喜ばれるから、喜びを得る
嬉しいこと、楽しいこと、たくさん得たいと思います。でも、「自分がうれしい」の前に「だれかが嬉しい」があったほうが、人生、もっと楽しくなるんじゃないかってことです。
1、「嬉しい」は長い幸せをもたらす
いいこともあれば、悪いこともある。そんな起伏を繰り返すように、人生の時間は流れていく。その中に「嬉しい」と思うことも度々起きる。さて、その「嬉しい」とはどんなことでしょうか。
春の季節であれば「試験に合格する」ということは、よく言われる「嬉しい」できごとの1つですし、長い冬が過ぎ、いよいよ晴れの日に春の芽吹きを感じるようなときも、「嬉しい」と思えることでしょう。
もちろん、親族や家族の「結婚や出産」といったライフイベントもそうでしょうし、日常生活の中で「くじがあたった」「おまけが付いた」「いつも買うコーヒーのメッセージ」に嬉しさを感じることもあるでしょう。
そうした「いい出来事」は、いつも、いつでも、そしていつまでも思い出せるような出来事になるでしょう。だから、「嬉しい」を人生に増やしていく、あるいは「増えていく」ことは、自分で自分の生きる時間を生き生きとさせていくようなもの。もっともって増えればいいのに、そう思うことでしょう。
2、「誰かが嬉しい」は「嬉しい」を引き寄せる
世の中は「他者」がいて、自分がいる。目の前に困った人や助けを求めている人に、ちょっと関わるだけで、其の人の「嬉しい」をもたらすことができる。
例えば、車を運転しているのであれば、「右折したい人」に道を譲ることや、路線バスが停留所に止まっていたのであれば、発車に合わせて先に道を譲る。大型トラックが曲がるときは、交差点の少し手前で待つ、など、ちょっとの工夫で「相手のドライバーの嬉しい」につながっていくことでしょう。それが「今日はラッキーだった」と思ってくれたら、たかが1つの出来事も、連鎖していけば「世の中のストレス」は減っていくことになるかもしれないのです。
電車の中で、荷棚に荷物が届かない人の代わりに、載せてあげる、下ろしてあげる。ベビーカーの親子がいたら、ドアの乗降時に先に通すようにする。
お店で買い物する時に、雨カバーを付けてくれたら「ありがとう」と言う、とか。荷物を届けてくれる運送会社の配達員の人に「重たい荷物をありがとう」と一言言ってみる。
誰もがやれることは、身の周りにたくさんあるのです。
みんなが、文句やクレーム、苛立ってたら、その負のオーラは連鎖していくでしょう。
みんなが、感謝ややさしさで接していたら、それがプラスのオーラで連鎖していくのでは?
確証はありません。でも、一人を幸せにデキる人が、その先も幸せや喜びの余裕と気持ちを作る。としたら、「誰かがうれしい」は「その先も嬉しい」ですし、そして「自分も嬉しい」になり、やがて「嬉しいが返ってくる」と思うのです。
3、イライラが溢れている
街中のあちらこちらで、イライラする人を多く見かけるようになったと思います。きっと心の余裕がなくなっている証拠。「遅い」「ちがう」といったことにすぐカッとなってクレームや罵声を浴びせる。
そんな人が街中で多く見られるようになってきました。そして、しまいにや、自分で巻いた種や失敗でさえも、他者や店員に文句や怒りをぶつける。それをしたところで、自分も相手も不幸になるだけ。
どうしてこんなに社会は「負」で人と接するようになってしまったのでしょうか。「相手に勝つ」や「自分は負けない」といった「対立構図」も、こうした「不安定の心」から生まれるトゲのようなもの。
勝ったところで一時の喜び。負けたところで一生続くわけじゃない。けれども、当事者だけは「ずっと積年の思いとして、負の感情を頂き」続ける。いい加減、こうした人間関係は、世の中から減らし、そして消して行く必要があるでしょう。
文句よりも感謝を
無視よりも関与を
無言よりも謝意を
すべての人が、今と真逆の方に動くだけで、どれほど社会全体がやさしくなれることか。
今日は、スーパーで、手押し車で買い物する高齢者の方が、買い物カートの片付けが両手ふさがって大変そうだったので、お声がけして代わりに片付けてきました。
きっと、イライラした人は「どけよ!この野郎!」を罵声を言うでしょう。でも、僕はそんな発想もなく、「これ、片付けておきますね」「あら、ありがとう」で一件落着。
どっちがいいでしょうね。絶対後者だと思うんですが…だってそのおかげで、出口もスムーズに出られるようになるんですから、自分だって損をしてないのです。不幸せな人生は、考え方、見方からくるってのも納得がいくような気がしました。
明日は、どんな「嬉しい」ことが待っているでしょうかね。