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041お遊戯会雑感
卒業アルバムと学校写真のエキスパート 田賀谷浩です。今回もお目通しいただきありがとうございます。今日は演目についてちょっとつぶやきます。
お遊戯会の類いは通常 歌や合奏、遊戯、音楽劇などで構成されていますね。自分自身を思い返すとやはり子供なりに印象的だった思い出のようで、合奏の時はシンバルだったなぁ、劇は眠れる森の美女の王様役で舞台後方の真ん中にずっと座りっぱなしだったなぁと、意外と覚えていたりします。
結末が変わってる・・・ だけどどうよ
子供心に断片的にしろ印象深く残るものであるせいか、劇のストーリーは意外と暗喩的な要素が多分に含まれているものがそこそこあるようで。先日話題に採り上げた「どうぞのいす」は椅子に据えられた食べ物を食べてしまった動物が「あとの人にお気の毒」と自分が持ってきた食べ物を代わりに置いていく事で、「御礼はきちんとする」「次の人が気持ちよくなるように」といった行動規範を自然と刷り込もうとしているように思えます。
そういった意味で昔話は善悪を分かりやすく例示して、心優しい行いはお天道様や神様が見ていて良い報いが訪れる(こびとのくつやさん、かさじぞう など)、善良な心の持ち主には思いがけない結果が、邪悪な心の持ち主には望まぬ結果が訪れる(シンデレラ、花咲かじいさん、おむすびころりん など)、わがままな行為には罰が当たる(ピノキオ、さるかに合戦など)、言いつけを守らないと大切なものを失う(鶴の恩返し、浦島太郎など)、才能に溺れ怠惰に過ごさず勤勉実直に努めるべき(アリとキリギリス、うさぎとかめなど)のように、洋の東西を問わず子供たちに人としてのあるべき姿を教え諭すストーリー展開、主として勧善懲悪を物語化されたもの でした。私の知る限り。
それが今はビックリするような結末に変わっているものが多いんですよ。
シンデレラは冷たくあしらわれてきた母や姉を負け組よろしく置き去りにして王子の元へ嫁ぐ話と記憶していたけれど、母や姉を伴って輿入れする結末のがありました。じゃあ母や姉はいびり得ということ??
さるかに合戦は猿の投げた青柿で殺された母ガニの仇をうつために子ガニが栗、蜂、臼と共闘して最後は臼に猿が押し潰されるはずだったけど、今では母ガニは手傷を負う程度で済み、猿は一度は痛めつけられるも最後はカニと仲直りして手を繋いで終わる結末。うーん カニの柿を横領し傷害まで負わせておいて猿はやっちゃったもん勝ちですか??
アリとキリギリスに至っては夏の間遊んでばかりで蓄えをせずにいたキリギリスは、冬を迎えて蓄えとともに暖かい部屋で過ごすアリを横目に厳しい寒空で過ごす筋書きが、アリの家に迎えられて食料と暖にありつくというストーリーに。お人好しアリは働き損ですか?
こんな刷り込みを子供の頃にされてしまっては、「たとえ悪いことでもやっちゃったもん勝ち」「何をしたって最後は許してくれるんだろ」「真面目に生きるなんて馬鹿をみるだけじゃん」となってしまいませんか?
価値観の多様化の観点から一元的な価値を子供に押しつけるべきではないとの論調を主として、仲間はずれを作らずなかよしこよしのハッピーエンドにしたいという風潮も加味されて為されているのではないかと思いますが、過度な配慮はかえって弊害になることもあろうかと。これだけが原因とは申しませんが、昨今の様々な犯罪助長やマナー逸脱なんでもありの一因になっているんじゃないかと思えてなりません。
こういうことは悪いこと、悪いことはしてはいけない、してはいけないことをしてしまうと好まざる報いを受ける、どんなに寛容であっても許せないこともある、などと言った事をたとえ話として幼少の頃に教え諭す事は情操教育の上で必要不可欠な事だと思うんですよ。
さらに歳を重ねて精神がより成長を遂げてから、寛大であることの大切さ、相手を許すことの寛容さなどを教えていけばいいのであって、未就学の年代では「ダメなものはダメ」で単純に善悪を覚えさせる年頃じゃないかと思いますがいかがでしょうか。
ということで今回はこの辺りで。最後までお読みいただきありがとうございました。