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【イノベーションのうまれたところ】Vol.06ニコラ・テスラ / 発明家

ニコラ・テスラは、19世紀後半から20世紀前半にかけて活躍したセルビア系アメリカ人の発明家、物理学者、電気技術者。

X(旧Twitter)社のCEOでもあるイーロン・マスク氏が創業した電気自動車メーカー「テスラ」の社名は、彼にちなんでつけられたものだ。交流電流の発明者として知られており、現代の電気技術の発展に大きな影響を与えた。

彼の研究や発明は多岐にわたり、発明品や設計図の総重量は数トンにも及ぶと言われており、設計図の原版は、2003年にユネスコ記憶遺産にも登録されいる。

今回は、ニコラ・テスラが圧倒的な功績を残すに至るストーリーと、彼の人生から我々現代の研究者が学べることについて見ていこう。



自然のもつ圧倒的なエネルギーに魅せられ、科学の世界へ

二相交流モーター 提供:テスラ研究所

ニコラ・テスラは、1856年にオーストリア帝国(現在のクロアチア)のスミリャンで生まれた。

わずか5歳で小型水車を発明するなど、幼いころから神童ぶりを発揮し、特に数学では飛び抜けた成績を収めていた。

青年になってもその明晰さは失われず、グラーツ工科大学に入学。

ある授業で「グラム発電機(発電機とモーターの機能を併せ持つ直流電流の発電装置)」がモーター回転時に火花を発しているのを目にしたテスラは、そこにエネルギーの損失が起こっていることを見抜き、発電方法の改善を考えはじめる。

そのわずか5年後には、世界ではじめての交流電流の発電装置である「二相交流モーター」を発明。

経済的な理由で大学を中退し会社勤めを始めてからも、この発明をもとに、交流電流による発電・送電のアイデアを発展させていくことになる。


エジソンとの出会いと確執、そして独立

二コラ・テスラ(左)とトーマス・エジソン(右)

ヨーロッパでは自身の発明や研究内容に興味を抱く人に巡り合えなかった彼は、1884年に渡米を決意する。

このとき、ニコラ・テスラは28歳。

圧倒的な行動力と決断力に驚かされる。

渡米後、エジソンが創業した「エジソン電灯会社」に入社。

電力事業をおこなっている同社は、ニコラ・テスラにとってこのうえない活躍の舞台だった。

エジソンの会社が展開していたのは、直流電力によるサービス。

そのため、工場のシステムはエジソン好みの直流用に設計された物だった。

エジソンはテスラに直流の優位性や安全性と共に交流の難しさを伝えることを目的として、「工場のシステムを交流電源で稼働できたら、褒賞金として5万ドル支払う」と伝えた。

これは、常識的に考えると、ほぼ不可能と思えるような条件だった。

しかしテスラは、なんとそれを成功させる。

エジソンはひどく驚くとともに、交流電源の有用性を認めたくないという思いから、「あの提案は冗談だった」として、褒賞金を支払わなかったという。

これに対しテスラは激怒、テスラとエジソンの確執が生まれた。

結果として、テスラはたった数か月でエジソンの会社を退職、「テスラ電灯社」を創業して独立の道を歩むこととなる。

しかし、直流方式での電力供給が主流であった当時において、交流方式の利点を世界に広めることは容易ではなかった。

それでもテスラは「交流方式の導入によって、世界はより便利で創造的なものになるはずだ」と信じて疑わなかった。

テスラ電灯社設立の同年に、さっそく交流送電システムの特許を出願。

その翌年には、誘電モーターと交流電機システムに関する論文「A New System of Alternating Current Motors and Tran」を発表する。

