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天気の子と、新海誠監督と、宮崎駿監督。そして“地政学”。【新海誠展の『言の葉の庭の趣意書』から】

新海監督は、次のように仰っていらしたことがあります。


【新海誠−『言の葉の庭の趣意書』】
(2012年9月22日作成)
より、一部抜粋したもの。↓↓↓↓

【モザイク状の不安定さが本作(言の葉の庭)の貫く軸であり、それこそがアイデンティティだとも思う。
例えば宮崎駿のこのような言葉に僕は共感することが難しい。】

宮崎駿     
 不思議の町の千尋  この映画のねらい THE ART OF Spirited Away 千と千尋の神隠し 

【ボーダーレスの時代、よって立つ場所を持たない人間は、もっとも軽んぜられるだろう。(中略)歴史を持たない人間、過去を忘れた民族はまたかげろうのように消える】

しかし「よって立つ場所を持たない」「歴史を持たない」ことは、この国で生きる現在の我々にとって、最初から設定されているパラメーター、所与の条件である。

僕たちは不安定な時代に、 不安定な気分で、文字通り揺れる足元の上で不安定に生きている。

それでもなお日々美しいものを見つけるし、描くべき心の交流もある。だからこそ、拠り所のなさも孤独も受け入れた上で、それを肯定的に描く必要があるのだと思っている。


いきなり少し衝撃的な書き出しですが……、

これは新海誠監督が言の葉の庭の制作スタートに当たって、制作関係者に配布した文書です。

私はこの文書を2017年に行われた新海誠展(新国立美術館)で見ました。



この記事は、この新海誠展の上記『図録』を参照しながら書いてます。

ところで、

“不安定な世界を肯定的に描く”

というのは、天気の子にも通じる話ではありますね。

上記のとおり、新海監督は宮崎駿監督と共感できない部分もあるそうです。



事前に前置きすべきだったかも、
知れませんが…………、
新海監督は宮崎駿監督を大変尊敬しています。



以下の新海監督のインタビュー動画をご覧下さい。

下の動画の6分35秒より。記者の質問に答えて


(自分が)宮崎駿さんの名前に並べていただけるのは、過大評価である、あのような仕事ができた人は、これまでいなかったし、これからもいないであろうと、思います。昨日も紅の豚を見て思いました。


新海誠監督、“ポスト宮崎駿”に「過大評価」 同じ方向では追いつけない… 「ヒットメーカー・オブ・ザ・イヤー 2016」表彰式


また、この動画で新海監督は

【宮崎駿監督のような、偉大な人には、(アニメーション制作の方向性が)同じ方向では追いつけない】

ともおっしゃています。

さて、話を戻しますが………、



新海監督と宮崎駿監督は、何故、歴史を持たない、よって立つ場所を持たないと仰っているのか疑問に思われる方もいらっしゃると思いますが………、

本記事では深追いはしません。

お二人が仰っていることは、
色々な捉え方ができるからです。


ただ、皆様方が個々に考察できるよう
記事の最後に【言の葉の庭の趣意書】(私が一部分だけ抜粋したもの)と宮崎駿監督の【千と千尋の神隠し この映画のねらい】を載せました。
ご覧頂けたら幸いです。

何はともあれ趣意書にあるとおり、新海監督はやはり私達がどういった存在なのかは興味があるのでしょう。

以下の記事をご覧下さい。
https://animageplus.jp/articles/detail/27757/2/1/1



上記の記事中で新海監督は
『国家とか※国粋主義的な事に興味は無い』
なんておっしゃってます。

ただ一方で、
自分の足元がどうなっているのか
は気になると仰っています。 

新海監督曰く、お米を食べて幸せとか神社があるとお参りするとか、そういった事を上記の記事中で具体例で挙げています。

※国粋主義について、新海監督はここでは、

自国民や自国の文化・伝統の独自性を強調・維持・発揚しようとする考え

の意味で使われていると考えています。
ご自身でも仰っていらっしゃいますが、こういった事に新海監督はあまり興味がないのでしょう。


これは、やはり新海監督の本心なのでしょう。

でも一方で『地政学』なんてものにも、
この【言の葉の庭の趣意書】では言及したりされています。


地政学とは、ざっくり言うと【地理】が世界の国家間の権力闘争に、どんな影響を与えるかを研究する学問です。

あとで触れますが地政学とは上記『国粋主義』と過去、密接な関係があった学問です。

以下は新海誠展の図録【言の葉の庭の趣意書】からの抜粋です。

地質学的に日本列島が、【地政学的に日本国】が、インフラとしての自分たちの社会や学校が、【いかに不安定で特殊で孤独であるか。】
そして震災を契機としたもう一つの意外な発見は、どのような状況下でも日常は存在し、人々はその足元がどれほど不安定であろうともその場所に留まって生き続けていくのだということだ。


【地政学的に日本国】が、【いかに不安定で特殊で孤独であるか】

最初、このフレーズを新海誠展で見たとき私は非常に驚きました。

地政学は第二次世界大戦前夜、ナチスドイツがその国家戦略を打ち建てるのを支えた学問でもあります。



ウィキペディアより抜粋。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E6%94%BF%E5%AD%A6



最近では、ロシアにおいて研究が盛んなようです。
彼らがシリアやウクライナで行っている“力の行使”は『地政学』的な考慮が働いている、なんて専門家の方は言います。

【引用元URL】https://search.yahoo.co.jp/amp/s/geopoli.exblog.jp/amp/26598383/%3Fusqp%3Dmq331AQNKAGYAarkoMb74NSPQw%253D%253D





国防戦略、あるいは戦争の口実とされてきた歴史と現実があります。

そのような学問ですから、日本の大学では研究が忌み嫌われてほとんど行われていません。
(ただし私個人としては、地政学は一応、一定の価値がある学問だと思います。
ごく一部の狂信的な人間が地理あるいは地政学に“絶対的な価値”を置き、外交政策を不当に歪めたりするのが問題だと個人的には考えています。)

さて、

皆様、意外に思われませんか?

