経済原論概説 第4回 資本主義社会
生産の細分化
労働価値説に基づいて資本主義社会の解析を進める為に前回の式
G - W ⋯ P ⋯ W' - G'
を労働力A、生産手段Pmを用いて細分化する。生産手段とは生産に用いる原料、機械などを指す。
W’=W+ΔW G’=G+ΔG
ここではG=100円、A=30円、Pm=70円、ΔW=20円と考える。上式におけるAとは、労働者に支払われる賃金と同義である。また、期末(取引の最後)におけるGは元手あり、G’から元手100円を差し引いたΔGが利潤である。生産者の立場から見ると、利潤はWに生産的労働がなされたことで発生している。よってマルクス経済学では、A(賃金)とΔGの部分を付加価値と捉える。
近代経済学においての付加価値はΔG部分のみである。なお、近代経済学においてはこれらの記号は使用されておらず、全要素生産性(技術力)をA、労働をL、資本をKとしてこれらの関係式から生産量をYを導出する。総生産高から総費用を引いた金額を利潤と捉えるのである。
話が少しそれたが、ここで一歩引き返してまた別の道に寄り道をしよう。仮に、元手の100円を貨幣資本家、投資家に借りた場合、元手の返済と共に利潤のうち一部を合わせて支払う。これが利子である。例えば上記の例の場合、借りた元手の100円の70円で生産手段を購入し、30円を労働者に支払うことで120円分の価値を有する商品が生産される。その商品を売ると120円が手に入るが、貸し手に102円(2円の利子を付けて)返すと18円が生産者に残る。その生産を借りた土地で行なった場合、更に土地代を払うことになるだろう。地主は自分の土地を一定期間貸し出すだけで金銭をせしめることが可能になるのである。先ほどと同様、生産者の立場から見ると利潤はWに生産的労働がなされたことで発生しているが、貸し手や地主の視点のみを考えれば、貨幣や土地(資本)が利潤を生みだしたように見える。近代経済学に労働価値説が継承されなかった大きな原因がここにある。
労働の細分化
労働と生産の関係を詳細に見るため、労働力(A)部分を、量的変化(人をどれだけ雇うか、どの位働かせるかの調整)が可能であり、(価値の)創出効果のある可変資本(v)とし、ΔG部分を可変資本(v)によって生み出された利潤(m)と呼ぶ。一方でPmを量的変化のない、創出効果を生み出さない不変資本(c)とする。すると、
付加価値生産=v(可変資本)+m(利潤)
となる。
ここで、労働者に支払われる賃金はvであるためvを必要労働(生産物)、mを剰余労働(生産物)と解釈することが可能である。技術が発展するほどm/v(賃金に対する剰余労働の割合)が大きくなる、つまり剰余生産物が多くなると考えられる。原始時代には自分が生きていくための生産で手いっぱいだったが、農耕の発達により剰余生産物が増えることで、農奴制や封建社会を維持することが可能になったのである。産業革命が起こり、生産技術が飛躍的に向上したことでmも飛躍的に増加したことによって、資本主義社会が形成されるようになったのである。m/vについては、次回より詳しく説明する。
さて、先ほどの生産者が自分のお金でW’を生産し販売すると、G’(120円)を獲得する。原論では120円の中に元本の100円が含まれていると考えるが、とにもかくにも生産者は新たに獲得した貨幣を使うことで再び生産活動をすることができる。このようなGの循環を資本循環という。Aは労働者に対する賃金として支払われているが、労働者はAをG(30円)という形で受け取っている。労働者はGを用いて生活必需品を消費することになる。労働者が受け取った賃金を用いて消費活動をすることでもGは循環している。このような循環を賃金労働循環と呼ぶ。
このような労働と資本の循環による再生産によって社会は存続しているが、貨幣交換で成立している社会では本来社会を維持しているはずの生産労働が見落とされ、貨幣や資本によって社会が維持されているという考え方に陥りやすい。さらにそれが進むと、貨幣や資本が神格化され、貨幣や資本ですべてを解決できるというような、物神性論に陥ってしまう。
商品価値をwとおくと、
w=c+v+m
と表すことが出来る。本来mは、vがcを用いて生み出した、換言すると、人が労働によって生み出したものである。しかしながら表象(経営)的には、c+vというコストで利潤mが生みだされたと捕らえられる。mを増加させることばかりを重要視すると、利潤第一主義や拝金主義に陥り、さらにそれが進めば社会的モラルは退廃してしまう。
次回は必要労働と剰余労働の関係について詳述する。