石炭をばはや積み果てつ、というような気分だ、午前中なにやらもぞもぞとしかしていなかった土曜は。真夜中2時にあるいた地元の道は、過去の習慣のためにちかごろの空白、無知を知った感じ、に溶けこませて、まるでなにひとつ変わっていないかのようにその存在感を無みする脳みその表層をかすめていくばかりだったけれど、しかしそのときの秋の風やにおい、ややかたむいた明かりといった一回性をかき分けてすすむ肉体が、みずからと認識とのずれにはやり、焦って汗に濡れていく、ややのこるアルコールと汗のぬくみと
知らないファミマを昨日2軒まわって、20分くらいつかった 好きそうだけどあんまり好きじゃない場所と、なんかよくわかんないけど好きな場所というのがある 前者はたいてい窮屈で、後者はとりあえずぼんやり広い ぼんやりとでも広ければいいので好きな場所が多いのでそれはありがたいのかもしれない あとおもしろい漫画をよんだ
友達と音楽をつくりました! あらゆる奇妙な壁を奇妙な壁と思わない気持ち
TBSラジオ「今晩は 吉永小百合です」。 今日は甲子園クイズ。 吉永小百合さんは、クイズというフォーマットを意識しながらも縛られすぎることなく、かろやかにお話をしている。 クイズを出題することを吉永小百合さん自身も楽しんでいるらしい。 CMのあとも甲子園に関するクイズを「用意して待っています」とのことなので、とても楽しみである。
ワズカコニールというバンド、いまさら見つけていまさらとてもいいなと思っている。 インターネットには悪い面、嫌なところともにたくさんあるが、数少ないよいところに、探せばこうしたなにかが残っている、というのがある、と思って昨日は生きていて、今日も生きていたりする。
TBSラジオ「今晩は 吉永小百合です」。 今夜は6/10の「時の記念日」にちなんで「時計の歌」特集。 吉永小百合さんは、英語を発音するときにネイティブな発音になる。 吉永小百合さんは、家にいるときでも腕時計をつけていたいくらい、時計に合わせてちゃかちゃかと動いているらしい。 吉永小百合さんは、「時計とこれからも仲良くしていきたい」と抱負を述べていた。 映画のタイトルとはいえ、吉永小百合さんがいつものおだやかなトーンで「暴力教室」と発語するミスマッチがたいへん興味深か
たまたまラジオをつけていたら吉永小百合さんの番組がやっていて、シンプルにすばらしいとおもった。 やわらかで丁寧な言葉づかい、品のあるユーモア、お話と音楽のてきどなバランス、吉永小百合さん自身のJRのCM、過剰なものがいっさいなく、均整のとりもどされる感覚。 これを毎週きけたらそれはとてもよいだろうと思った。 今週の音楽のテーマは「もの売りのうた」で、「ジャワの焼鳥屋」、とか「ミネソタの卵売り」、とか「長崎のざぼん売り」、とか、ひそやかなたのしさがあり、 「陽気なボンボン売り」
家は出遅れるし快速には乗れないしで相当どうしようもないが雨は小雨で、ならまあまだいいかと思う、というか思うようにする。 この、思うようにする、という自覚、観念がおそらく大事で、と自分をはげまし、心から思えていることというのはあんまりなくて、なんとなく、とか、どうも、とか、どうにも、みたいに、なんというか懸隔、たんてきに達成までの遅延がある。 なにごとかをなそうと思ってなすときの、思ってからなすまでの間には限りない遅れがはさみ込まれる。 限りない、としたのは、もちろん思考ののち
休みの日はとりあえず外に出てみるといい、うちにいてもろもろ済ませたりのんびりするのは以前よりうまくなったなと思うけれども、それでもやっぱりそわそわする日は外に出てみるといい。 外に出てみると自分がけっきょくあらゆるほかのものやひととの分別でなりたつ、相対である、相対のテイであることを確認できて、ひとここちつける。 そうなると室内のそわそわはみずからが絶対であるかのように存在の密度を増してくることに由来するのかと考えるのも、相対、対比という既存の強度ある構造に頼ってしまうことに
