見出し画像

登るスキルと下るスキルは違う

登山が幅広い世代に人気ですね。冬山登山でむちゃして遭難する方もいらっしゃいますが、「そこに山がある限り」人は挑みたくなるんでしょう。そんな山だって、「登る」だけじゃなく、安全に、怪我なく「下る」ことも出来なきゃ意味がない。それって違うスキルが求められる気がしているのです。

1、「登ること」と共通するもの

山に登るときに必要な能力やスキルって一体なんでしょう。まあ、まず第一に「体力」ですよね。途中で辞めることのできない山登りは、長時間運動するための基礎体力は不可欠。だから登る前から「訓練」をして登り切るだけの体力はまず持たなければと考えるわけです。

そして、登っていく上で、なるべく体力を消耗しないように「ルートの調査」と「天候による臨機応変な判断力」も必要ですね。予め様々なことを想定して、途中で道がなくなっていた時など、違うルートを設定しておかなければ、そこで終わるわけにはいかないからです。

もちろん、天候が急変して、一時雨宿りや、下山の判断をしなければならないときもあるため、空の様子を見る観察力や状況判断力の的確さも求められていきます。結構、登山や「頭」も使うような気がするのですよね。

そして、最後に、長く単調にも思うことがある登山をする「精神力」ですね。諦めず、一歩ずつ進んでいく。やりきる力というか、頂上まで進む忍耐力とでもいいましょうか。

ここまであげると、気づきませんか。あれ?これって受験勉強にも共通するものではないかと。体力を「学力」と置き換えれば、過去問を調べる調査力や、試験でどの問題から得かを臨機応変に考える「柔軟性」、そして目標の学校までの合格を勝ち取る精神力…登山の「登る」という行為には、頂上という目標を定めて進んでいくことに共通するすべてが体現されている、と思うわけです。

だから、バリバリのキャリアの人や高学歴のしごとも一生懸命で忙しい人なんかが、ハマるのはそういうことがあるのかもしれませんね。

2、「下る」は「登る」と同じか?

では、山を登って頂上に行ったあと、「下る」ことを考えてみましょう。ココで必要な能力やスキルは何があるでしょうか。

麓まで下っていく体力は必要でしょうが、力を入れすぎて駆け足で降りたら、足を滑らせて転落する恐れもあります。だから、「あってもいいが、加減や使い方」が必要になる。

登るときに気にしていたルートや天候急変も確かに必要だけれども、行きである程度把握できている以上、ヤバいかどうかの判断さえすればよく、待機するより下山を進めたほうが安全性は高まる。

そして、頂上に登った高揚感で、油断すると、これまた足を滑らせることもある。もう目的は達成しているのですから、慎重さや冷静さ、あるいは、奢らない姿勢など謙虚さのほうが、身の安全を守るために重要かもしれません。強い精神力というよりは、安定した精神のほうがはるかに重要。

こうしてみると、同じような能力やスキルが根っこにはあっても「使い方や加減」こそが大切になり、力を込めてパワープレイするだけでは、下るときに事故やケガすることになることがわかりますね。

これって同じようで異なるもの。登るときには「何(What)を持っているか」が大切ですが、下るときは「どうやって(How)を使うのか」が大切になっている。

経験による判断力、冷静さ、バランス感覚などが大切になってくるのでしょう。これは、世の中のすべての「登る」と「下る」状況において、とても大切な真理のような気がしているのです。

3、日本は今「下降」している

登山という一つのジャンルにおける真理を、世の中の事象に当てはめて考えてみましょう。例えば日本の社会はいま、高度経済成長期のような右肩あがりで成長し、伸び続けている社会ではありません。

日本の人口は、2008年の1億2,808万人をピークに減少に転じました。いま人は減り続けているのです。出生率は低く、毎年生まれる子供の数も減っています。加えて、団塊世代の高齢者は、人口構成の中で割合が高くなり、2024年には、50歳以上の人口が全人口の5割を超えるのです。

