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Stand up! Bow!! という「国際」化 〜言語とグローバルコンテクスト〜

友人の一人が面白い記事を紹介してくれ、それで思い出したことがある。

スポンサーとなっている筆者は、日本のスポーツ界にも根強く残る「昭和臭」が、いかにグローバルコンテクスト、今現在の世界トレンドの実現に合わないか、を経験を踏まえて指摘しており、大変興味深い。特に21世紀のスポーツイベントで赤絨毯の特等席に座る男性政治家たちと、それに深々とお辞儀する関係者男性たちの姿は、想像すると確かにコメディ感がある。おいおい、今21世紀だぜ?

急遽決まった立志式というイベント

このコメディ感で思い出したのが、前任校での式典である。前任校は英語教育に力を入れ「グローバル人材育成」を掲げる私立学校で、教員の半分は外国人だった。ただ、そうした学校ではあるけど都心や関西圏にあるのではなく、田舎に立地していた。今はその学校も何回も卒業生を出しており、もう落ち着いていることだろう。だけど、最初は本当にバタバタで、そのために「グローバル人材育成」「批判的思考力を育てよう!」という理念と、田舎というローカルかつ「昭和臭」な事情が度々ミックスされ、コメディなイベントがよく起こっていた。

例えば立志式である。その中学校が立ち上がり、初めての生徒が2年生になった年度の途中で、立志式というイベントを行うことが後から決まった。

立志式というのをご存じだろうか。これは元々は武士の元服の儀式に合わせて地域により中二(14歳)のイベントとして学校で行われることがあり、10分の1成人式などと共に親に対する感謝を伝える行事の一つとして広がりを見せている学校行事ではないかと思う。その地方では立志式が他の公立校では行われていたようで、そのために保護者からの強い要望があり、またその地元の元公立校校長たちが管理職を占め、地元有力者や政治家が経営陣にいることもあって、年度途中にこの行事を行うことが急に決まった。新設校ならではのバタバタだった。

自分は当時、その中学のイベント企画運営をだいたいは取り仕切っていた。例えば当時としては田舎ではまだまだ珍しいハロウィンイベントの企画など、「グローバルとも言えないけどねー」とアメリカ以外の出身者たちとは苦笑しつつも、英語教育に特化しているその私立学校らしいイベントの一つとして小学校から継続して行っていた。が、そうした企画に対しては、実は「授業を潰してまでやることはない」と、当時は地元公立校関係者が多くを占める管理職からの反発がとても強かった。

それが立志式は年度途中で「授業を潰して実施する」と管理職側から持ち込まれたのである。自分は都会の私立ミッション系女子校の出身だったこともあり、立志式という式典そのものが初耳だった。そんなの日本全国どこでもやる式典ですらないため、自分としてはハロウィン以上に「授業を潰してまでやることはない」行事にしか正直思えなかったが、ローカルでは重要な行事なのであれば別に反対するほどのこともないので、立志式を知りもしないから手伝えないために企画運営は他の男性教員に任せ、自分は外国人教員たちに急遽決まった行事を説明するなど運営のサポート側に回ることにした。メッセージビデオを撮ってくれと言われて外国人教員にカメラを向けると、「立派なサムライになるんだぞー!!ところで、そんなの21世紀にやって女の子はどうするんだい?」などとおちゃらけたメッセージを言う外国人教員が現れ、説明が悪かったか?と反省したが、とりあえず準備は着々と進んでいた。

体育館に響くStand Up!Bow!!

立志式は中二の行事で、当時自分は中一の担任であり、中二の担任全員や学校管理職等々が全員式典に出席するので、当日のその時間は自分が中一の授業を全て担当するしかなく、授業変更もした。自分は本番には参加できないために、前日の、もう何回目か行われた後のリハーサルを見学しに行った。

少し慣れた感じで始まった式典のリハーサルは、並び方といい式辞といい、計画されている来賓あいさつの順番といい、完璧に日本式だった。そりゃそうだよね、立志式なんて元々は元服式なんだからアレンジしようがない。でもそれはそれで日本の学校文化の一側面を経験するいい機会だとは思っていた。ただ、唯一残念でならなかったのは、全てが

Stand Up!! Bow!!!Sit Down!!!!

