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逆噴射小説大賞2024個人的ピックアップ&感想 その2

 こんにちは、B.D.モー/バタリングラムです。

 この記事はダイハードテイルズ様が主催しておられる、小説の冒頭800字の範囲内での面白さを競い合う最高にエキサイティングなイベント、逆噴射小説大賞の2024年の参加作品から、個人的に心に刺さった作品を僭越ながらピックアップさせていただき、感想を書いたものです。

 今回は出来る限りのピックアップに挑戦したく思い、二つ目の記事です。
 一つ前の記事では、可能な範囲でなどと言いましたが、書いているうちにどんどん長くなる一方で、短くまとめることへの自分の技量の低さを痛感する次第です。
 まあ、感想なので長くても大丈夫ということにして、早速やっていきます。


1.ロスト・ボーダーランズ

 ジョン久作氏は前回の大賞受賞者であり、これまでの逆噴射小説大賞でも数々の名作を投稿され、ババア・パルプ小説というご自身で確立されたパルプという強力な武器までも装備しておられる、超武闘派パルプスリンガーである。

 前回で逆噴射聡一郎先生の絶賛を受けておられた、弛まぬ鍛錬による腹の据わった文章は今回も健在。海外、それも実在の土地を舞台とした小説で、パルプに必要なリアルさを描き出すためには、これだけの足腰の強さが不可欠となるのだろうと思う。

 まず私の眼前に現れたのは、蜃気楼が揺らめき、熱砂が吹き荒ぶ明らかに過酷な荒野と、そこに立つ一人の男。逆噴射の精神に多少なりとも触れた身としては、彼が真の男として活躍を見せるのだろうと想像を巡らせた。

 その予想を裏付けるかのように、彼がいる環境がただでさえ酷薄な不毛の大地に、人間の狂気までこびり付いた、地獄の釜の底であることが提示される。

 「不名誉除隊」の一言で男の背負う過去の一端を思わせ、不法移民に斡旋業者という、現実でも取り沙汰され続けてきたシリアスな要素が叩き込まれる。
 NGOの所属という事は、移民たちの命を救うことが任務なのだろう。どう考えても、この悪夢めいた有様の中でも一番困難な仕事だ。それを、ワンオペで四年。救えなかった命の方が多かったに違いない。
 そこから逃げ出さないジェドの姿は、真の男であると同時に、まるで蜃気楼と戦っているかのような、どこかやり切れない思いも抱かせる。

 ここまでの前半部を読むだけで、先の見えない悪路が延々と眼前に断続しているかの如き、作中の地獄が脳裏に像を結ぶ。
 鍛え上げられたパルプスリンガーの織りなす文章は、読み手の脳内をキャンバスにして絵を描くのだと、否応なく理解させられるというものだ。

 これだけのパワーを搭載した前半を踏み台にして、後半では更にもう一つ跳躍する。
 明らかな異常事態と、それを引き起こしている異質な存在。読者をMexicoから逃がさないための、強烈な右フックだ。そこからはもう、いきなりキロ単位の範囲を覆い尽くす砂嵐が丸ごと突っ込んできたような勢いで話が進む。

 空気が焼け付くような灼熱の地にあって白シャツの二人。もう只事ではない。
 行われているのは、既に人の死が累積しているこの地を、もう一段階底へと突き落とす遺体損壊。移民排斥派と思われる自警団の存在にも触れつつ、真の男たるジェドは立ち向かう。相手が何者かもわからなくとも。

 だが、いきなり撃つわけにはいかない。彼はギャングでも自警団でもない、NGO職員だ。その職責への誠実さを感じる間もなく、彼が対峙する脅威のヴェールが剥がれる。
 子ども。不気味な刺青。ラテン系となれば、テキサスという地理から考えても、不法移民たちの出どころであるメキシコに関わる者たちか。
 断片的な情報は、彼等の正体を掴むには至らず、見た目が完全な異形でなくとも、その異質な動きと、言葉も発さずに近寄って来る明確な拒絶と害意をもって、彼等を怪物として認識させる。

 そこから六行。
 スペイン語の警告にも、向けられた銃口にも従わない奴らの姿から、文字でサブリミナルを挿入するかの如きジェドの鮮烈なフラッシュバック、絶望のラスト一行への一連の流れは、あまりにスムーズで見惚れるほどだった。
 ジェド。そんな。この男はどうなってしまうんだ。こいつら、いったい何なんだ。これは悪夢か、地獄の現実か。

