回答するという主旨の文章だけど、あそこで天皇制批判が全面的に出てきてている。俺はそこにリアリティなくて。あ、そんなに天皇制にこだわるんだ、と思って。僕は、ぬるい立場かもしれないが天皇制なんて利用すればいいじゃんと思ってるふしがある。社会を安定させるために、国民があまり不幸にならないような、極端な社会的不幸を生まないような均衡で統治すればいい。たとえば英国がそうであるように、政府と国王があっていい、実務的統治と象徴的統治は別にあったほうがいいみたいな。保守的ともいえるけど、自分はそうやって考えちゃう。おそらく、大塚英志とかと近い立場になると思うけど。だから、天皇制批判についてのリアリティがそこまでない。
I:なるほど。まあ、もちろん僕は天皇制反対であり、でも天皇制批判の理屈もいろいろあるからややこしくて、論争するつもりもないんだけど。
F:最近の批評家で天皇制の部分的受容みたいなことを言っているのは、管見の限り、おそらく僕と西村紗知だけなんだよね。天皇制しょうがなくね、みたいな立場。西村さんはもっと細やかな人だし、「それは違いますわ」というかもしれないが。批評という文化にこだわらない人たちも、天皇制はなくすべきだと強く主張する人いますよね。高島鈴さんやimdkmさんはそのような立場に見受けられる。天皇制に強い興味を持つ人がたくさんいるのが、僕には興味深い。
I:まあね、たとえば外山恒一さんとかはバカな大衆には天皇制でもやっとけ、みたいな理屈で天皇制別にいいといってたりはするけどね。とかもありつつ、別に人それぞれの立場があるだろうから口出しするつもりはなくて。
F:ちょっと単純なことを言うが、天皇制を否定するのか肯定するのかという違いだけで分かれて憎みあうのもね、感覚的に違うと思うのね。
I:そりゃそうっすね……とか言ってたら他の左翼から怒られるかもしれないけど。つまり、天皇制の議論は複雑で、多少その複雑さを知ってるのでここでいま長々と講釈垂れるのも対談の趣旨から離れていっちゃうのでどう言おうか迷ってるわけですね、僕は。最近僕が書いている文章に即して言うと、90年代頃に「J」というワードが少し注目された。JポップなりJ文学なり。それで浅田彰が「「J回帰」の行方」って文章書いたり。そういう「J」な風土というのがあり、批評も問題にしてきた。それはさっき言ったような、日本のナショナリズムを成立させうる伝統とも切断されていて、かといって封建的な遅れたところも残っており近代が確立されたわけでもなく、曖昧でなあなあ。そういう状況で、なんというか、ぬるくてなんとなくなナショナリズムが回帰するというのが「J回帰」ですね。「伝統的な日本」ではなくて、その薄っぺらいシミュラクルとしての「J」。
F:J=ジャンク(絓秀実)ですよね。
I:そう、「なんでもよく、どうでもいい」という雰囲気。そういう「J」な雰囲気というのにわれわれは閉じ込められている。音楽で言うとむろんJポップで、なあなあな作品しかチャートに載らないみたいな社会。今言った、「J」な風土に強烈な嫌悪感を抱いてきたジャンルというのがやっぱり日本語ラップで、「J」と戦ってきた文化なわけですよね。僕は思春期にそこに共感して、日本語ラップにハマったところもある。で、「J」な風土への批判を突き詰めていくと、最終的には天皇制の問題になるわけですよね。浅田が「J天皇制」と言ったように。この、なんとなくゆるーく包まれていて、居心地はよくても統治されていて、みたいなJ=天皇制の風土はやっぱりなんか違うんじゃないのか。実際、宇多丸はそれに行き着いてちゃんと「キ・キ・チ・ガ・イ」で天皇制批判を歌ったわけですよね。「J」な風土=「J天皇性」への対抗として、日本語ラップの可能性は感じてるかな。
F:BAD HOPの「内なるJ」という言い方がいかに巧みだったかという話だよね。
I:そう!まさにそうです。やっぱりBAD HOPと僕は年齢が一個違いだから、肌感覚でも共感できる。
F:「内なるJ」をどう解除するかみたいな問題設定は自然と出てきちゃうってことだもんね。
I:日本でヒップホップを聴くってことは、全然違う文化の音楽を聴くってことであって、「J」の外へ出る体験なわけで、そういう日本語ラップの社会的な意味みたいなのを考えたい。その点、ロックはどうなんでしょうね。
F:うーんとね、一緒ですよそれはたぶん。通過してきた問題設定も一緒だし。それこそ「日本語ロック論争」って「内なるJ」問題だと思うんですよ。海外の、特にアメリカから来た文化に触発された人間は、「日本語ロック論争」もそうだし、「日本語ラップ論争」もそうだし、ナショナリスティックな問題を通らざるをえないんじゃないか。日本語がラップに向いてないみたいな話は、まったくもってはっぴいえんど的なテーマだし。そこはロックとヒップホップに共通だと思う。
I:うんうん。
pt.2へ続く
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