から始まり、そして終わっていたことである。儀式の全てが日本式なのにひたすら英語が響き渡る体育館。しかも、びっくりするぐらいの直訳英語。これだけ日本式のローカル儀式なんだから日本語でやればいいじゃない。それはそれで価値があるからやるんでしょう?なのに、なんで取ってつけたように直訳英語なわけ?英語には英語でコンテクストがあるんだから、そんな英語が「起立!礼!着席!」という日本の学校の号令の直訳であることは日本人だからわかるんだぞ。

なんだか出来の悪いコメディ映画を見ているような気がして自分は正直笑えてしまったが、その場にいる教師陣は誰一人として笑うこともなく、ただひたすら真面目に、ぐだぐだしている男子生徒にまっすぐに立てとか、お辞儀はきちんと!などと注意して歩いていた。途中で見ていられなくなり、体育館を出て、そこで出会った事務員に言った。

「批判的思考力育成なんてこの学校は創設以来掲げてるけど、そんなもの本当に育成したい?」

自分にはわからなくなっていた。そんな田舎にしては背伸びをし、莫大な資金を投入、ある程度は税金も投入して、あの大人たちは、14歳で「立志」する子供たちをどうしたいんだろう。「グローバル社会に通用する英語ができる人材」=「英語ができる日本「昭和臭」企業の社長秘書」じゃないって、そもそもわかってるんだろうか。

「お話があります」 ~カナダ人女性教員の日本語での訴え~

今思うと、その年の立志式が初めての「純日本式式典 with 英語」だったが、その学校ではその後も何回も同様の式典が行われた。自分が取り仕切ることも当然あったが、最初は違和感しかなくて失笑が抑えられなかった自分も慣れるもので、ま、みんながいいならいいんじゃない?ここ日本だし、ローカル力学が強いのはどうしようもない、くらいには考えられるようになっていた。

そして、最初の高校卒業生を出すという年。当時自分は体調がすこぶる悪く、もうイベントがどうのなどと考えられるような状態でもなかった。高3の担任でもなかったし、卒業式の予行演習などにも一切関わってはいなかった。が、ある日、自分の後ろの管理職の席の方から女性の声が聞こえた。

「〇〇先生、お話があります」

もちろんこの学校にも女性の日本人管理職はいなかった。女性教員だって圧倒的に少ない。その中で聞き覚えがない声がする。誰だ?

振り返ると、そこには日本語で、英語が全くできない日本人男性副校長に話しかけるカナダ人女性の英語教師がいた。

彼女は卒業する学年が中3の時から一時期英語教師をしていた。英語教師としての彼女は英語の指導法も評価法も本当にしっかりとしていて、成績管理の責任者だった自分としても尊敬するレベルだったけど、それだけ厳しかったが故に管理職や保護者との対立も多く、見ていて心配になることもあった。だけど彼女は仕事だけでなくプライベートも充実させる人で、仕事のことを引きずったり、無駄に長時間労働したりは絶対にしなかった。日本人としては学ぶべきだな、と毎度思ったし、さらにちょうど東日本大震災の頃、同学校の同僚を組織しては被災地に何度も行ってボランティア活動をしていた姿はまさにこれぞグローバル人材という感じで、生徒たちに学んでほしいと思っていた。

そんな彼女は、卒業する学年が高2の頃、母国に帰って環境法を専門とする弁護士になる勉強がしたいと学校を去っていたが、その学年の担任の産休代理として、彼らが高3の時に再来日していたのである。そして、彼女は繰り返される「純日本式卒業式 with 英語」の予行演習に担任として参加し、それを批判的に考察した自分の考えを副校長にまっすぐ伝えていたのだった。日本式の荘厳な卒業式はそれはそれでいいと思うが、せっかくこういう英語教育の学校の卒業式なのだから、もっと楽しみのある英語圏の卒業式らしさを出させてもらいたい、自分が計画するから、といった内容だった。

彼女がすごいのは、英語ではなく、日本語の通訳をつけるでなく、自分の、しかもとても丁寧な日本語で副校長に伝えきったことである。そして、さらに重要なのは、この学校は英語教育に特化した学校なのだからと日本式儀式を全否定するのではなく、協働しようと持ちかけた点である。当時半分くらいいた外国人教員は、英語しかできない、日本語はそこまでできない人の方が多かった。特に彼女のようにずっと日本に住んでいたわけではない外国人教員の多くは、その環境で日本語を伸ばすことなく帰国するケースばかりだった。彼ら、彼女たちはもちろん管理職によく意見していたけれど、だいたいは英語で伝え、通訳を入れる形だった。彼女が最初に来た時、成績などで保護者や管理職と揉めた時だってもちろん同じだった。そしてその頃の彼女だったらきっと「なんであんな日本式なのよ!!」ぐらい強い調子で言い放ちそうだった。それが、本当にたった数年で、彼女は自分の日本語のレベルを上げて直談判するという道を選べるくらいになっていたのである。彼女がその学校で仕事をしながら、被災地でボランティア活動を続けるなど日本をより幅広く見聞きしていたからこそできる技だったことは明らかだった。