 この時にはもう、ジェドの人差し指と一緒に、他の娯楽へフラフラと歩き出そうなんていう移り気な気持ちのアキレス腱は完全に切断され、テキサスの地面に私は倒れていた。
 そして、この地の熱波に焼かれ、水を求めて手を伸ばすが如く思うのだ。この続きを読みたいと。

 ジョン久作氏の800字には、それだけの力がある。読ませていただいてありがとうございます。

2.釣果の光はただ下に

 復路鵜氏はこまめに投稿されておられる書評や、第二回の逆噴射ワークショップに果敢に参戦した経歴から、地道な積み重ねの上でしっかりと銃を構える、強力なパルプスリンガーとお見受けする。

 そんな復路鵜氏の一作、どんな弾丸が飛んでくるかと開いたら、いきなり目の前に極寒の氷世界が広がり、横合いから主人公と美少女に釣り針を直接口にねじ込まれて、南極という凍てついたMexicoに引きずり出されたのだった。

ずっと釣りが好きだった。餌、船、バス釣り。いまは南極で魚を探す。

 なんて端的なんだ。釣り好きが行き着くところまで行って、今や南極。展開が早い。周りは凍り付いているのに。
 二行目、三行目でもう、どう見てもこの場にそぐわない髪型のヒロインが現れて、やたら長い名前で、しかもロボットだ。主人公とのやり取りも洗練された付き合いの長さを感じさせる。
 王道的ですらあるラブコメとも思える。ヒロインの格好も煽情的だ。しかし、背景は南極で、主人公は釣り人だ。パルプである。

 だが、考えてみればこれはいい組み合わせではないだろうか。釣りの経験はほぼないに等しい私では偉そうに語ることは出来ないが、魚がかかるまでは動きが少なく静かな戦いが続くのが釣りというものだというイメージはある。
 それを文章をもって、読み手の興味を惹き付けるものにするのは、かなりの技量が必要になりそうだ。舞台が極地であるという点を加えても、この点は課題として大きいように思う。
 復路鵜氏は如何にしてこの課題に立ち向かったのか? 美少女である。

 魚がかかるのを待つ主人公の隣にいる美少女が、物語に動きをもたらす。極地探査を専門とするロボット美少女ということで、対応出来る範囲も広く、彼女がマスターたる主人公に積極的に絡んでいくことで、釣りの場面に彩りが備わる。
 「社長の鶴の一声でアニメ技術受け入れが決定された」という端的な説明で、世界観の背景設定も三行で示されている。南極以外の極地で活躍する話にも持って行けそうだ。この主人公なら、釣りが出来るなら火山や砂漠にも赴きかねないとも思わされる。

 そして、いざ魚がかかる時が来れば、極地モノのロマンといえる巨大生物を前にして、一切動揺しないイカれた主人公を守る存在として、双方の魅力を引き出す。いいコンビだ。釣りの前後で行われるやり取りも、バリエーションがいくつも作れそうな可能性を感じる。

 巨大魚の出現と攻撃は最小限に留められており、今回の800字の中では主人公とヒロインのキャラクターを前面に押し出そうという意図を感じ、事実かなり印象深い二人だ。
 とか思っていたら、最後にヒロインのライバルとなる新たなロボット美少女が降臨し、光の速さでキャラを立てていった。主人公は気にしていなかった。ラスト10行ほどの出来事である。

 800字の中で、これほどのキャラの濃さを演出する技量を感じる。巨大魚が背景になってしまうほど、主人公とロボット美少女たちが強烈だ。
 巨大魚の描写に関しては、800字の制限の中での取捨選択の結果だろうと思われるので、この強いキャラクターに極地の環境や、釣りの標的となる生物の設定が掘り下げられれば、さらに世界が広がることだろう。

 そう思った時には、既にこの作品に釣りあげられているというわけだ。これこそ、優れた書き手の生み出す牽引力である。読ませていただいてありがとうございます。

3.ロードキル・キャット

 三宅つの氏のnoteを見れば、その圧倒的な記事の量にまず度肝を抜かれることになる。
 ご本人の記事によれば、1500日に渡って連続投稿を達成しておられるという。偉業という他ない。

