037空氣を読むってステキ
卒業アルバムと学校写真のエキスパート 田賀谷浩です。
今回もお目通しいただきありがとうございます。
前回の記述に「どんな配慮を心がけているか」という問いをいただいたので、具体的な氣遣い、配慮について綴りたいと思います。
配慮をするためには何が必要かといえば、何が望まれているのかを察するに尽きるかと思います。
誰にでも して欲しいこと もあれば して欲しくないこと もあります。
はじめに氣遣いの逆の現れを示しておきましょう。
反抗期に当たる子が明らかに怒られると分かっている事をわざとしたりします。なぜなら親の氣を引きたいから。ひとえに「自分が一番だと行動で示してくれ」の現れです。親の都合なんかまったく度外視。むしろこれをしたら激しく怒られる(=自分に関心をむけてくれる)のが分かっているから嫌がるであろうタイミングですら行おうとすらします。
人によってはイラつく過激な内容で注目を集めるバズマーケティングや炎上商法と呼ばれる手法はまさにこれと同じ心理構造で成り立っていると思います。なにしろやっていることが自分に注目を集めたいだけの子供と何ら変わらない発想に起因してますから。本当におとなげない。
それで小銭を稼げる社会構造にも困ったものですし、それに後押しされるかのように、眉をひそめるような利己的な主張をされた時にも、どんなに理不尽な主張でも個性の尊重やらなんやらと理屈をこねて寛容であろうとする社会風潮が蔓延しているのを嘆かわしく思っています。
私から見ればそこに氣遣いや配慮を認める事はありません。
では本題に。氣遣いの本質はどこにあるか?
一言で言えば、看られる対象は自分ではなく相手 という事でしょう。
というとちょっと遠回しな表現ですが、要はどれだけ多くの他者を客観的に看ることが出来ていますか?とも言えるでしょう。
親が子を看護る時を思ってください。我が子の安全を思えば危険な兆候はないか、本人だけに限らず周囲の状況にも目配せをして常に氣を遣っていますよね。看られているのは子であり親ではありません。自身を見てもらおうではなく他者を看てあげようです。
氣遣いや配慮とはとどのつまりその延長なだけで、看てあげる対象が自身の関わっている全てに及んでいる状況だという事です。
あとはその「看かた」 というより「読み方」
ジロジロと視線を送られたら相手もいい思いは あまりしませんよね?どうして欲しいなんて事をいちいち口にされることも あまりないでしょう。
でも何かのシグナルが送られている場合がままあります。それが伝わってくるのが「場の空氣」であり、音や声を聴く、臭いを嗅ぎ取る、雰囲氣の変化を肌で感じ取るなど、目で追って「看る」というより五感の全てを駆使して「読む」ではないでしょうか。そのためには五感の感度を常に上げておく必要がありますね。
お氣付きかと思いますが今回は気を旧字の「氣」と書いています。なぜかというと氣は四方八方に振り撒くものだからです。表意文字である漢字は字面を見ればその意味がだいたい分かるものですが、かまえの中の「米」は自分の中から八方に氣が拡がっていることを表しているのです。
周りじゅうに氣を張り巡らせていれば誰かが配っている氣に自ずと氣が付くものです。それに応えるかたちで行う行為は まさに己の氣を遣ったもの ですよね?
氣遣い、氣配り、配慮を別の言い表しでいえば おもてなし です。インバウンドで日本に来られた多くの方々が「日本でのおもてなしは素晴らかった」とお感じになる方がほとんどだと聞きます。それだけ世界共通、人類共通の価値観なのですからより実践されるのは あり ですよね?
であればもっともっと周りを察していくようにして、もっともっとステキな世の中にしていければいいな と思いませんか?
空氣を読むための氣配りのポイントはふたつです。
ひとつは見返りを求めない事 もうひとつは全身全霊で行う事
親が子の安全を思う時を想定してもらえれば自ずとですよね?
ということで今回はこの辺りで。最後までお読みいただきありがとうございました。