直談判があっても、管理職はもちろん譲らない。それはその学校初の高校卒業式で、来賓、つまり地元有力者もたくさん参列する。本当に、この記事にあるような、赤じゅうたんにお辞儀しちゃうようなそんな世界だった。だから管理職だってそんな簡単には譲れなかった。「昭和臭」お決まりののらりくらりとした言い分だったがとにかく反対なのは明確で、彼女は苦しそうではあった。が、それでもとにかく日本語で食い下がり続けていた。

自分は途中で助けようかと思ったがやめた。彼女の日本語での訴えに、彼女の日本への、日本の「昭和臭」へのリスペクトを感じたからである。それはほぼ同い年の日本人女性で、正直に言えば、日本社会を覆い続けるおっさんたちの「昭和臭」に散々苦しんできたロスジェネ女性の自分には出しにくいリスペクトだった。だから、どんなに片言になる部分があっても、彼女が伝えたいリスペクトの気持ちと、自分の意見もまたリスペクトして欲しい、自分の意見は決して「純日本式式典」と対立しないはずだという真剣な訴えは、彼女自身の口からの方が伝わると信じた。

結果、彼女は管理職の一部妥協を引き出すことに成功した。紅白幕が下がる体育館での「純日本式式典 with 英語」の後、地方のお偉い来賓たちが全員赤じゅうたんの上を歩きながら退席した後に、彼女が出てきて卒業生たちに英語で語りかけた。

「卒業おめでとう。英語圏では、高校の卒業式はもっとお祝い感があり楽しいものなの。ここからはそういうお祝いもしよう!」

私は教員席の末端にいながら、お偉い来賓たちも残って見とけばいいのに、とひそかに思っていた。

言語とグローバルコンテクスト

この例から私が言いたいのは、「日本式儀式 with 英語」と「日本語でリスペクトを示しつつ意見する」のと、どちらがグローバルコンテクストに合った言語選択なのか?ということである。

言語はいくら英語でも、日本のコンテクストから出ていなければ、それはグローバルでもインターナショナルでもない。ただの英訳である。それだと日本映画を英語吹き替えで見るのと何も変わらないのに、吹替でもなく日本人の演者自身が全編英語でやってたら、何の冗談なの?って世界中の人が思うのではないだろうか。日本ではとかくグローバル=英語という言語に意識が向きがちだが、二つは別にイコールではない。日本式儀式は日本のコンテクストで行われ、その中で使われる日本語の一つひとつにも意味がある。日本語だってグローバル化が進む今も残る私たちの大切な言語なのだから、大事にしていい。

その証拠に、英語を母語とするカナダ人女性教師は、日本社会に対するリスペクトを示しつつ、自分たちの文化へのリスペクトをも求める際に、英語ではなく日本語を選択して歩み寄った。彼女は多様性がある者同士が互いにリスペクトしあって協働するというグローバル社会の大事な要素を、日本語で見事に表現したのである。その日本語は、彼女の少し強めないつもの英語の論調ですらなく、どこで覚えたんだろう、と日本人の自分が感心するほど落ち着いた穏やかで丁寧な言葉遣いだった。敬語も忘れなかった。が、主張は決して譲らなかった。21世紀に言われるSDGs、こうしたゴールを世界中で協働して目指そうというグローバルコンテクストを優先させるのであれば、言語はある意味何語でもいい。協働するのにふさわしい言語を選べばいいだけだ。彼女の強い姿勢から私たちが学べるのはまさにここである。

日本ではここ数十年間「グローバル化」が叫ばれているが、結局のところ日本の「昭和臭」コンテクストをどうしても変えたくないが故に「グローバル」=「英語という言語の使用」という安易な解釈をし続けてきた。その結果、赤絨毯に君臨する83歳のおじいさんを有難がって21世紀のグローバルなスポーツイベントの長に据え、彼がどんなにgender equarlity には全く沿わない発言をしてグローバルコンテクストでは批判されても、日本コンテクストでかばい合って無駄に時間を要する、という質の悪いコメディを今世界にさらしている。

これが、世界から「今21世紀だよ?」と言われるタイムスリップコメディもどきだと、日本人はどのくらい自覚しているのだろうか。それこそ21世紀においては、「グローバル」=「日本のコンテクストを英語で発信」ではない、という事実に、ここ数十年のらりくらりと「昭和臭」という日本のコンテクストを擁護し続けるあまり世界から遅れている日本が真剣に向き合えるかどうかが問われている。21世紀東京オリンピック狂騒曲が、一人でも多くの日本人の自覚を呼び覚ますのであれば、それはそれで価値があるのかもしれない。

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