 記事内容もX上のポストをサルベージした記録的なものから、歴史関連、漫画やドラマの感想、TRPGのソロリプレイと多岐に渡り、このまま一種の歴史資料集にならんばかりである。
 継続は力なり、とはいうが、言うは易く行うは難し。この膨大な実績が、そのまま三宅つの氏の持つ力の証明だ。

 それほどのパルプスリンガーによる弾丸ともなれば、その貫通力たるやどれほどだろう。
 期待と共に拝読すれば、貫通力もさることながら、気が付いた時には銃口が押し当てられていたかのような感覚を覚える体験をした。

 夜の山中、自分の気を紛らわすための呪文の如く詫びの言葉を唱える二人、静かながらもそこに降り注ぐ雨。
 空気の冷たさがこちらにも伝わってきそうな雰囲気が瞬時に形成され、二人が何をしているかと思えば、轢き殺してしまった猫の死体を埋めている。

 恐ろしく不穏だ。どう考えてもホラーな方向性であり、絶対にこれから良くないことが起きると確信させられる。
 逆噴射聡一郎先生が「パルプ小説の書き方」マガジンでも言及しておられたが、映画で言うところのAパートの地固めが見事に成されていると感じた。

 読み進めると、主人公たちが官憲に追われていることも示され、良くないことが起きる予感どころか、もう起きていることが明かされる。
 夜の山中にいたことにも説得力が出る。そんな立場なら、堂々と昼日中に街を出歩くわけにもいかないだろう。 

 謂れなき罪で追われているのか、本当に悪事を働いたのかはわからないが、そんな状況にあっても猫を轢いてしまったことに動揺し、何より猫に恨まれたくないからせめて葬る、という主人公の内心が、如何にも人間的というか、身勝手さと良心の両方を感じる。
 実にリアルな心の動きが、無駄のない文章で淡々と描き出されていく様は、流麗ですらある。

 追われている二人の装備は乏しく、小さな灯りしかない中で素手の穴掘りとなれば、体力も精神もゴリゴリ削れていくだろうと想像出来て、脳裏の映像の解像度がぐんぐん上がる。

 そこからの五行の会話が、最悪の事態に至る引き金となるわけだが、これも面白い。

「穴は深くはない。動物が掘り返そうと思えばできる。それでもいいか」

「ちょっと嫌ね。石を乗せましょう。呪いとか防げるかも」

「わかった。古事記にもあるよな」

「ついでに花でも摘んで供えて、拝んでやれば、結構成仏するかも」

「そうだな。君の気持ちの問題だ」

 そのまま放置したら野生動物に掘り返されそう、という判断は出来る。
 じゃあどうするかと言うと、その辺にあった適当な石を持ってきて、猫を埋めた穴の上に乗せて、ちょっと墓っぽく仕上げようと目論むわけだ。
 後は花でも供えようかという、さらりと差し込まれるニンジャスレイヤーネタでもちょっとごまかし切れなさそうな、だいぶ中途半端な対応だ。まさに本人たちの言う通り、気持ちの問題である。

 気分的にそのままにするのは嫌だが、自分たちだけで出来る対応は限られているし、かといって追われているので人にも頼れないから、自分たちの都合に合わせて、それっぽいことをする。本人たちも、自己満足だということは理解している。
 繰り返しになるが、何とも人間的だ。自分の都合や感情に物事を合わせてしまう思考、どこか親近感すら覚えるというか、身に覚えのあるこの感じ。それが作品への没入感を抱かせる。

 そんなことを考えているうちに、主人公たちに抱いた親近感に引きずりこまれるかのように、自分も夜の山中に二人と共に立ち、読者という安全な立ち位置にいながら、二人を通して作品に入り込んでいく。
 その時にはもう、三宅つの氏の銃口が静かに後頭部に押し当てられ、Mexicoから逃げられなくなっているという寸法だ。
 まだ実際に怪奇現象が起きているわけでもないというのに、これほど引きずり込まれる。何というパルプの力であることか。

 そこまでをやった上で、後半からの怒涛の追い上げ。映画でいうAパートの舞台提示だけで終わらせはしない。実際に何かが起きる。
 確認してみると、上記の引用の会話辺りまでで500文字以上が消化されており、後半部は300文字以内で収められている。その限られた範囲で、背筋にゾクリと来させる展開を見せつけられた。
 鍛えられたパルプスリンガーの圧縮力の高さにはいつもながら驚嘆する。

 墓石に使ったその辺の石の下から銅鏡が出て来る、というこれ以上ない「やっちまった」演出。今年の後半にX上でブームになっていた、祠破壊に匹敵するパワーがある展開だ。お前ら、あの石動かしたんか!

