「失敗例全文」:面白い歌の条件:木下龍也史及び状況を取り巻く口語短歌の現代に附いて――,
木下龍也史の問題点とは、歌が面白くはないことである。
例歌を引こう。
「魔法」とはタネや仕掛けを十分に発達させる知恵のことです
(補遺:後、上記の歌は木下龍也史作の短歌では無い事が詳らかとなった。)
ただの、ただごとうたである、という以上の印象を筆者は払拭しえなかった。
言うなれば、説明書、マニュアル文書短歌とも呼びたい。
では、面白い歌とは何か。
此処で問題となるのは、
面白さには
大まかに申し上げるに、四種類の「面白さ」があるということである。
第一に、他虐の視点の面白さ。
イジリである。
第二に、自虐の視点の面白さ。
稍、変化球である。
第三に、他虐の果てに「最後の他者」である「自己」と心中せざるを得なくなる面白さ。
之は、稍文学的モティーフともなり得よう。
最後に、自虐の果てに「最後の自己」である「他者性」つまりは世界を巻き込み心中せざるを得なくなる面白さ。
之を、最も上質な「面白さ」であると仮定する。
仮定の証明。
一つ一つの面白さを検証して行きたい。
第一、他虐。
問題にもならない。
第二、自虐。
「自己」の対称である「外部」が抜け落ちている。
第三、他虐の果ての自虐。
モデルには向いているが、記述主体には決して起用しては為らないタイプの存在である。
第四、自虐の果ての他虐。
自己を追究してゆくと、俄然、自己の内部の他者性に目を瞑る訳には行かなくなる。
一人称の文学である短詩形短歌文学を志す諸氏には明白、自明の事であろう。
以上、仮定の証明終り。
それでは自虐の果ての他虐に附いて、熱く語って行きたいと思う。
筆者が――差別用語になるなら取り消しもしようが――主に「ユダヤ人作家」と言われる傾向の作者に附いて考えることなのであるが。
彼等の、律法、戒律との鬩ぎあいには涙ぐましくも、非常に人間らしいおかしみを感じて仕舞うのである。
戒律とは他者性である。
律法とは公共性である。
そのさなかにて、自己の意思、願望達成という無理難題を背負わされた当事者達の苦難は如何か。
一例。
イスラエル国歌「希望」を傾聴なされた事が在るであろうか。あれは素晴しい馬鹿馬鹿しさを表現している(因みに作曲家だか作詞家だかは酒乱の果てに死んだ)。
つまりは自己=個人の集合である国家組織の、
表面ばかりは四角四面ばった、内訳のしょうもなさを詠詠と、朗朗と――まるでチープなカー・ラジオから洩れ聞こえて来るいづこのものともしれぬ民謡の様に――
地獄の底から歌い上げているのである。
その自己内省の果てのやるせない、国家なんてそういうものでしょう、というひびきに、筆者は大いに同調し、笑いを禁じえなかったのである。
そこには人間のおかしみ、趣深さが十全に表現されているとは言えないだろうか。
正に自己の対称の一部である、国家世界を巻き込んだ心中であると、筆者は考える所存である。
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