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【自己紹介】物語の楽しみ方のいろいろ【ひぐらしのなく頃に】

普段はマンガばっかり呼んでいる私ですが、今回は私の物語を楽しむ方法を紹介したいと思います。
それが一番の自己紹介になると思うからです。
その方法を見つけた作品を簡単に紹介しながら説明出来たらと思います。
タイトルにもある通り、アニメ「ひぐらしのなく頃に」です。アマプラでいつでも見れるので今回で気になった方は改めて見直してみてください。

今回の話は特別な考察があるわけではありません。
しかし、自分にとっては大きな発見であり、創作物(特にマンガ・アニメ)に対する考え方が変わった作品です。

ネタバレも普通にするので万が一見ていない方はブラウザバックしていただいた方がよろしいかと思います。

ひぐらしのなく頃に

言わずと知れたホラー&ミステリーです。傑作だと思います。
原作はノベルゲームですが、マンガ・アニメ様々なメディアミックスして大成功を収めています。
最近では新作アニメ「ひぐらしのなく頃に 卒」も話題になりましたね。(まあ卒のリンクは張りませんw)

私のひぐらし(前編)

私の中でひぐらしは、友情ドラマです。
「疑心暗鬼」を乗り越えたどこにでもある少年少女の友情を描いたものだと思っているのです。

友情がキーワードになっていることくらい分かるわ!
と読んだ方は思ったかもしれません。その通りなのです。
私がなぜ誰にでも分かる友情に価値を感じるのか説明していきたいと思います。

創作物とは(昔の偉人の話)

まず創作物について説明しておきたいと思います。
特にアニメ・マンガが出来る前は文学がその中心でした。
(今回は音楽や絵画はいったん置いておきます。)

その文学の歩んできた道を簡単に辿ってみましょう。
(今回の話は文学の素人が見聞きした話なので、間違っていたらすみません。その時はご指摘いただけたらうれしいです!)

昔は強い正義が、悪い奴を倒す”勧善懲悪かんぜんちょうあく”のストーリーが娯楽の中心だったのです。それは現実からかけ離れた強いキャラクタが悩んだり迷ったりせず、相手を悪としてやっつける話だったのです。
でも現実にそんな人いませんし、相手から見たら”正義”こそが悪なのです。そして第三者から見たらまた別の善悪があるはずです。

そこに一石を投じた日本人が坪内逍遥つぼうちしょうようです。
今から100年以上前の話です。
彼は、人間離れした登場人物や一面からだけ見た善悪を描いた小説を真っ向から否定したのです。
彼の気持ちを勝手に代弁すると、そんなものは道徳の教科書にでも載せておけ!大人が読む文学にはもっと伝えるべきメッセージが無いとダメだろう!
たぶんこんな感じです。

彼は、現実にいるような「等身大の人間」に焦点を当てて、その心情描写にこそ価値があると論じたのです。

それ以後、そういった作品が徐々に増えていきます。
現に今の文学・マンガ・アニメ・ドラマ・映画・・・あらゆるものでその影響が分かりますよね。前述の勧善懲悪なだけの物語だったら現代ではなかなかヒットしないでしょう。

私と師匠

そういう歴史を知って心情描写にアンテナを張りながら創作物を楽しむようになりました。

そして師匠(私が勝手に呼んでいるだけ)との出会いで確信に変わります。
師匠は文学部の博士課程の人で、小説は「言語化されていない概念」の言語化だと言っていました。

言語化されていない概念」の言語化とは、師匠の造語だと思います。
簡単に言うと言葉や熟語で他者に伝えることが出来ない気持ちを物語を通して伝える事です。
でたらめに言い換えると

「自分には才能があると信じていたけど、どうやら一流には成れなさそうだ。自分のプライドと実力の矛盾に耐えられなくなって、おかしくなってしまいそうなんだ。」
この気持ちを分かって欲しいけど、表す言葉が無いんだよ。
みんなも似たような気持ちになったこと無いかい?
若いときの自信と年を取ってきた現実の差がつらいこの気持ちを分かって欲しいんだ!!

これが中島敦「山月記」です。
李徴が虎になるアレです。

単独で記事にしました。

この山月記は独自解釈なんですが、これが私の創作物の楽しみ方を決めました。
作者が共有したい気持ちが作品のテーマになっていて、それを表す言葉が無いので物語を通して教えてくれます。
もちろんそういう意味のない物語もたくさんあって、それで面白いものもあります。
でもこの気持ちを受け取れて「あー!その気持ちわかる!そうだよね!」となれた時のうれしさったら無いんです。

私のひぐらし(後編)

さて、長い説明が終わりました。

私が「ひぐらしのなく頃に」で感じた言語化されていない概念は「疑心暗鬼」です。
だたの疑心暗鬼ではありません。
思春期に教室内でひそひそ声が聞こえたとき、自分のことを噂しているのじゃないかと不安になったことはありませんか?
その疑う心、疑心暗鬼をテーマにした作品なんです。
感じた事のある多くの方は、それを感じても友人を信用してその疑心暗鬼を乗り越えましたよね?
万が一乗り越えられなかったらどうなっていたと思いますか?
圭一のようにバットを振り回していなかったと言えるでしょうか。

物語では、全員を信頼しあって絆の力でその疑心暗鬼を乗り越えます。
圭一たちが乗り越えた不安や相手を信じられない気持ちを「あー!その気持ちわかる!そうだよね!」と思えたから私とって「ひぐらしのなく頃に」は名作になりました。
ちゃんと友情ドラマになっていますよね。

作者がそう考えているかは知りません。
私が勝手に感じて勝手に愛しているのです。
そういう気持ちになれた初めてのアニメでした。そこからマンガ・アニメに対する考え方が変わり小説や映画と同じように創作物として楽しめるようになったのです。

なので、私は雛見沢症候群とかオヤシロ様の祟りがいったい何なのかほとんど考えていません。
それは「教室の中で感じたあの疑心暗鬼」を読者へ伝える為の舞台装置(設定)だと思っているからです。
この設定こそが作者の個性であり、物語の楽しさなんですが、伝えたいことは設定ではなくその概念だと思っているのです。

最後に

もちろん、設定の考察をしている方を否定するつもりはありません。
物語・創作物の楽しみ方は人それぞれでいいと思っているのです。

なのでこんな楽しみ方があってもいいじゃないかと懐深く読んでいただければなあと。

今回の話が気になった方は「疑心暗鬼」に注目してもう一度「ひぐらしのなく頃に」をご覧になってみてください。相手を信じきれない心がきっかけになっていることが分かっていただけると思います。

これを同じような読み方をして何かを感じ取れた作品として、例に挙げた「山月記」や「エヴァンゲリオン」、「ゆれる」などがあります。

エヴァはアニメ版も新劇場版もそのメッセージは同じだと思いました。

「ゆれる」は邦画の名作です。

いずれも勝手に感じて勝手に愛している作品ですが、これもそのうち記事に出来たらいいなと思います。

ちなみに坪内逍遥の論じた内容の一部は現代語訳がkindleで読めます。


最後まで読んでくださってありがとうございました!

こんな感じで出来る限り独自の切り口で創作物(主にジャンプ)の感想なんかを書いています。
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