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実践するほど沼と森しか見えない

人間は、前に進むから髪の毛が後退してハゲる。と言ったのは他でもない、あの孫正義氏ですが、そんな稀有な時代を変えるリーダーのスピードや能力とは異なり、一般人には、風さえ感じぬスピードでゆっくり進むしかない。なぜなら、そんな加速する筋肉も動力源もなく、自らの身体能力の限界まで接しながら、進むしかないからです。

1、学ぶほど、「知らない」が増えていく

学習とは学ぶこと。そしてそれは「達成感」などという言葉とともに、いとも簡単に成果に至るような錯覚に陥る。確かに、受験勉強などでは、1年間の努力と積み重ねが、合格という成果をもたらすのかもしれない。

ただ、冷静にみれば、その受験における勉強など、多くの人にはそう受け取れないかもしれないが、「基本的なこと」しか聴いてこない。つまり、「できる人には100点、出来ない人には数点という極端な難易度でしか設定されていない。

よって、一定の学力(机に向かって、言われたことを素直にやる)さえあれば、誰でも東大までは合格できる。(これはほんとです)

けれども、入学後の高等教育である「大学」は、答えが見つからないか、問題が捉えられない課題を突き詰めるところ。そこには、人類や研究者が時間を費やしても、いまだ解決に至らない最前線で、最難関な問題に立つところから、真の「勉強」が始まる。学問を究めるとはそういうことなのです。

2、知るほど、「わからなく」なっていく

大学の4年間で達成できる学問は、大したことはありません。高等教育でいう「研究」のほんとスタートラインにつく最低限をようやく身につけた辺りが4年間の学びの成果。したがって、大卒(学卒)は、学びの分野ではほぼ大したことがない。社会にでたり、研究者からみても、「やっと話が聞けるようになったんだね」と言われる程度のレベル。

だから、就職してもますます学びが必要と感じたり、さらなる試練の道しかみえないのです。それも「山」ではなく、ただひたすらに地平線の彼方まで「道路が続いていく」ようなもの。

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ゴールなど、社会人10年たっても、20年たっても、見えないのです。先日、輝かしい成績で5冠を達成した藤井聡太棋士の「森林限界」という言葉が話題になりましたが、そんな「森林のキワ」までいけたら、ほんと素晴らしい。

いまだ、自分は森の中。いや知るほどに「森」はどんどん広がっていき、いつまでたってもこの森のハテを見つけられないのではないか、と迷いさえでてくるほど。

富士山という誰もが眺めるいただきを、遠くに眺める限りは、頂上は見えるけれど、いざ麓に行けば、無限地獄ともいえる樹海が広がっている。一度入れば方位さえわからなくなり、果てしなくさまよい続ける。そんな気分と全く同じ。「頂上が見えた」「ナン合目まできた」など安々と言える気分など、社会にでてから一度も思ったことさえないのです。

3、わからないほど、「考え」続ける

そんな、永遠と続くような道だからこそ、わからない分、考え続けるのが日々の行動であり実践。そして、考えるほどに、新たな発見と気づきがあり、それがまた今まで見ていた地図と景色をどんどん拡張させていく。広がるのは思考の沼と毎日変わらないたくさんの木々…あっちの木をみて違いに気づけば、こっちの木には違ったことがおきている。

かつて印をつけた木も、再び来ればまた変わっている。進んだ道も、いきなりやってきたスコールでぬかるみ、流され、道がまた変わっていく。そうした変化のさらされながら、破壊と前進を繰り返し、道なき道を歩む。一生かけても「何かを成し遂げる」なんていう実感はないかもしれない。いや、何も出来ずに人生が終わるのだろうということがやっとわかったのもこの20年以上の時を経てからです。

4,「実践」と「実行」と「実施」

なにかの事柄を「実践」するとは、自ら手を加え、信じたものを執り行うことであり、「神の教えを実践する」のように、信望したものなの「自ら」が起点となって行動に移すことを指す。

一方で、「実行」とは「計画を実行する」など、客観的事柄が”これから”動き出すことを示し、そこに恣意や想いは入らない。

そして、「実施」とは、「新体制の実施」など、こちらも定められた事柄が”はじまった”という形で用いられる。

どれも「行動」をともなうようで「異なる意味」を持つ。

自らの学びや経験を活かし、改善するとき、それぞれの単語は異なる印象を与える。

「学びを実践する」

「学びを実行する」

「学びを実施する」

一番目は「これから」という印象であり、それがどんな結果をもたらすかについては、あまり深く考えられていないような印象を与える。何よりも「信じた、決めたもの」が正しいというスタンスから始まっているようだ。

二番目は「具体的に定められたものを手順通りに進めていく」という形でなければ「行い」はきっと「実」にならないだろう。準備と詰めがしっかりなされた結果でなければ、「実行」は成し遂げられない。

3番目は「もうすでに取り掛かっている」という形で、動き出し始めているような行動の形であるといえよう。

どれが正しいかなんてのはまだわからないし、それぞれの考え方に寄るだろう。でも、きっと「実践」は信じる強さ、決まっていることが固いからこそそう信じて進むのだろうと思う。

「実行」なら十分な準備と具体性を持つから、討ち死にすることはきっとないだろう。「実践」の達成感は、信じたものがそのとおりに言ったからこそ得られるもの。希望しない結果や至らないことを「討ち死」として片付けてしまうことが、果たしていいことなのか、僕にはわからない。

ただ、そうやって「できないもの」として可能性を閉じてしまったとき、考える森や、さまよい続ける沼はなくなり、見えていて、安全な湖畔を何周もしながら、いつも同じところスタート地点という安心感を得る世界に閉じてしまわないだろうか。

誰も来ないところに、外からの言葉はもちろんとどかない。そして、その湖畔で響いている言葉は、己の言葉のやまびこだとしたら…。

「孤独」という安全地帯は、確かに傷つかないのだろう。

届くか分からないけど、一言だけは言える。「Yahoo!」


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