見出し画像

ランダムな3単語で物語を書く その1

とある知り合いが、ランダム単語ガチャから出力された3つの単語を題材に短い物語を書く、という試みをやっていました。

何それ面白そう!と思いつつも時は過ぎていき、他のことに気を取られているうちに優先順位が下がってしまったのですが、生大喜利のレポを書けなくなった今、noteのモチベーションを保つためにやってみるのも良いかなと思ったので、軽い気持ちで始めてみることにしました。

初回のお題ワードは「備忘録」「当たり屋」「架空」です。




何もかも分かりきっているかのように、俺はブレーキレバーを握る。当たり屋は停止した自転車を視認してから、後を追うように前方へとよろけた。

「どこ見てんだ!」

黙って顔を指差す。相手は一瞬たじろいだ。

「この……。危うくぶつかるところだったじゃないか」

「ぶつかれなくて残念でしたね」

「な……!」

罵詈雑言を浴びせてくる初老の男を尻目に、俺は再び自転車を走らせた。いい年して当たり屋かよ、情けない。俺はああはならないぞ。なりたくてもなれないけど。品行方正が俺のモットーだ。人間は真っ当に生きてこそ人間。無論、自転車も車道の左側を走っているし、ヘルメットも着用済みだ。

橋を渡りながら、先程の当たり屋について思い返す。やたらとこちらを見ていることには早い段階で気づいていたので、何だか怪しい、と勘づくのにも時間はかからなかった。だからこそ先読みして行動できたのだ。我ながらなかなか明晰だったと思う。にしても、あのジジイ──。

あれ。どんなジジイだったっけ。初老だったことは覚えているから便宜上ジジイとしているが、顔が思い出せない。無礼ながら人差し指を向けたあの顔。それどころか服装の記憶すらもう怪しい。Tシャツか? パーカー? タンクトップだったかも?

この頃、記憶力が明確に衰え始めている。前から決して良い方ではなかったが、まだ若いというのにこのザマではいけない。早く帰って保存しなくては。

橋も頂上を過ぎて下り坂に入る。俺は漕がなくても良いペダルを少しずつ動かした。


帰宅して早々、俺はデスクの棚に挿してあったノートを広げた。これは俺の備忘録だ。忘れっぽさを自覚したその日のうちに忘れず購入した、ハードカバーのちょっと良いノート。これで3冊目になる。

俺はペンを手に取り、ついさっきの出来事を書き込んだ。


自転車で帰宅中、当たり屋に遭遇。当たられずに済む。初老の男。


ふう。これでもう忘れる心配はない。いや、忘れてしまってもこれを読めば思い出せる、という方が正しい。記憶を物質化して不変の形にしておく。これが今の俺にとっては最善の策なのだ。

張り詰めた気持ちがいくらか緩んだところで、思考は俺自身に向き始めた。しかし、悲しいな。こんなにも落ちぶれるとは。ここ最近はなかなか冴えた判断も出来てないし……。

あれ? そうでもないよな。さっきだって自分の好判断が光ったはずでは。そのはずだ。もう忘れてしまったのか。慌てて備忘録を読み返す。


自転車で帰宅中、当たり屋に遭遇。当たられずに済む。初老の男。


これしか書かれていなかった。数分前の自分は最早手の届かない場所にいて、捕まえて真相を尋ねることもできない。途端に自らの記憶を信用することが怖くなった。当たられずに済んだのは本当に俺の成果か? ただの幸運や思い違いではないのか?

家に帰ってから備忘録に書き込み、その安心感が逆効果となってたちまち思い出せなくなる。こんな行動が有益だとは言えるわけがない。

ひとまず、今日の記述の末尾に「自分の成果? 幸運? 思い違い?」と書き足しておく。しかし不安は収まらない。俺は過去の俺を覗きに行った。あるページに「品行方正になる」とだけ書いてある。あまりにも唐突な記述であり、これでは備忘録の体を成していない。当時の俺が何を思ってこう書いたのか、今となっては思い出せない。何か悪事を働いた人のニュースを見たのかもしれない。知り合いの誰かが小さなズルをしていて、それを許せなかったのかもしれない。或いは自分自身が気を抜いた瞬間に何かをやらかしたのかも……。

いや、いや。そもそもこうして空想を巡らせること自体どうなんだ? 今の俺にとって過去の備忘録はただの文字でしかなく、そこに真の意味での事実は存在しない。読み取れるのは空白だけだ。俺はインクを使って空白を書いていたのか。

そして、その空白を架空の情報で補完する。仮に本当のことであったとしても、俺にとっては全て架空の出来事でしかない。そうして無い記憶を作り出し、或いは作り替えている。これは俺が言うところの「品行方正」なのか? もしかして、俺がこれまでに書き連ねてきた記録も架空のものなのではないのか? そもそも品行方正というモットーも自分がでっち上げたものなのではないか?

自分は正しいのか?

記憶力は無いくせに、想像力だけは無駄に働きやがる。何だか平衡感覚が失われていくような気がして、俺は備忘録を閉じて棚に挿し直すと、へなへなと座り込んだ。ノートは4冊並んでいた。


その日以降、俺は備忘録を書くのをやめた。中に何が書いてあるかも分からないようでは、備忘録としての意味を持たない。処分することも考えたが、俺が生きた一定の期間が丸ごと無かったことになってしまう気がして、捨てられなかった。

最近は備忘録の代わりに、丹念に物を見て、全てを覚えるよう心がけはじめている。

前と同じように自転車に乗っているが、その中身はまるで違う。車体の注意書き、電柱に貼り付けられた看板の住所、横断歩道の白線の本数に至るまで、全てを覚えようとしている。そうしなくてはならない気がして仕方がないのだ。元々劣っていた俺の記憶力は、訓練のおかげか多少調子を取り戻し、前のように直近のことを思い出せなくなるようなことは少なくなった。

周りからは「お前は変わった」と言われる。決して良い意味ではないらしい。目玉をひん剥いて辺りを見回す様子を咎められたことも数知れない。実際、あの日を境に俺は狂ってしまったのかもしれない、と思うこともある。

しかし、狂ったから何だというのだ。俺は俺としての意識を持ったまま存在し続けている。揺るぎない事実だ。そして俺を信じられるのは俺だけ。俺はいつだって正しくなくてはならないのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?