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「開発援助」を巡って

 「先進国」や「発展途上国」という言葉があるが、これは”先進国”側の主観的な価値観であり、先進や後進というのもその価値基準によって測られた相対的なものである。このような視点に立つと、本来推奨されるべき行為にも疑問を抱かざるを得なくなる。その一つがまさしく「低所得国に対する開発援助は妥当な行為であるか」という問題である。経済の発展はよいものであると解釈されており、故に開発援助は善良な行為であるとみなされているが、ともすればそれはイデオギーの押し付けになりかねない。この記事では開発援助に関する様々な解釈を紹介する。

中立的な経済学における観点


 倫理的には直接的・構造的暴力による産業発展の機会や労働力の簒奪に対する補償とて、本来達成されていただろう経済の成長や生活水準の上昇を埋め合わせるための補填をすべきであると考えられている。そのような価値観の下で政策の在り方や方法論を考察する学問として「開発経済学」と呼ばれる分野が発生した。開発経済学の中でも様々な解釈があるため、その一部を紹介する。

①新古典派アプローチ
価値観:自由競争を尊重を重視する。
理論:農業近代化論と人的資本論                    農業の効率と一人当たりの労働生産性とに着目した教育重視的な考え方。 
経済発展に最も重要な物は資本の量であり、投資の生産効率の改善が重要
経済発展のボトルネックは資本効率の良い民家企業や経営能力の不足でると解釈される。
人的資本への投資(教育)を促進し、政府の介入は制限する。
輸出の増加を目標とした工業戦略。
大規模な投資が必要なため対外的な累積債務問題に陥りやすい。


②改良主義(ミクロ的な視点)
古典派的な成長優先主義の考えから人々のベーシックニーズ(生活に不可欠な社会インフラ:医療・教育など)を満たすという目的に転換する。大衆の所得と生活水準の向上にとって、労働機会と生産的労働を増やすことが効率的であると考える。基本的な方針は雇用促進的な成長戦略と人的資本への投資拡大。
トリクルダウン(社会の上層部が栄えれば下層もしずくが落ちていくように徐々に栄えていくという理論)には懐疑的であるため、雇用の増大と公正な所得分配によってベーシックニーズ(最低限度の生活を維持するための最低限の需要)の充足を目指す。
雇用促進そのものを目的とした雇用志向開発戦略。
労働集約的な輸出志向工業化戦略は失業・所得分配・貧困を同時に解決するという解釈だが、先進国に有利な少品種の一次産業を押し付ける思想に傾倒しないよう注意が必要。

③構造主義(マクロ的視点)
貧困国が低開発均衡から抜け出すことができない理由は、第一次産品輸出に依拠した経済構造と資本不足をはじめとした供給サイドの障害にあると考えるため、これらを是正するための政策が提唱される。

世界銀行の見解

政治的に持続可能な貧困克服対策が必要であるとしている。

政策において重視されるのは                     ①貧困が最も潤沢に所有する労働という資産を生産的に利用すること   ②貧困層に基礎的なサービスを提供すること

アマルティア・センの思想

アマルティア・センとはインドの経済学者であり、ノーベル経済学賞も受賞している。

思想                                貧困とは個々人の基礎的なケイパビリティ(潜在的選択能力)が欠如している状態であると考えた=単純な経済成長を目標としない
開発の意味を財とサービスの充足から個々の福祉、生活の質へと転換
人間開発指数によって欠如しているケイパビリティを具体的に分析するべき


様々な価値観


 国家や世界が進むべき方向をどのように考えるかによって、開発援助に対する価値観や解釈は異なるものとなる。ここでも一部ではあるが複数の捉え方を紹介する。

①経済成長至上主義
一国のGDPが向上することが望ましい→如何なる支援も妥当という価値観。
しかし、経済成長の負の面にも配慮すべきである。
 
②環境問題に関する外部性を重視した視点
先進国のもたらした環境被害に対する埋め合わせ=先進国は途上国の資源を間接的に利用して発展してきたという環境汚染の解釈を基盤とする。
詳細はこちら

③市場効率主義                           資本の偏りは地球全体の資本効率を下げる 
→人的資本への「投資」が望まれる。  
 
④保守主義、ナショナリズム
自国>他国、地球の環境という思想。経済を犠牲にしても自国の生産力を下げてまで他国との協調を図るべきではない
別の見方では「国際協調もまたリスクヘッジの一つではないか、という考え方も可能

⑤歴史学的アプローチ
開発は植民支配、プランテーションなどの暴力に対する補償である。
しかし
・ダイバーシティの拡充:それ自体がイデオロギーの押しつけ
・「先」進国が「後」進国を援助する:帝国ナショナリズムの再版
→他国による教育支援は危険を孕む
産業構造を変革させることは被支援者の生活様式を劇的に変える
果たしてそれが「人道的」であると言えるのか。
一方で飢餓の拡大(生産様式と環境の問題)、このような面を無視して生産活動をつづけることもまた道義に悖る

結論

以上を踏まえると、「低所得国に対する開発援助は妥当な行為であるか」という問題は、「全人類に最低限度の生活を与するために、国家や民族への介入はどこまで許容されるか」という問題に転化される。
私個人の結論は
①歴史的な解釈として、簒奪や暴力の補償として”先進国”は開発援助に関して一定の義務を負う。
②しかしながら許容される支援は人々あるいは国家のケイパビリティ(選択肢)を増やす手段を提供するにとどまる(受容の主導権は被支援側であり、価値観・イデオロギーの押し付けは避けられるべきである)。
③自国経済がもたらす他国への外部負を抑制する義務を果たさなければならない。
というものである。経済成長が必ずしも良いものとは限らないのと同様に、開発援助が必ずしも人々を幸福にするとは限らないということに留意するべきである。

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参考文献・関連書籍

絵所秀紀「開発経済学と貧困問題」(国際協力研究 Vol.13 No.12 通巻26号, 1997年)

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堂 慈音
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