いきをふきかえすためのことばをお守りのようにいくつか持っておくと便利である。 ことばとは抽象である概念であるというかたりにつきあたることもしばしばあるが、ことばとはまずもってものである具体であるというのはいちどことばをつぶやいてみれば実感されるはずである。 それまで胸のうち腹のうちでうずまいていたあいまいに吹き流しのようなさまざまが口もとで形をむすび、やがて切実な具体として質感をあたえられ光を反射してゆくのに、あわせていまここにあるわたしの存在の実感が、ここという場所の場所性
パワープッシュということばにあこがれがある。 プッシュ、というだけでも蒸気機関の駆動めいたスチームの気配、パワーの輪転、推進の意を感じるように思うのに、さらにパワー、が強調されているところに、プッシュ側になじめず、いつまでもプル側にいるようなわたしは、それゆえになおさら、パワープッシュ、のことばにあこがれ、ひかれるここちがある。 プッシュならともかく、パワープッシュとなると押されるがわもひと苦労、むやみな重荷にさいなまれることもありそうに思うが、それでも一見かろやかに思われる
およそ年という単位でみずからが変わってゆくわけでもないのに、年末となればむやみに総括をしてみたくなる、全体性のつみぶかさに、わかりつつ収束のある安心を、しかし求めたくなるのは、収束は終息であり、ひとたび息する暇ができる、と、いまこのスマートフォンで入力している誤変換を見て考える、なので結局、本気で考えているわけではないのだが、あたかも本気で、つねから考えているかのようにふるまう、ことがもしかして万力で、だれかを締めつけてしまうのかもしれず、しかしそれは果たしてきっとつけあがり
年の瀬、の瀬、が、川、であることはなんとなく知っていたけれども、時間を流れになぞらえる謂いは一般なのではと思い、調べてみれば瀬とはとくに浅く流れの速いところを指すと知り、しかし年の末のころの時間といえば、深く夜も底をついたころの、真空の時間が空間ととけあったように漠として、いつまでもつめたくある、そのイメージが私をとりまいていて、だから昼間の師走というのにはうなずけるけれども、その対比に極としてある深夜のことを思えば、年の瀬、にはややうなずきがたく、けっして私の首のひと振りが
酒を飲んでうっかりそのまま寝たのですっかり冷えきった身体をちいさな震えが感覚とおく断続する朝、外に出てみると太陽が芝生を白く発光させて、しかし空気は漠として乾き、澄んでよく光を通すので、白い発光の印象だけがつよく、まわりの木々や遊ぶひとびと、高層の建物、その他事物の展開は薄膜を通したようにおぼろで、遠くある。やがて「揃っている」というあいまいにつかめない感覚がわたしの腹の底にじりじりと滲み出してきて、わたしのうちに「存在の幸福」という手ごたえが沸く。ちかくでざふざふ、と音がし
ひさびさにひとりで土日を過ごす結果となって、先週やや荷をおろしたせいか、ふだんは気の進まないあれやこれやもするりと手について、迫られのない適度な緊張のなか、寒く、しかし出かけて、LADY FLASHのライブをみた。 さいこうにたのしかった。 圧倒的なパワー。 推力、というにもややちがう、目的のない、走りそのもののような力、突き動かし、パワー、にわたしはたのしくなるので、今日はその点さいこうだった。 また何回でもライブに行きたい、と思った。 せんじつ、洋梨が安かったので洋梨を
今日は西千葉古本市に参加させていただきました。 古本屋さんとしてふるまうときには、出発間際という屋号で、出発間際という気持ちで、臨んでいるのですが、今日はなんというかそれがまちがっていなかった、まちがいが悪というのではなく、なんというか手ごたえとして出発間際、ということを感じました。 2度目の出店にして、手ごたえとめぐりあえたことは、むずかしいことばをつかうなら僥倖、つかわなくていいならよかった、という気持ちです。 それから、『風に立つ愛子さん』という映画の上映会にも参加させ