 ラスト二行で、ここまで溜めに溜めてきた不穏な雰囲気が一気に結実し、実際に異常な出来事が起きて、脅威が現実のものとなる。
 ごぎゃあ、という鳴き声も、可愛らしい猫のそれが、とても嫌な感じに濁った音として耳に残る。あるいは、これから始まる悪夢の産声か。

 上記の「パルプ小説の書き方」マガジンで例に挙げられていた、映画「悪魔のいけにえ」における狂ったヒッチハイカーとの遭遇に当たる場面ということになるだろう。
 となれば、ここから物語はレザーフェイスの登場に匹敵する更なる恐怖へ向けて、どんどんアクセルを踏み込んでいくに違いない。

 高まる恐怖と期待感。映画館の席にしがみつきながら、スクリーンから目を離せない感覚を、文章で体験することとなった。
 これを800字に圧縮する手腕。やはり三宅つの氏の弾丸は想像を上回る貫通力を持っていた。読ませていただいてありがとうございます。

4.麒麟の首

 pointlessdog氏は、今回が逆噴射小説大賞への初参加とお見受けするが、この作品といい、ライナーノーツといい、凄まじい気迫の鋭さを感じる。
 読んでいると、これ以上なく真剣な目つきが、完璧な真顔が、眼前に浮かび上がってくるのだ。逆噴射総一郎先生が語らっておられた、笑ってしまっている文章とは完全に真逆の、重みあるシリアスな姿勢が伝わって来る。

 「麒麟の首」は政争をテーマとしている話のようだが、そこに「首の長さ」という、まずこの時点で他ではなかなか見られない要素が突きつけられる。
 下記のライナーノーツを拝読したところ、首長というくらいだから首が長いものであり、麒麟は善政の前触れであるという。

 冷静に考えれば、何をバカなと言うべきところかもしれない。実際、ライナーノーツでも、このくだりは悪魔のささやきであると述べられている。
 しかし、「麒麟の首」で綴られている文章に満ち満ちた真剣そのものの雰囲気や、このライナーノーツの書き出しを見て、バカにして笑うことなど出来ようか。そんな真似をすれば、「何がおかしい!」と怒鳴りつけられ、首を引っこ抜かれかねない凄みがある。

 冒頭の文章からして、まず自治体が切羽詰まっている。市一つが笑えない人口減少に直面しているとなれば、この市の首長にこれから就任するなど、茨の道もいいところだろう。
 しかし、主人公は市長になりたい。何としてもなりたいのだと、ハッキリとした目的意識が示され、政治闘争という創作では悪く描かれがちなイメージのある要素が、真の男の戦場と言うべき真剣なものであると最初の三行で提示される。

 これによって読者たる私も気が引き締まる。
 すぐ後に市長になるのは首の長さが足りないとか言い出す、首の長さが三メートルを超えた、どう控え目に見ても化け物にしか見えない国会議員が現れようと、首の長さが任期の長さであるという政治的理論がフランス革命の時点で確立されていたと言われようと、真剣な眼差しで文章を追うことが出来た。
 これを笑おうものなら、それこそ首を飛ばされても何ら不思議ではない、と思わされるシリアスな気配。ここは既に何本もの長い首がとぐろを巻く、政界と言う名のMexicoなのだ。

 そんな世界観にあって、議員に突っぱねられようと必死に頼み込む主人公は、首が短いまま市長になろうというのだ。
 そんな。無茶だ。そんな短い首で何期勤まるっていうんだ。とっくに首の長さを価値基準とする世界に呑まれた私がそんなことを思っていると、「先生」が姿を現すのである。

