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ヒップホップにおける上部構造/下部構造論――「ゼロから聴きたい日本のヒップホップ」をもとに (text by 韻踏み夫)

SCRAPTにこれからどのような記事を上げていくか、それをはじめの挨拶の代わりに示すために、私と吉田雅史で一本ずつ書いてみようということになっている。そこで私は、先日2022年10月26日に、神保町の美学校にておこなった講座、吉田雅史feat.韻踏み夫、荘子it「ゼロから聴きたい日本のヒップホップ」で出た、興味深い論点を拾いつつ、考えてみたい。

ことは、トラップのビートについての話題においてだった。荘子it氏がさすがの聡明さをもってまず整理したことは、次のような、知っている人は知っているが、いまだ十全に共有されているかは定かではない、ごく基礎的な分類である。すなわち、ヒップホップのビートはまず、上下に分けられる。「ウワモノとビート」であり、それを――いつ誰がこのような表現を用い始めたか、不勉強かつ怠惰にしてまだ私は特定しえていないのだが――「上部構造」と「下部構造」とも見立てうる。下部構造とはドラムとビートから成り、リズム、グルーヴを下支えする。そこに、主にサンプリングによって持ってこられるウワモノが乗り、曲の世界観を表現する。マルクス主義的な語彙を用いることの必然性はほとんどないが、しかし物のたとえとしては案外出来のいいものである。実際、ヒップホップにおいてはなによりドラムこそ唯物論的な土台としてあるはずであり、リズムがなにより重大であるはずだからである。とはいえ、下部構造がすべてを決定するわけではなく、上部構造は実際「相対的自律性」をおそらく有しているのだ。むろん半ば言葉遊びにすぎないがしかし、言うまでもなく、ウワモノにもまたリズムがあり、それとの相互作用によって、ビートのリズムは表れるのだ。

そのうえで、「ゼロから聴きたい日本のヒップホップ」というタイトルで、私が本当は吉田雅史にしてもらいたかった話は、次のようなことである。初心者はヒップホップをどのように聞けばよいのか、オーソドックスなヒップホップの「鑑賞法」はどのようなものか。むろん自由に聴けば良いが、初心者は案外、道を示して欲しがってもいるのだ。上部構造/下部構造論からすれば、以下のようになるだろう。

ヒップホップを聴くにはまず、だから、ドラム/ベースと、ウワモノを分離することが必要である。ドラムの何を聴くか、思うにそれは、リズムと鳴りという二種に分けられる。むろんまずはリズムで、つまりドラムが、キック・スネア・ハイハットがどのように「配置」されているかを聞き分けなければならない。このとき、補講動画で吉田が言うように、ブーンバップにおいてドラムは基本裏打ちであり、つまり二拍・四拍にハイハットが打たれる。だからハイハットはとても大事で、このハイハットの鳴りに、多くのビートメイカーがこだわっている。ハイハットの一打に職人技が込められており、その微細な点になによりのこだわりがこめられていたりする。ついでベースであり、優れたビートには快楽的なベースラインがついて来るものである。たとえば私はGangstarr「Just To Get A Rap」、あるいはtofubeats「Lonely Nights」のベースラインがとても好きで効果的な例のように思われるが、このあたり私は豊富に例が浮かぶわけではないので吉田雅史にいつか、「この曲のベースラインがスゴい!25選」のような文章を書いて、補足してもらいたいものだ。

対してウワモノを巡ってもきわめて広い世界が広がっている。むろんまずは、『Ultimate Breaks and Beats』があり、レアグルーヴの時代があり…といったことがら。あるいはウワモノ自体が一層とは限らず、コラージュ的に多層化して進化していったということ。切り取り方が複雑化していったこと。こうした歴史についても、吉田雅史がこれから先、見事に整理し直していってくれることだろう。

こうしたブーンバップ論の再定義が必要とされつつ、しかしイベントでは、この上部構造/下部構造論のさらなる応用編が語られた。トラップとはなにか。とりわけその超低音をめぐって、荘子it氏はそれを、下部構造のさらに底を抜いた領域であるとし、トラップにおいては上部/下部/超下部といった三層構造になっているのではないかとの論を展開した。このことの意義については、深く考える必要があるかに思われる。トラップというあまりにダークなジャンルが世界のポップミュージックを席巻したことは、どう考えても異様な光景で、ここから一つのテン年代論が楽に捻り出せそうなくらいの論点を秘めているかに思われる。だから、この三層構造論と、テン年代的な社会、政治状況を絡めた批評を誰かが書けば面白いだろう。

さらに、荘子it氏による自作解説のパートでは、Dos Monos「暗渠」のビートがビートレスでありウワモノのみで構成されていることについて語られた。つまりそれは、上部構造一元論というかたちを取っているのであり、それは荘子it氏がイベント中複数回言及することになったアール・スウェットシャツからの影響であるともいう。こうしたビートレスな一元論的なビートは、唯物論の反対であるから観念論的ビート作成法と言ったら言葉遊びが滑りすぎであろうか。しかしドラムは上から下に叩きつけられることで音を発するのであり、おそらく大地を必要とする楽器なのであり、そのドラムを抜くということは大地から浮遊するということなのであり、そのような足場のなさと「暗渠」という特異な、非/反現実的なトポスを描くという一曲の主題はきわめて緊密である。さらにそのウワモノによるリズムは四拍三連という、いわば不安定なリズムであるというひねりがさらに加えられており、そのリズムを強調するために冒頭ではあえて頭韻(「この手」「コノテーション」「これ」)で踏むというスタイルを取ったと言う。つまりリズムから導かれて、韻の形式においても、一般的な脚韻からの浮遊が試みられているわけだ。実際、ニコイチ的な脚韻とは、弁証法的な統一の技法(二つの文が対立しつつ統一され、話のオチがつく)だが、頭韻とはむしろ脱構築的な技法で、文が部分と部分に散発し、こすれあいながらズレていく技法である。この点について、およびこの点にかかわる政治性については、かつて私は「ライミング・ポリティクス試論」(『文藝』2019年冬季号)で、いとうせいこうとキングギドラの比較を通して書いたことがあるので省く。さらにリリックの語り(ナラティブ)の点でも、この曲は特異であると言う。曲の前半部は、暗渠に住むレジスタンスのようなイメージの、いわばフィクショナルな人物の声を歌っているが、いつしか荘子it氏自身の実存的なものが歌われ始め(後半「蕩尽しない荘子it」と語り手自身の固有名が登場する)いわば二つの語り手が混じりあう。つまり、一般的には、ラップのリリックの語りは、作者(現実)=語り手(語り)=登場人物(物語世界)という「自伝契約」(フィリップ・ルジュンヌ)的な同一性を担保に現実と接続されているが、このラップのリリックの安定性がここでは撹乱されているのだ。

きわめて徹底した一貫性を持った錯乱。そうしたものがDos Monos作品には仕掛けられているということが、荘子it氏自らの口から直接展開され、私はもはや批評家としての自信をすっかり失ってしまうほどに感心してしまったわけである。それはさておき、そろそろ適当に話を切り上げることにするが、上部構造/下部構造論をいい例として、私たちはヒップホップの分析のための概念装置を作りあげ、使用しつくし、応用していかねばならない。そのことが日本語ラップ批評を鍛える。そのような試みも、SCRAPTがやりたいことの一つである。

韻踏み夫

※同イベント「基礎教養シリーズ〜ゼロから聴きたい日本のヒップホップ〜」は下記URL先のpeatixリンクよりアーカイブ公開中です!
https://bigakko.jp/event/2022/japanese_hip_hop


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