Josef Sudekのアトリエ
写真に興味を持っている方なら、一度はその名前を聞いたことがあるに違いないチェコの写真家がいます。その名はJosef Sudek。
彼がかつて住んでいた住居と、アトリエとして使われていた小屋は修復され、現在、それぞれ小さな写真美術館として公開されています。今回の旅ではそこへ行ってきました。住居(現・ギャラリー)へ行った時は開放値4.5という暗いレンズが搭載されたFlexaretを持っていたため、暗い屋内の写真を撮ることはできませんでしたが、窓が大きなアトリエはLeica M2で問題なく撮影することができました。以下は、そのアトリエの写真です。
アトリエではMilan Pitlachというチェコの写真家の特別展が開催されていました。この写真家の撮る写真も素晴らしかったので、写真集を購入したかったのですが、見本としてアトリエに置かれていた写真集は既に絶版とのこと。後日、インターネットを利用して調べてみたのですが、やはりどこも在庫切れの状態でした。
プラハ城近くの住居とブルタヴァ川の近くのアトリエは、かなり離れています。Sudekは毎日Nerudovaの坂を降り、麓の広場(Malostranské náměstí)からトラムで作業場(Ateliér Josefa Sudka)まで通っていたのでしょうか。高台にあるSudekの住居を出て、ブルタヴァ川に向かい緩く傾斜していく雪が残る白い斜面を見ながら、そんなことを考えました。
私の手元には、ドイツの写真家がJosef Sudekを撮影した写真集があります。
この写真集には住居とアトリエの写真も掲載されています。住居の写真を見ると、もはや「神懸かった」と言ってもよい写真を撮るSudekが「片付けられない人」だったことが分かり、一気に親近感がわきます。
次回、プラハへ行った時には、必ず住居内部の写真も撮っておこうと思います。
次回、次回、次回…。ああ、私は一体いつ再びプラハへ行くことができるのでしょうか。
私が最初にプラハに足を踏み入れたのは、1995年。私が最初に踏んだヨーロッパの地がプラハでした。それはまだ東欧革命の記憶が生々しく残っている頃でした。旧市街広場の人影は疎らで空き店舗が多く、開店している店の品揃えも非常に限られていました。地下鉄の最低運賃は、当時の日本円に換算して、確か20円か30円くらいだったように思います。外装が傷んでいる建物が多く、9月の冷たい雨に打たれた街には、決して楽ではなかった20世紀の歴史の暗い影が、こびりついているように見えたものです。それから28年。プラハはずいぶん変わり、私がプラハを訪れた回数も数えきれないほどになりましたが(一時期は連続休暇取得の見込みが立つと、たとえそれが短い期間でも飛行機に飛び乗り、年に2回、3回とプラハを訪れていたので)、不思議と私がこの街にあきることはありません。未だに訪れるたびに新しい発見があるのです。
Sudekが1956年から死去する1976年まで住んだ家(現・ギャラリー)
Galerie Josefa Sudka
Úvoz 160, Praha
Sudekのアトリエ
Ateliér Josefa Sudka
Újezd 432, Praha
アトリエは周囲を建物で囲まれた中庭にあります。アトリエに行くためには、道路(Újezd)に面した外側の建物入り口のインターホンを鳴らし、アトリエに常駐しているスタッフにドアを開けてもらわなければなりません。Ateliér Josefa Sudkaのポスターが掲示された入り口のドアの横には、各戸のインターホンへ繋がる沢山のボタンが並んでいますが、その中のAteliér Josefa Sudkaと書かれたボタンを押してください。ドアのブザーが鳴ったら開錠されたことになりますので、その音が響いている間に素早くドアを開け(ここが重要)中へ入り、建物内部の通路をまっすぐに進んで中庭へ出てください。表のドアを開けた後も3回くらいドアを開けないと中庭には出られませんが、表のドア以外は施錠されていません。
追記
Timm Rautertの写真集から転載した住居(現・ギャラリー)とアトリエの写真のキャプションにある番地と、私がこの記事に書いた住居とアトリエの番地が一致していませんが、その理由はプラハの通りにつけられた番地には、古いものと新しいものの2種類があるからです。
未だにプラハの建物(少なくとも私が訪れたことがある1区〜5区の建物)の入り口付近には、異なる数字(番地)が記された赤のプレートと青のプレートの2種類が並んで表示されています。赤のプレートの数字が新しい番地で、青のプレートの数字が古い番地です。なお、参考として載せた建物の扉の写真は、2019年に写したSudekの住居の扉です。この時はちょうど内部修理中で扉はかたく閉じられていました。