 ライナーノーツにあった通りの、悪魔のささやき。国会議員ですら三メートルもある首の上の頭が上がらないと見える「先生」、こんな人物どう考えても関わっちゃダメな奴である。
 屋敷の主の顔が、屋敷の天井付近に届く程度の首の長さというのだから、それを遥かに凌ぐ長さの「先生」の首は天井を何往復もしているかもしれない。そんな想像すら頭をよぎる。

 さっきまで冷徹に見えた国会議員が、主人公のことを子どもの存在を上げて庇うかのような言動をする。議員への印象が引っくり返りそうになったと思えば、「先生」によるタイトルコールだ。
 突如、目の前にぶらさげられた、確実に市長になれるだろう長さの「麒麟の首」。主人公は「首が短くてもやれる」ということを証明するために戦おうというのに、それを覆してしまうような誘惑だ。
 だが、「ほぼ確実に市長になれる」という、当選しなければただの人となる政界においては、この上なく貴重な機会そのものと言えるのも事実。

 主人公はどうするのか。「先生」は何者なのか。
 読んでいると、目の前の長い長い首の先を必死に目で追っている自分を幻視する。その先の顔がどんな表情をしているか、確かめずにはいられない。
 世に数多ある他の娯楽に引き寄せられようとする読者の視線を、釘付けに出来る力を感じた。読ませていただいてありがとうございます。

5.「インドラの僕(しもべ)」

 のざわあらし氏は、記事をざっと拝読しても分かる通り、多くの感想記事や日記的な記事を書き続けておられる、「日頃からの継続」という最も困難な実績を引っ提げたパルプスリンガーだ。
 その文章力も、日々の執筆活動の中で研鑽されてきたものだとお見受けする。この作品の主人公たちも、そんな一途なほどの物事への取り組みを見せてくれるキャラクターだ。

 初手から、精緻な筆運びで描き出される光景は、十分で千発という狂気的な連射速度の落雷による大惨劇。掴みでまずは読者の脳にも雷を落として、黒焦げにしてからMexicoへ引きずっていく勢いだ。
 電線が千切れて泥水に浸り、火花を散らす下りは、映画のワンシーンにもありそうで、自然と情景が浮かんでくる。

 そこへ現れる主人公たちは、どれほどの死体が転がっているのか、どれだけの瓦礫が積みあがっているのかもわからない状況で、被写体としての美しさ、自分たちの写真だけを追求している。異様な雰囲気が醸し出される。

 尋常でない状況で、脇目も振らず一つのことに集中し続けるキャラクターというのは、その時点で強烈なインパクトだ。
 どれほどの命が失われたかもわからない中、人々の死など眼中になく、ただ雷の美しさを写真に収めることだけを追い求める二人。どう考えても、まともな奴らではない。

 こんな惨劇を生み出すほどの落雷地獄の中で写真を撮っていて、火傷はおろか視力へのダメージすら皆無とくれば、技量によるものか肉体的な異常さによるものか、その雷写真にかける狂気以外でも、異常なことがわかる。

 しかし、同時にそれだけ没頭するものがある人間は、ある種の魅力を感じさせるものである。
 同じ命題に打ち込む二人組で、片や純粋に目的を追いかける者、片や過去の挫折を振り払わんとする者となれば、その異常性に比べて人間臭くすらある側面にも目を惹かれる。

 こいつらはどこかイカれている。だが、この情熱は本物だ。音速を遥か上回る速度で落ちて来る雷を、まさに雷が落ちている真っ最中に繰り出して写真に収める、などという無謀をやってのける技量。ギルの、失われたかつての矜持を取り戻す旅路、という王道的な目標。そして、信念。

 雷よ、ただ美しくあれ──。

 雷写真家にとっては、それだけがただ全て。音速を遥かに上回る速度で落ちる雷の、一瞬の美を撮影するためだけに、他のすべてを無視して死地へと飛び込むのだろう。
 落雷がどれほどの命を焼き尽くそうと、恐らくはその対象が自分たちであったとしても、雷の美しさを否定することはないのだろうと、その狂気的な信念が伝わって来る。

