エンジニアから理科の先生に ①きっかけ
こんにちは。りかせんです。
「エンジニアから理科の先生になるまで」第1回です。
思い出されるシーン
教壇に初めて立ったのが今から約9年前です。それ以降、なぜ先生になったの?と聞かれる機会が何度もありました。ホント、色々あってね … と、どこから話そうか思案するといつもあるシーンが思い出されます。
それは、産休で里帰り中だった私が、生後1か月の次男と、3歳の長男とお昼寝をしようとしているところ。実家の和室には、母が昔使っていた立派な琴が壁に立てかけられていました。なぜあの時そうしたのか覚えていないのですが、私は立てかけられた琴を、そっと床に横に下し、二人とお昼寝を始めたのでした。
そのあと、あの大きな地震が起こったのです。2011年3月11日、東北ではなく、関東にいた私ですが、いままで体験したことのない震度5強の揺れで反射的に目が覚めました。幼い息子たちは起きなかったけれど…。
母とテレビをつけ、東北で大きな地震が起きたことを知りました。そこからあとの記憶は断片的ですが、あのとき琴を立てたまま昼寝をしていたら、どうなっていただろう、息子たちの上に倒れてきたのだろうか、と、ふとあの時の虫の知らせにとにかく感謝しました。
そしてこの日が、のちに私がエンジニア職をやめ、教員になる大きな変化点になりました。
何よりも堪えたこと
何よりも、エンジニアの仕事を続けるか、の迷いを起こさせたのは、地震そのものではなく、続いて起こった原子力発電所の事故をめぐる日本という国の向き合い方、でした。
事故直後から、自分の子どもを原発事故の影響からどう守るか、全国の母親たちは奔走したのです。ただちに影響はないと繰り返す政府と、それを繰り返し流すテレビ局。
チェルノブイリでは、のちに多くの子どもたちが、甲状腺ガンなどに苦しんだというのに、「直ちに影響はない」だって?
通常時でも私たちは自然放射線を浴びているのだから、とりたてて神経質になる必要はないと誘導するかのように、パネルをだして説明する原発推進派の専門家。
母親たちはそんなことを知りたいわけではない。今、目の前で泣いているわが子に、この粉ミルクを飲ませてよいのか?が知りたい。粉ミルクの汚染度は?水道水ではなくミネラルウォーターを使った方がよいか?将来への影響は?
自分の選択ひとつひとつが、子どもの未来に影響を及ぼしそうで重く苦しく感じられ、必死で情報を集めました。
でも世間は想像以上に無関心で、福島から離れた関東では、徐々に何事もなかったように元の生活に戻る人たちもいました。致し方ないとはいえ、そんな周囲との乖離を感じながら幼い息子たちを1年、2年と育てるうちに、ある反省の思いが沸き起こってきました。
理系の道を歩んできたのに
その反省の思いとは、一貫して理系の道を歩んできた自分自身が、あるリスクは過剰評価してみたり、別のリスクは過小評価してみたり…感情が先に立ち、冷静にデータを見られなかったのです。
放射線のメリットとデメリットも知っているはずで知らなかった。私自身が不安に負け、科学リテラシーが全くないことに気がついたのでした。
私自身が原発のような科学技術のもつリスクに真剣に向き合う視点を持ってこなかった責任も半分以上はあるにせよ、これまで自分の受けてきた科学教育が、この非常事態を生き抜くための知恵を育んではいなかった現実に、焦りを感じました。
何を生業に生きるか
産休・育休からエンジニア職に復帰したものの、これから自分は何を生業にして生きていくべきなのか迷いは消えませんでした。とにかく、当時の私は、エンジニアの仕事は楽しいながらも、携帯電話や電子デバイスの回路設計では子どもたちの未来に貢献できている実感がどうしても湧かなかったのです。どんな優秀なスマホも2年もすれば買い替えられてしまう世の中。
後戻りできないように
子どもたちによりよい未来を残す手伝いができ、自分の得意の理科を生かせ、30代子持ちでも努力したら実現可能なもの。それが理科の教員でした。そう決めるまでに、2年、決めてからも迷いは消えませんでしたが、時間が経てばたつほど事故の記憶はうすれ、元の生活に戻っていきそうな自分に危機感を感じて、後戻りできないように、教員免許取得に向けてスタートを切りました。
教員免許をとる方法がひとつだけあった
スタートを切りました、とサラッと書いたものの、正直教員免許持ってないな…というのが一番のネックで、まずは教員免許ってどうやってとるかを調べるところからでした。
大学時代、教員にはまったく興味がなかったので教員免許はとっていまでした。
通学生なんて絶対無理だし、と必死で調べたら小回りの利かない子持ちワーキングマザーにも、一つだけ道が残されていました。働きながらの中高理科の免許が取れる大学の通信コースが!その名も、明星大学通信教育学部(東京都日野市)。そして、事故から約2年後、筆記試験と面接を経て、課程履修生(最短2年で取得)として同通信学部に入学しました。
こうして、エンジニアに在職しながら、教員になる第一歩は始まりました。
長くなったので、今回はここまでにいたします。次回から、免許を取るまでの3年間をぽつぽつと書こうと思います。最後まで読んで下さりありがとうございました。
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