ふと顔を上げると、網棚からだらりと垂れた肩紐が視界に入る。男物の通勤バッグの下には誰も座っていない。 そういえばさっきまで、足を組んで広々座っていたサラリーマンがいたはずだ。いない。ここで降りたのか?バッグを置いて? 電車はまだ動かない。今に気づいて引き返してくるかもしれない。1分、2分。少し離れたところに座っている男性も不自然なバッグに気づいたか、視線がうろうろ揺れ始めた。 もしもこのバッグが故意に置いていかれたのだとしたら、どうだろう。爆破物が入っていたりして。事件
例えば絵を描くこと。下絵に始まり、実線を引き、鉛筆の跡を綺麗に消して色を塗り終わること。 楽器を弾くこと。本番のために用意した楽譜と対面しテンポを落として練習を始め、次第にインテンポへ、合奏練を通して楽譜に書き込みが増えていき、いよいよ本番、来客の拍手を頂くこと。 ここで拙い文章をしたためるのもそう。書きたい、残したい、同じ気持ちの誰か、良いなと思ってくれる誰かがいたら、などと思いながら書いては消してを繰り返し、ときに投稿後も編集してテーマと向き合う時間を厚くすること。
それでも文字にすると気持ちにまとまりが出て落ち着くから救われている
例えば欲しいものがどの店をあたっても見つからないとき、どうしようもならないほどの焦燥に駆られる。顔が歪むのを阻止するのもギリギリ、まさに綱渡り状態だ。 他人にも良く苛々するようになった。前を歩く人がスマホに夢中でのろのろしたり止まったり、電車で隣の人が思い切り頭をかいたりしたときも爆発しそうになる。 友人とも最近はどんどん関係が薄くなっている。相手が私だからだと落胆したり、お前なんかお断りだと思ったり忙しい。 しかし毎日こんな状態ではない。前の日はすっきりした気分で1日を過
頭の中で歌詞をなぞっていた時、ふと、あることに気付きました。 ここって (私が)優しい日常を愛してる (私が)スリルを求める となるかと思いきや後者に関してはスリルが主語になっています。そのあとの歌詞はこう続く。 スリルの正体である「僕」目線になるわけですね…。 まるで映画のように滑らかな場面転換を施す言葉のテクニックに今更気付いてしまい、その美しさに心底震えてしまいました。
『二時間だけのバカンス』 「歌詞が自分と重なって涙が出る」なんて、自分という人間をしっかり理解している人ができる感動の仕方は私にはできなくて。どうしてこんなに込み上げてくるのだろうと渦巻く感情がつたって降りてくるとき何かに気付いたりする。 ああ驚いた、リアタイで聴けてよかった。
なんでしょう、意外と清々しい気持ちなんですけど。 私が今まで無意識的に又は意識的に人に対して意地悪な言い方、接し方をしてきた過去の事実が今、私の周りの人にどんどんバレていて、私にそのことを忘れさせないように同じこと或いは私が弱いところを狙って傷つけにきてるような、そんなことが最近たくさん起こっています。 因果応報、でしょうか。 何年か前まで、私には連絡をすればすぐに応えてくれる仲間が複数人いて、私の意見に賛成してくれて、協力してくれました。私もそのことに感謝し、同じよう
役所広司演じる平山の世界(人生)を複数の人が経由していくストーリー。 平山は彼らが持つ、人生における様々な幸福を欠いているけれど、そのかわり自分1人で成立する確固たる日常を獲得している。繰り返される"変わらない日々"がどれだけ"素晴らしい日々"であるか、ということですね。 平山の日常、ルーティンには他者が存在しないんですね。いや、唯一、早朝に箒で外を掃くあの人ならいますが、あれは平山にとって、ただの目覚ましアラームのようなものかと思います。お互いの世界がちっとも交差してい
「さいたまで見たもの」 この一節は今はなき、あの美術館を想起させた。かつて東京品川区にあった美しき箱、原美術館。先が見えない不安を過ごした2020年冬、原美術館が年内に閉館することを知り、12月初めに訪れたのが最初で最後となった(その後少し延長し2021年1月に閉館)。 小雨が降ったり止んだりする淡い光の漏れる曇空の下、私は原美術館と対面した。一歩、二歩と入口手前の階段を踏み締めその内部へ招かれる。そしてまた一歩、二歩と潜り込むとまるで濃霧に包まれたような緩い衝撃を得た。
待望の、目[mé]特集。 東京の空に浮かぶ人の顔ーその異様さに最初はフェイク画像を疑ったのだがーあの光景にはひどく衝撃を受けたし、バンクシーの如くアートが日常に投げつけられるような現象が日本で起きて、恐らく「始まった」ことに胸が騒いだのを覚えている。 まだ最初の2つのコラムしか読んでいない怠けぶりだが、久々に熱い気持ちで読んでいるのでマイペースにレビューしようと思う(プロローグと書いてしまったのだから何個か投稿しろよ私!)。
家にあった安いワインをホットワインにしたら意外にも美味。チーズやお菓子をつまみながら、建築やら絵画やら好きな雑誌をぱらぱらと。なんだかんだ幸せだよなぁ。
仕事終わりに待ち合わせして吉祥寺の飲み屋へ。何分に着くか言ったら、奇遇だねその1分後と。ニアピンとでも言いたいのかな。彼、今日有給だったのに、金曜で絶対混むのに、お店も決めてるのに、変わってないな。
ダサい嫉妬と都合の良い欲望の暴走で息が苦しくなるとき、美しい作品、美しい空間は私をなだめてくれる。それは絶対に裏切らない。
カタカタと物音がするので外を見ると、土だけ入った容器にトカゲ1匹、出られず暴れていた。やれやれと外に出て、見ると既に体が硬直していた。日陰にやり水を与え5分後様子を見に行ったが、変わらずそこにいた。花を添えてやる。今日は地元の祭りで、何やら鳥肌が立つのは人間らしい反応なのだろう。
待望のマティス展へ。 ガウディに並び激混みとの情報、平日に休みを取ったから勝ち組かと思いきや子供たちは夏休みに突入し、もはや平日の利点が消失していることに気付いたのは昨日のこと。更にTwitterで「朝活のじじばば(の皆様)で混雑」のような呟きも見た。ふーむ、もう強行するしかないようだ。9:30の開館に合わせ9:20に上野駅着。 既に都美の門を越えデジタルサイネージのあたりまで長蛇の列。小走りに最後尾に付く。《真珠の耳飾りの少女》を見た時の記憶が思い出されるようだ。あの日も
最近、話すこと、ジャンルで言うと「お喋り」とか「(長い)挨拶」とか「社交辞令」がとにかく下手で絶望する。同年代ですらすらと言葉が出る人は一体いつ習得したのだろうか。 今日、前部署で良くしていただいた先輩派遣さんが辞めるんでお礼をしたいと、わざわざ来てくださった。こちらからもお礼と、少し話をした。その時の反動で今これを書いている。前もって用意していた感謝の言葉は伝えたものの、相手の「私なんて〜だったから」に対する「そんなことないです」が下手すぎた。今なら幾らでも浮かぶのに(本