 後半は、主人公ギルが長年の相棒チャドの知らなかった一面に触れることで、後に繋がる伏線張りにも余念がない。

「十分後に雷が来る。次は一時間後にバクタプルで、その次は──」

「馬鹿言え、予報では──」

「機械と神、お前はどちらを信じる」

 チャドが人類の文明から逸脱した領域で物事を見ている人間だと、端的に表すやり取りだ。
 神器には詳しくないが、チャドが持っている独鈷杵とは、仏教系の一部の宗派における法具の一種で、タイトルにもあるインドラが用いる武器でもあるという。ストレートに象徴的なアイテムだ。
 そして、ギルに向けた結果だけが欲しいという言葉。ギルと違い、チャドは雷に執着してはいないのか。ただでさえぶっ飛んだキャラクター性をしていた二人の片割れから、更に不穏な気配が漂い始める様は、まさに黒々とした雷雲が広がり出す光景のごとしだ。

 平然とバイクをぶん取って走り出す二人の行く先に、果たして何が待つのか。
 稲妻の軌跡を血管に見立てるラスト一文は、まるでこの先を読み進めることで、一個の巨大生物の体内に飲み込まれていくことになるかのような予感を覚えさせ、期待を高められる。

 この時には、読んでいる私もラストの期待感に気を取られ、雷の被害にあった人々の中にまだ息のある者たちがいて、呻き声をあげているのを最初に読んだ時にスルーしていたことに気付き、もうギルと共に雷の美しさに目を焼かれていた事実に戦慄した。
 腕利きのパルプスリンガーの文章は、時としてMexicoに連行されたことすら気付かせないのだ。
 これも、のざわあらし氏の「継続」の賜物だろうと感嘆する次第である。読ませていただいてありがとうございます。

6.『オグバンジェ』

 作者であるへるま氏は逆噴射小説大賞においては、初期より参加されている常連の一人である。
 2020年の投稿作品、「あらんかぎりの幸運を!」には衝撃を覚えたものだ。

 へるま氏が今回、参加に当たって引っ提げてこられた弾丸は、家族にまつわる話のようだ。
 しかし、最初の五行でもう分からされる。どう考えても心温まるホームドラマでも、笑いあり涙ありのファミリー系シチュエーション・コメディでもない。シリアスなパルプだ。

 主人公である父親、國谷巽は離婚しており、娘の親権は元妻の側にあって、住んでいた家からも去った状態で、娘に会うためにかつての我が家で六回もインターフォンを鳴らしている。既にすごい勢いで良くないことが重なりまくっている。
 タイトルを検索してみれば、海外の伝承として聞いたことのある、子どもを怪物とすり替えられてしまう話や、子どもに憑りつく邪霊の話が出て来る。これは、状況は今より更に悪化するに違いない。

 二か月に一度しか会えないという娘は、もう典型的なほどの虐待を元妻から受けているとしか思えない姿。はっきり言って、もうどん底にいる。
 こんな絶望感溢れるのに、まだ底へと落ちる気しかしない最初の10行は、文字数も少な目で端的に描かれ、地獄を地獄で上塗りしていく、さながらパルプのサブマシンガンだ。

 主人公が家に踏み込めば、暗闇に包まれた廊下にビールの缶が詰まったゴミ袋、娘に強制的に書かせた同じ漢字が埋め尽くすノートと、思い出のあるだろう家を魔境に変える要素が満載だ。文章が悪夢の底なし沼を作っている。
 そして、ラストに極めつけ。

 違和感の正体に気づく。
 娘は笑っていた。
 あのころと同じ笑顔で。

 「はじめまして、おとうさん」
 そう言って恭しく頭を下げた。

 もう憑りつかれてるか入れ替わってるー!
 勘弁してくれと叫びだしたくなる800字の暗黒がそこにある。ホラー映画の冒頭にしても、やりすぎじゃないかと思うくらいの連続攻撃。
 サブマシンガン、ショットガン、マグナムの順に立て続けに撃ち込まれたような感覚だ。濃縮されすぎである。

 これから主人公と娘はどうなるのか。先に待つのは更なる悲劇か、天から垂らされる蜘蛛の糸か。
 そう先を期待してしまった私は、へるま氏発Mexico行き直通列車に既に乗車済みだ。読ませていただいてありがとうございます。

7.セカンド・サン・フライト

 IS氏は、他の実力派パルプスリンガーたちと同じく、継続する力をnoteでの執筆活動で示されているという武器を標準装備しているのみならず、絵も描くことが出来る強力極まる二丁拳銃使いだ。