画像1

こうした社会に求められる能力やスキルは、一体何でしょうか。山登りでいう体力にあたる「学力」ですか?目標をやりきるための「忍耐力」ですか?あるいは、高い目標に効率的に向かう「判断力」ですか?全部違うでしょう。

何せいま、”日本”という登山チームは山を「下り始めた」ところ。麓に到着していないのに、次の目標となる山や、なにかにチャレンジする体力が求められるわけではなく、「安全に、怪我なく、まずは下りること」が最優先課題なのです。

それは、下山に向けて無駄な体力を使わないことや、急ぎたくなる気持ちを自制し、冷静に状況を見極めて、緩やかな道でかんたんに滑って転ばないようなもの。天候が急変するような状況に陥っても、冷静に麓まで焦らず下ることを優先する「大人の落ち着き」こそが大切なのです。

4、成熟社会に求められる人材像

そんなときに必要な人材は、どんな人がリーダーでしょうか。自分が優秀で、体力も学力もあって、グイグイ引っ張るリーダーでしょうか。それとも、数々の山を経験して、滑落などの失敗したことがある熟練の年長者でしょうか。

少なくとも、後者のほうが、安全に下山できるでしょう。日本に今、求められている人材は、破天荒な夢物語でもなく、力づくで前進することでもなく、変化に対して冷静にブレなく進むことのできる「安定した精神力」の持ち主が最も必要だと思うのです。

国のトップであれ、中央の官僚であれ、会社のトップや管理職も含め、すべての人に求められるのは「急変する環境や反対にあっても、冷静にやるべきことをまっすぐやれる人」なのだと思うのです。

だから、反対意見や邪魔があっても、それに都度過激に反応するのではなく、冷静にあしらうこと。例えば、国民の大多数が反対するような政策や方針でも、その必要性と冷静さを持って、落ち着いて解きほぐすこと。それがができる柔和な人が必要なのです。

どうすれば、そんな人が育ったり、リーダーとして抜擢するのによいでしょうか。それは簡単なことです。

「失敗をした人を再びリーダーにすること」

「弱者を交えた検討をすること」

同じ過ちを繰り返したいと人間はそうそう思いません。一度失敗した人ほど、心の奥底で「同じ轍を踏むものか」という決意と自覚を持っているでしょう。そのほうが「誤る方向」「失敗する選択肢」について、敏感に反応することがでるでしょう。

そして、「弱者を交えた」という点は、今、社会でも求められている多様性の尊重や、ノーマライゼーションを含めて複眼的な思考や判断を取り入れるということ。「できる人」より「できない人」のほうが、見えている物があり、その視点こそが、「すべての人によりよい」社会をつくることになるのです。

例えば、こどものいじめ対策だって、「優秀な一度もいじめられたことのない人」より「いじめを受けて、立ち直った経験がある人」のほうが、対処方法だってより具体的に、説得力をもって相手にも伝わることでしょう。

失敗を世の中に活かす。簡単なことではありませんが、それには「再起」や「再チャレンジ」を受け入れる寛容さと、挑戦し失敗した人を嘲笑せず、尊敬や経緯を持って受け止める姿勢こそが、社会全体にない限り難しいものです。

そうすると、官僚や企業は、成功や優秀の塊…これで、この変化の時代を乗り切っていけるのか、今のままの人材登用は評価のあり方では、僕にとっては疑問しか湧いてきません。

(追記)若い人が挑戦し、失敗するともう二度とチャンスがないようなレピュテーション(評価)が下ることは、この社会のイノベーションを停滞させることになります。挑戦を讃え、失敗から学ぶ若い人こそ重用し、再挑戦させるべきであり、世の中すべての人の「失敗への寛容さ」が受け入れられる社会が一番望ましいと思います。

したがって、若いときからレールや年上が口を出したりせず、失敗を糧に何度でも立ち上がる人をすべての人が応援する社会が、一番望ましいものと思います。


日本と世界を飛び回った各地域の経験と、小論文全国1位の言語化力を活かし、デジタル社会への一歩を踏み出す人を応援します!