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明暗の感得

休みの日はとりあえず外に出てみるといい、うちにいてもろもろ済ませたりのんびりするのは以前よりうまくなったなと思うけれども、それでもやっぱりそわそわする日は外に出てみるといい。
外に出てみると自分がけっきょくあらゆるほかのものやひととの分別でなりたつ、相対である、相対のテイであることを確認できて、ひとここちつける。
そうなると室内のそわそわはみずからが絶対であるかのように存在の密度を増してくることに由来するのかと考えるのも、相対、対比という既存の強度ある構造に頼ってしまうことになり胸塞がるのでしない。
しないでなにをするかというと外に出た自分を感得するということで、外に出ればここちよい制動が、抑制がみずからにかかって、そのゆえにかえってみずからの心身の動きがたちあらわれてくるというもので、それが外に出ることの救いである。
「あらゆる不幸は人間が部屋のなかにじっとしていられないから起こるのだ」とだれかが書いたか言ったかしたのだと、また別のひとの書いた本で読んで、外に出ようとするときなぜかその一節が頭によぎるのだけれど、ちょうどよい「不幸」くらいがちょうどよいと思えるのはかなり傲慢かもしれないがやはり心身にとってはそのあたりが真実なのではないか、と思って、地下鉄の一日券を買い、知らない名前の駅に行き、川や土木についての資料をあれこれ見、子どもが名前をつけた橋を渡り、行先としてしか見たことのない駅からまた電車に乗って、地下鉄で乗り継ぐため1キロほど離れた駅間を歩いて、などしてその間何冊か本を買い、むかし住んでいた街ゆきの電車に乗って帰宅をしている。
雪用の靴もリュックで背負っている。
それらのことは、家を出るまで予想していなかったことだった。

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