 文章で絵を描くことが求められる小説において、実際に絵をかけるということは、イメージ上でも大きなアドバンテージではないだろうか。つまりカラテにカラテをかけて100倍だ。わかるか? この算数が。エエッ?
 そこへもってきて、二つのテーマを融合させるというこの作品のコンセプトをもってすれば、生み出されるパルプのエネルギーは1000倍に跳ね上がってもおかしくはない。

 冒頭からまず月が消えるという異常事態の中にあって、一番影響を受けているのは夜の一族たる吸血族。視覚は光に頼っているから困る、という世知辛いほどに一般的な事情にクスリとくる。
 しかも、月を消した犯人は身内。一族の誰もが、彼女の語る動機も、月を消すに至った手段も、全く理解できないうちに取り逃がし、追う暇もなく今度は太陽消失の危機と来た。

 展開が早い。凄い速さで世界の危機である。物語の扉を開けたら、いきなり顔面ストレートを食らったような、無駄のなさすぎる序章。そりゃ吸血鬼も頭を抱えるというものだ。

 追い詰められた吸血族の一人が訪ねた相手。包帯に巻かれた火傷男という不気味な印象は、数行後のセリフで引っくり返る。

「それで、この僕に太陽に向かって再び飛べというのか」

 太陽に向かって飛んだ男。サブカルチャーに触れてきたなら、きっとどこかで聞いたことのある話だろう。私も例外ではなかった。
 そこから、「蝋を蜂蜜で固めた、人口の翼。」とくれば確信する。そなたはかの有名なイカロスではないか!?
 女吸血鬼とイカロス。月の下で生きる者と、太陽を目指した者。ありそうでなかった異色のバディとなれば、テンションも上がって来る。

 神話では、蝋の翼を太陽の熱で溶かされて墜落死したイカロスだが、この世界では生きていたらしい。しかし、心はもう折れているようだ。
 無理もない。一度、完膚なきまでに失敗し、誰よりもその困難さを知っている挑戦に、再び臨もうとする人間は稀だろう。アインシュタインも、「狂気とは、同じ行動を繰り返しながら違う結果を望むことである」という旨の言葉を残している。

 しかし、タフでホットな吸血族のモルモーンは、自分もまた命を張る覚悟と、確かな勝算を示してイカロスを説得する。
 諦めた難業に再挑戦する最後のチャンス。それも、今度は前より勝ち目がある。一度は敗れて燻っていた人間が、真の男としてまた立ち上がるに十分な理由だ。

 かくして結成される異色のタッグ。太陽に到達し、世界を救う。真の男、イカロス。タフな女、モルモーン。二人がシリアスを貫いているおかげで、雰囲気もきっちり引き締まっている。間違いなく面白い。
 太陽と世界を救うことは出来るのか。月を消したルナギアはどう関わって来るのか。先の展開への想像も膨らむ。

 マンガ「銀魂」では、怖いものと怖いものを組み合わせればもっと怖くなるという安直な発想で、肝試しイベントにヤクザの幽霊を出そうとしてダメ出しされるギャグをやった回があったが、面白いものと面白いものを組み合わせれば、やり方次第ではもっと面白くなる、とIS氏は証明した。
 このバディをもっと見てみたいと思わされる、最高にクールなパルプの連撃だった。読ませていただいてありがとうございます。

8.『凍ざされた街』

 お望月さん氏は、懇親会開催やサーバー運営など、パルプスリンガーたちの交流の機会を積極的に生み出しておられる、すごいお方である。
 文学賞の受賞経験もあり、無論のこと発表されている作品や記事の数も大変な数だ。私がその実力にわざわざ触れることすら無粋とすら思える。

 そんなお望月さん氏の弾丸は、近未来ジュブナイル。いわゆるティーンエイジャー向けのジャンルだ。
 舞台はタイトル通りのディストピア。自分たちを抑えつける何かに、若者たちが己の信念を持って反抗するという展開は王道的だが、相手が巨大すぎるほど巨大だ。

 街から黙って姿を消したというユキト、制服のまま歩く少女。少年と少女、ジュブナイルに欠かせない要素がまずは並ぶ。
 畳みかけるようにこの世界が、読者の前に姿を現していく。全球凍結、つまり丸ごと凍り付いた惑星。そこに築かれた絶対の統制システム。タイトル通りに氷で閉ざされているというわけだが、星一つとなれば規模が違う。
 人類を守るためという大義まであるとなれば、これに立ち向かおうという主人公たちの行く先がどれほど困難なものになることか。