その後、アメリカ電子工学学会にてテスラがおこなったデモンストレーションは、見た目のわかりやすさとインパクトを兼ね備えた、まさに「名演」だった。

その結果、100万ドルもの研究費と特許使用料の支援を受けることになる。

アイデアや着想に加えて潤沢な資金を手にした彼は、交流方式の電力事業を拡大し、現代の電力インフラに欠かせない技術を築き上げていった。

今も昔も「研究費の獲得」は、科学者にとって非常に重要なタスクである。

テスラは、自身の研究内容をわかりやすくかつインパクトを持って伝える術に長けており、研究費を獲得するスキルも非常に高かったことが伺い知れるエピソードだ。

その他にも、100万ボルトまで出力できる「テスラコイル」という高圧変圧器や、無線通信技術など、多くの発明を世界にもたらした。

ちなみにこの「テスラコイル」を実演した際の様子は、写真として現代にも残っている。

現代の我々が見ても、非常にエキセントリックな印象なのだから、当時の人々が受けた衝撃は計り知れない。

1943年に生涯を終えるまでに生み出した発明品や設計図の総重量が数トンにも及ぶというのは、冒頭にも述べたとおりだ。

A double-exposed photograph showing Tesla in his Colorado Springs laboratory, ca. 1899. Tesla forced his “magnifying transmitter” to produce inefficient arcs by turning the machine rapidly on and off during the photoshoot for The Century Magazine — Source.


活躍の舞台は自力でつくる

「天才」という表現が似合うニコラ・テスラの物語から、我々現代の科学者は、いったい何を学べるだろうか。

それは「活躍の舞台は自分自身の手でつくりだし、そこに人々を巻き込む求心力」ではないだろうか。

彼は、金銭的な理由で大学を中退することになっても、会社勤めをしながら自力で勉強や研究を継続する道を選んだ。

また、エジソンとの確執により会社内での立場を失うと、自ら会社を興して、自分の発明の有用性を世界に証明してみせた。

もちろん彼に、人並み外れた才能や感性があったことは間違いないだろう。

しかし、彼が圧倒的な功績を後世に残せたのは、思うようにならない現実に直面したとき、自らの活躍する場を自分自身の手でつくり出し、そこに人々を巻き込むことで活躍の場を自ら作りだしたからだといえるはずだ。

言い換えれば、自分の信念を貫き通す意志の強さが、彼を成功に導いたと表現することもできるだろう。

この視点は、現代に生きる我々にも重要な示唆を与えてくれる。

今や、世界は急速な変化のまっただ中にいる。

AIに代表される技術の発展により、これまでに積み上げた努力や身につけた技能が急速に陳腐化していくのではないか、と恐怖を感じている方もいるだろう。

そうでなくても、日々の業務や生活の中で、自分の思いのままにいかない状況に直面することは誰しもあるはずだ。

そのときに「自分はなんとツイていないんだ」と悲観していても、事態は好転しない。

自分の手で、自らの意思で、望ましい環境に身を置くことが必要だ。

ニコラ・テスラの生き方は、自らの意思で人生を歩むことの重要性を、私たちに教えてくれている。

Nikola Tesla’s personal exhibit at the 1893 Chicago World’s Columbian Exposition Fair


科学にとどまらない好奇心

最後に、ニコラ・テスラの逸話を紹介しよう。

彼は、電気技術だけでなく、物理学や機械工学など幅広い分野に精通していた。

彼が革新的な発明を次から次へと生み出せた理由のひとつに、電気と機械工学といった「異分野同士の知識の掛け合わせ」があった。

それだけでなく、なんと8つもの言語を巧みに操り、詩作や音楽、哲学にも精通していたという。

言語はまだしも、詩や音楽といった芸術分野に対する関心は、一見、研究とは無関係に見える。

しかし、ニコラ・テスラが強い意志をもって研究を継続できた背景には、こうした「直接的には研究の役に立たなさそうなもの」への造詣があったといえるだろう。

事実、ヨーロッパに活躍の場がないことを悟って渡米した際、彼にはほとんど所持金がなく、持っていたものといえば、自作の詩やアイデアを記したノートの類だったという。

先行きが不透明な挑戦の中、彼を支えていたもののひとつに、こうした「研究とは無関係だが、彼の心を支えてくれるもの」の存在があったのではないだろうか。

我々も、研究以外に自分が興味関心を向けられる対象があるならば、ぜひ大切にしたいものだ。


[参考文献]

エジソンが恐れた天才発明家テスラが生み出した「交流の仕組み」 – マイマイ姉妹のようこそ!エネルギー偉人館/マイ大阪ガス

ニコラ・テスラの「世界システム」はよみがえるか:日曜日の歴史探検 – ITmedia エンタープライズ