ある移民が移民になって考えた移民のための移民のサホウ
こんにちは、S.C.P JAPAN の活動を少し遠いところから応援している MIA と申します。
移民のはなしなので、唐突ですが、こんなお題でひとつ、頭に描いてみてください。
お題:人種の多様性をイメージで表現せよ
ちょっと描きずらい、まったくイメージが浮かんでこないという場合は、コント仕立てのイメージで描いてみて下さい。
例えば、
地球をまったく知らない誰かが、初めて世界を見渡したときに、最も顕著に現われる、人種のごちゃまぜ感を漠然と表したときの最初のことば:
ななななんて、多様なんだ
とか。
移民のはなしなので、こんな世界のはなしをしたいと思います。
個人的な話になりますが、わたしは8年前に日本を離れてそれ以来フランスで暮らしている移民です。
移民大国フランスで移民として暮らすことになった当初、毎日、なななななんて多様なんだ、と驚きながら生活していました。
最初に移住した土地が都市だったということもあり、すでにありとあらゆる出自のひとが、思い思いに自由を謳歌しながら共存しているように見えたからです。
とはいっても、暮らしていけば、移民大国ならではの、不都合な真実というのが自ずと見えてきます。
その不都合な真実については、今のところはおいておいて、
さて、
右も左もわからないわたしのような移民というカテゴリーが初期段階でどう受け取られるか、というと、
どんな経緯で、どんな目的でこの国に来たかについては、二の次で、とにもかくにも、ここに来た以上、フランスの共和国精神、知るべし、身に付けるべし、となるわけです。
フランス国民のうち移民といわれる人々が占める割合は、こんな感じです。
出典: L'essentiel sur... les immigrés et les étrangers | Insee
プラスでここに、非合法的に国に入ってくる人々がいますが、これらの人々をカウントすることはたやすいことではありません。
移民ときくと、昨今では移民問題、が思い浮かびます。
テロと移民が結びついたり、
人種差別と移民が結びついたり。
そうゆう背景をもとに、ひとりの移民が、サバイブするための、移民のサホウを考えてみました。
ここで、わたしは移民ではないから関係ないという大多数の人がいることを想像します。大多数の人はどんなに想像を働かせても想像の中でしか移民の立場を想定することはできません。
そのことが、移民のサホウの最初のキーポイントになるのではないかと思います。
移民のカテゴリーに収められた人々はこの大多数の想定が前提にあることを踏まえて社会で振る舞っていく必要があります。
例えばわたしは、容姿がアジア系の、とりあえずアジア大陸あたりから来たのだろう、(どこの国からかはわからない)という移民です。
このことだけで、大多数は、それぞれの想像を働かせます。
この容姿を持っているだけで、なんという数の反応に巡り合ったことでしょう。
公園のベンチに座っていると、中国語で話かけらることはアジア大陸が広いからでしょうか。
役所に行くと、頼まなくてもゆっくりしゃべってくれるのは容姿に関係があるのでしょうか。
日本人だというだけで、電車に乗っていると、スリにあいやすいと思われているのはなぜだろう。
どうしてこの国にきたの?ってきかれて同じ質問を相手にすると、この国で生れたからだよと笑われるのは、なにを笑っているのだろう。とか。
というのは、よくある、移民バナシでこの他にも、たくさん日本文化を褒めてくれるひと、からあげが好きすぎて作り始めたという話をしてくれるひと、読み終わった漫画をどっさりくれるひと(フランス語に翻訳された漫画だから、わたしが読めば勉強になるだろうという厚意で)、やけにはなしは長いけど、きいているとものすごくサムライのはなしをしているひと、こんにちはとさようならだけはいつもなんでかとても大きな声で日本語で語りかけてくれるひと
こうゆう日本文化に対する情愛にみちた人々のあとで、ふと我に返って反芻されるのは、こんな思いでした。
移民にはそれぞれ自身の文化はあるけれど(わたしの場合は日本文化のすべて)移民である以上、ここでは、わたしの文化は、「ある島国のある文化」
共和国では約680万人の移民が同じように個々の文化を抱えて生きている。
わたし個人単位で持っている誇るべき文化は、ある一定のコミュニティーの中でだけでしか共有されない文化、ということだ。
この考え方をつねに頭に置きながら、異文化間のコミュニケーションを築いていくというのは、簡単そうにみえて、常に意識しているのはけっこう難しい。この意識をなるべく忘れない、というのもやはり、移民のサホウといえるのだろう。
ところで、この移民のジレンマ。
共和国では活性剤のように働いているのも確かで、異文化の中で渦巻くエネルギーが、文化的側面から見ればかなりポジティブに、捉えられているようです。
でも、もちろん、日本文化に啓蒙のある人や、その人々がつくるコミュニティーの中で常に生きていくことができる人は例外です、移民といっても書類上の肩書に過ぎずないということもあります。
わたしのように、ひょいと放り込まれたような移民の話ですが、移民になってこんなことも知りました。
日本というネームバリューや、その文化に興味を持つ人がなんてたくさんいるのだろう。
移民のサホウとしては、ここで謙遜、なのでしょうか。
これはどんなサホウでいくべきか、臨機応変、でしょうか。
が、それでも
それらの人々を抜きにすれば、
大多数が、日本=遠い島国
というごく単純な世界地図を把握しているにすぎない。
という大前提が存在している。
これも移民になってみないと気付けないことでした。
さて、ここである疑問が生れます。
そうゆうありとあらゆる文化を内包しているフランス共和国は一体、国として、どうやって成り立っているのか?
ここででてくるキーワードが、共和国精神です。
共和国精神は簡単にいうと、フランス共和国で暮らす人々が持つべき精神のことです。
これは自由、平等、博愛に集約されていますが、共和国精神がどうしてそんなに大事かというと、
フランスの歴史的文化的要素をそのまま国の精神ととらえるのではなく、持つべき精神そのものを国の精神ととらえた方が、出自の違う人をまとめる上で、圧倒的にまとめやすいから。
決して共和国精神のキャンペーンではありませんが、
わたしが一移民として共和国民となったのは、自ずからこうなったのではなく、こうならなければならない、という、移民になるための必須講座を受けたからです。(この講座を受けないと滞在許可書をもらえない)
そう、半ば、強制的にそうなることになったといった方がよいのかもしれません。
この持つべき精神、が結構すごい。
持つべき精神は、絶対に揺るがず、どんな悪もやっつけてくれる守護神みたいな役割を持っているのです。
移民であっても移民でなくても、「自由、平等、博愛」この共通認識は絶対だよ、といわれたら、ほとんどの人は納得せざるおえない、だろう。
移民講座の初日の午前中に、この精神をババーンと掲げられ、今日から共和国民だよ、といわれたらどうでしょう。
もちろんこれは建前としての精神です。
実際にこの精神を全員が完璧に持っていれば、今ごろ社会はユートピアになっているはず。
このユートピアが実現することのない現世界だからこそ、この建前精神、持つべき精神がものすごく強力なようです。
出自の違う人々をひとつにまとめるには絶対的に有効なスローガンがまさに共和国精神なのです。
今のところこの精神が移民のサホウの究極だとわたしは勝手に思っています。
移民は、自由、平等、博愛の態度でもって、
ありとあらゆる偏見や差別をかわすことができると。
でも、これはもう、移民のサホウというより、全人類のサホウということになるのかもしれないです。
MIA
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