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列車の中の他人

私の髪をいつも切ってくれる美容師さんは日本人です。子供の頃からドイツに住んでいるので、ドイツ語はペラペラ。両親が日本人なので日本語もペラペラ。羨ましいかぎりです。いつも髪を切ってもらう間、彼女と思いっきり日本語で話すことが楽しみの一つにもなっているのですが、そんな彼女が先日こんなことを言っていました。

「日本に行って電車に乗ったりすると、私、なんだか緊張しちゃうんですよね」

え。それどういうことですか。そう訊ねると、彼女は引き続きこんなことを言いました。

「電車の中で隣に立っている人や座っている人は『絶対的な他人』で、ちょっと体が動けば肩がふれてしまうくらい側にいるのに、そこには見えない分厚い壁みたいなものがあって、気安く話しかけちゃいけない雰囲気を感じるんです」

あ、なるほど。そんな壁は確かにあるな、と思いました。壁だけではありません。例えば、朝の通勤列車。ものすごい密度で狭い空間に人間が存在しているにもかかわらず、シンとしていて、いつも静かな緊張感が漂っていました。通勤列車内は、長いこと私の英語の勉強時間でもあったので、この静けさに私はずいぶん助けられました。そんじょそこらの図書館より、よっぽど静かだったと思います。当時の私は、そんな緊張感を心地よく感じていた部分もあったと思います。

ドイツの列車内はどうでしょうか。
先週、買い物帰りにこんなことがありました。

「すみません」と突然はす向かいに座っていた知らない女性から声をかけられたのです。「その紙袋のお店って、韓国のお店でしたっけ」と、私の隣を指さします。

私はその時、アルミニウム製のゴミ箱とかハンガーなどが入ったMUJIの大きな紙袋を隣の座席に置いていました。その紙袋が女性の注意を引いたようです。

「いいえ、日本の店です」
「どこにあるんですか」

ここからしばらくこの見知らぬ女性との話がはずみました。店の場所、商品構成、価格のわりにはけっこう良いものが手に入ることなどなど。会話は女性の「じゃ、一度行ってみなくちゃね」で終わりました。この女性、話好きと見えて、私との会話が一段落すると、今度は目の前に座っているNele Neuhausの最新刊を読んでいる女性に「その本って面白いのかしら」と話しかけていました。

こんなふうにドイツを走る列車内では、見知らぬ他人であっても言葉を交わすことは珍しいことではありません。私の生活圏を走る列車内のみでなく、ICEなど長距離列車でも見知らぬ他人同士で声をかけあっている姿を目にするので、ここは「ドイツを走る列車」と言ってしまっても差し支えないと思います。
特にS-Bahnと呼ばれる近郊列車ではボックス席という座席配置も作用しているのかもしれませんが、例えば夫と隣り合わせに座り話をしていると、向かいの人がそれを聞いてクスリと笑ったり、会話に加わってきたりします。これは、ここではごく日常的に、普通に起こることなのです。また、話しかけられた人も「ナニコノヒト」などと怪訝な顔をすることなく、皆、ごく自然に会話に応じます。この親しげで気楽な感じ、改めて考えてみると、明らかに日本の列車内の雰囲気とは異なると思います。日本でも、地方に行けばまた状況は変わってくるのかもしれませんが、例えば、東京都心の列車内で自分の前に座っている全く知らない人たちの会話を耳にして、そこに突然口を挟んだりしたら、かなりの高確率で「変な人」の烙印を押されるのではないでしょうか。

ドイツで列車に乗る機会があったら、ぜひコッソリ周囲を観察してみてください。4人がけのボックス席で、話が盛り上がっている様子を目にすることもあるかもしれません。でも、その4人、実は全員がその時たまたま乗り合わせた全くの赤の他人だった...、そんなこともある。それがドイツの列車内風景なのです。

後記

この話に関連してもう一つ思い出したことがあります。
ある日、私は最寄都市の大型書店で夏に行く予定のメクレンブルク地方のガイドブックを買いました。帰りの列車で席につくと、私はすぐさまそのガイドブックを広げ目を通し始めました。ボック席の斜め向かいでは、膝の上に書類カバンを載せた男性が新聞を広げて読んでいました。そうこうするうちに降車駅が近づいたので、私がガイドブックをバッグにしまい席を立つと、向かいの男性がニコリと微笑んで「どうぞ良いご旅行を」と声をかけてくれたのです。ドイツへ移住してまだ3年くらいしか経っていなかった頃のことですが、その時胸のうちに広がった温かい気持ちは忘れられません。今でも鮮やかに覚えています。
なお、蛇足になりますが、冒頭の写真はドイツの駅の写真ではなく、スイスはルツェルンの駅で撮影した写真です。見よ、このゴミ一つ落ちていない掃き清められたホームを。ドイツではありえない。

(この記事は2019年8月14日にブログに投稿した記事に、後記を加えて転載したものです。)