 また、次々に出て来る専門用語は、字面や世界観からスっと内実を想像しやすく、見事なバランス感覚だ。
 街のシステムを循環させるのは、凍血人。この凍ざされた街でも長期間活動が出来る、冷たい血を持つ者たちなのだろう。
 私は、変温動物が別名で冷血動物とも呼ばれていることを思い出し、爬虫類じみた姿を想像した。

 熵素刀は、恐らく「ショウソトウ」だろうか。熵の字は日頃はなかなか見ないが、検索したところエントロピーを意味する一字のようだ。触れただけで相手を液化させる武器の名前として相応しい。
 熵素刀を装備した凍血人の衛士たちの姿は、絵に表せば迫力がありそうだ。脳裏に様々なイメージが浮かぶ。

 恒血人が恐らくは現実の人類に近い存在か。しかし、主人公たる少女のシモヨの心臓は動かないものであり、遺伝子を受け継いではいるが別種の人類といったところか。
 こんな具合で、読んでいて想像が膨らんでいく。800字の制限の中で設定をどう出していくかという点は、パルプスリンガーにとって課題の一つになると思っているが、そこを作中用語の字面や背景の描写で、自然な形でクリアしていくお望月さん氏の手腕は流石という他ない。

 ここまでで、世界観と主人公の少女、少年を探すという彼女の目的、物語の方向性が示される。シモヨの心情も出しつつ、無理のない形でこの流れを作るというのは、何も考えずに800字を消費していてはとても出来ない芸当だろう。
 物語の向かう先を示した後は、展開を動かすことも忘れない。凍血人に見つかり、その場を切り抜けかけたのも束の間、いきなり危機が訪れる。
 校章を見せるだけで場が収まりそうになる、恒常学園のこの街での立ち位置も気になるところだが、明かされた熵素刀の持つ役割には目を引かれる。

 凍土に顔面を押し付けられ身動きが取れない。熵素刀の切先が近づいてくる。このまま液化されて、型にはめられ再転生させられるのだろうか。いやだ、もう二度とユキトのことを忘れたくない!

 人々を抑えつけ、従うことを強制するのはディストピアにおける支配者の絶対条件とも言えるだろうが、その手段として液化した上で文字通りの意味で型にはめて、強引に生まれ変わらせるというのは、相当に強烈なやり口に思えて印象に残った。
 ユキトのことを過去にも忘れているとなれば、シモヨは既にこの処置を受けたことがあるのだろう。書き手によっては、この事実を後で判明する重大な事実として位置付けることもしそうな話だが、何の惜しげもなく出しているのもすごい。

 ラストでは更にディストピアっぷりが加速する。
 ハビタブルゾーン、つまり宇宙において地球に近い環境を惑星が維持できる領域のことのようだが、そこをこの星が通る期間が42日間、その間だけ恒血人は冬眠から目覚めさせられ、繁殖を命じられる。

 凄まじい管理のされ方だ。その時々の環境や状況に合わせて運用される、もはや資源と言うべき扱い。ここでハッキリと「人類」という呼ばれ方も出て来る。
 もはや養殖か栽培とも言うべき扱いの人類だが、凍血人の衛士たちの反応からして、ハビタブルゾーンに突入するとそれが最優先され、突発的に繁殖が緊急開始される、といった仕組みを見る限り、この街の管理者にとっては恒血人はいなくなられては困る存在ではあるらしい。

 そんな情報の詰まった状況を背景に、シモヨは下水道へ逃げ込む。
 凍り付いた惑星の環境、街の管理統制システムとその尖兵たち、あらゆるものが敵として立ち塞がるだろう過酷な未来へ、少年を探すために。

 情け容赦ない世界観に対して、この上なく王道な方向性。どんどん読み進められて、すっと入ってきて、素直に先が気になると思える、足腰のしっかりした物語だ。
 パルプスリンガーたちの重鎮、お望月さん氏の小説力を改めて目の当たりにした思いである。読ませていただいてありがとうございます。


 ひとまずは、ここまで。また気力と時間があれば、ピックアップに挑戦したく思います。
 ありがとうございました。

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