暗室より
むらむらと憎しみ沸きし雲居ゆおとづるは青年か迦陵頻伽か
酒屋燻製肉の受皿へ霜差しぬ、うつくしき小羊の櫛毛
マグノリア属朴の花著しき 歌へはどこで履きたがへるのか
精霊の秋指して煉獄めがけ駈けゆけりうちつけに競争手
はなはだしく熟れたり枇杷の樹の一果たれ指しぬ石庭
弱法師 途方へ散る花はいづくのはなぞかなしみの瞼
白梅の沖へ寄す車輪ひとつ、炭俵担ひし人夫もむかし
擬宝珠華欄干に咲きをりし経の帷子ゆきかへり。産まば
図書一式を提げわたる使用人、司書 アレクサンドリア陥落
花婿の死の噂たつ 全焼の区域まがまがしく赤き空襲図
彼奴こそをわが敵と決めゐるに百頭女の表紙ひしめく蟻の屍
葬りき総統閣下総花的古典主義へとゆるる緑薔薇
劉生のむくつけき闇浮ぶ日本人の顔に酷薄なりし眼
麗子像数多掛かりをり火事にほほゑみながら焼失せざり 壁
涅槃佛入滅図へ火の粉 師弟十一人生き死に死にて焼かる
美術館全焼の夜投光機円く雲居を探る 柱なす
空襲警報きれぎれと町屋を煽る炎の旋風呑まれき水槽も
歩び歩びつ振りさけ見し広告塔へ焼夷弾銀のはららご撒きて
区画図面郊内へ水脈のごと路、母子、一族郎党かへらず
死水取つて唇にふふみ生残りし河 水膨る白、焼跡は黒
しかばね明らかに殖えつつある時を枯紫陽花の白褐色 頸
昭和20年3月9日未明東京駅建築へ兆す火焔光
哨戒爆撃機B‐25綽名ミカエル約十三機飛来せし後
玩具飛行機店全焼す柩かのごとうちおほふコック・ピットと
工兵廠立ちき戦闘機は紫電 兵殺めたりき罪在る
死の窓を並べて白き航空便黒き四角を腹ゆ開きし
停戦へ到れるまでをにくしみの夷狄亡きもの 国家とは誰
白蟻の巣穴へ溢る水注ぐ残酷たらむ児童ひとりは
幼稚園絶ゑてすずしきに兵舎建ち初めぬ。かつて焼跡
軍装憧るる航空兵の曾孫あり 汝に何がわかつてたまるか
航空便くれなゐ射して落陽へと密室の椅子椅子かたぶきぬ
8月12日18時56分23秒劈きぬ時計止まりき機長へ
記録とは 航空録音機を黒箱てふその赤き闇
骨数多慰霊碑埋め新たしき死者くははるな記名帖へと
展墓、比良坂塞ぐ死の巖のむかふに落したり白桃実
黄桃の罐詰の果むかれ舎利別に溶く 黄泉國へつづかば
姓五百二十程記しゐし苛酷ならず炎暑弔問者まばら
日の呪ひならざるひとの百名のゆかば百二十名かへれ 現
衰へる國は 百千に八重櫻墓御影石へ散りて産まれず
丹櫛の許育ちき嬰児死の國を憶えゐしゆゑ懐かしきはは
「死の島」第四版焼け残らずも白黒の巌の門へ水舟
3月10日 3月11日に巌谷ひらくB‐29ならず交ふ救護艇
曠野旅館地盤沈下し黄昏の色壁晒されて一箱立ちぬ
第一原子力発電所。1号炉、2号炉、3号炉熔融す、三基の棺
黄泉國苦き艾の河縁へ屍灰降りかつて疫病の國、投下後
死の光受く廃炉員白血病、巖乳の病に倒るる 髪落とし
人工の焔未來のちからなどと呼ばる科学の末は見む ゆくへは
海の骨、河骨の根の屍水漬きて家系図の梢ゆくへしれずも
莫告藻告るなかれ比良坂へ名列ねかへるこゑ過越の祓へに
巖の戸よ遮れ なきがらまさるとも蒔きぬ芒種は圃へとかへらむ