私は意外に思います。

インタビュー動画を見ても分かる通り、新海監督は穏やかな人です。

理屈抜きに、
戦争とか、
国家の権力闘争とか、
そういった事象について“嫌いそうな雰囲気”を私は新海監督に印象としてですが、ずっと感じていました。

もちろん
“戦争とか、国家の権力闘争が嫌いである”
という印象は間違えではないのだろうとも思います。

ちなみに新海監督は文学部ご出身です。
(※宮沢賢治を専攻していた)

その点からも、【地政学】とは縁がないはずなんです。

国家間の権力闘争に関する学問である地政学とは、一番縁遠い場所にいる方と、私は今でも考えています。


そして、これは後で述べますが高坂正堯氏という国際政治学者の著作を複数読まれているのかな、と感じ、その点についても驚きました。

というのも、この新海誠展に行ったとき私がたまたま読み返していた本を新海監督も、もしや読まれていた?と思うところがあり、驚いたからです。

実はこの驚いた、という私の気持ちは具体的に言うと、
『新海監督と同じ本を読んでる!?
            少し嬉しいなぁ……』
という、かなりミーハーな気持ちだったのですが(笑)…、

後に詳しく取り上げますが、その本は二冊あります。


【文明が衰亡するとき】
(新潮選書)

【海洋国家 日本の構想】
(中公クラシックス)


これらの本で、まさに地政学的な観点から日本の置かれた立ち位置(特殊性、不安定性、そして孤独さ)が語られているのです。

また、高坂正堯氏は地政学という言葉を用いながら、この事実を平易に説明した“最初の人物”でもあります。

さらに言うと、高坂正堯氏は悪い意味で
【御用学者】
とも呼ばれていた人物ですから、なお驚きました。(日本政府の安全保障政策に、様々な提言をしてきた。)


新海監督は、
“現実世界の政治から遠い場所”
にいる人だと私は考えており、そのような点で意外に思い驚いたのです。

もちろん政治の世界、あるいは地政学から遠い場所にいる方だという印象も、誤りではないのかなと思います。

新海監督は別に政治に無関心、というわけではないのでしょう。
しかし、新海監督は意識して映画監督であろうとしている、新海監督のインタビューを聞いていてそんな印象を受けることが私にはあります。

さて、

先に上げたアニメージュの取材記事で、新海監督は、自分達の“足元”が気になると仰っています。

新海監督は国際政治、あるいは地政学に関心があったというよりも、
【私達が“何者”であるか】
【私達はどんな“場所”に生きているのか】

これらを知りたいがために、おそらく地政学に関する著作を読んでいたのでしょう。

ただ、はたしてそれは高坂正堯氏の著作であったのか?

『新海監督が高坂正堯氏の著作を読み、それに基づき、【言の葉の庭の趣意書】で、地政学に言及した』

これはやはり、仮説の域を出ないのです。

私の勝手な思い込みかも知れません。
現時点では断定はできないのです。

ただし、高坂正堯氏以外で『日本の地政学的な特殊性』を独自の観点で論じた学者は、私の知る限り皆無です。(いたらその著作を教えて下さい。)

そういったことから、やはりご覧になられてる可能性は高いのかな、と感じるのです。

いずれにしろ、この仮説は新海監督の【言の葉の庭の趣意書】にある地政学的な見地からの日本の説明を読み解くことに、やはり資するものだと理解しています。

高坂正堯氏が日本の地政学的な立ち位置(特殊性など)を論じており、そして新海誠監督が地政学という言葉を用いて、その特殊性について言及しているということ、これらはやはり事実だからです。


高坂正堯氏の地政学的な日本の立ち位置にかかる論考を通して【言の葉の庭の趣意書】を読み解くことは、やはり新海監督の関心事が何か読み解くことにも、やはり繫がると思うのです。

さて、

新海監督が仰る、

【地政学的に日本国】が、【いかに不安定で特殊で孤独であるか】

これはどういった意味なのでしょう。
この文言を私なりに説明することが、この考察記事の主題となります。

何か具体例を上げて新海監督は説明をしているわけではないので、多分に推測が混じりますが、私なりに読み解いて行きたいと思います。



日本の地政学的な特殊性、孤独さ

海洋国家日本の構想


この本は大変古い本です。
1965年に刊行されました。
なんと、初出版が50年以上前なんです!!

さらにその後で増補されたり、あるいは重版や新装版が出たりして今日に至っています。

しかし、上記画像にあるとおり評価は極めて高い本です。アマゾンの★5の評価が12個あります。

これだけ評価が高いのは半世紀も前に刊行された本にもかかわらず、内容が今に通じるからです。

現在の日本の指針となりうる部分があるのです。

では、新海監督が【言の葉の庭の趣意書】で述べた地政学的な特殊性、孤独さを、本書に基づき私なりに読み解いていきます。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓


この『海洋国家日本の構想』という書物で、高坂正堯氏は日本を、

『東洋の離れ座敷』

という、独特な言葉で表現しました。


グローバル化が進んだ現代においては、全くそうではありませんが………、
実は日本は、古くは世界のコミュニケーションから、断絶されていた国であったと高坂正堯氏は述べています。

高坂正堯氏は、その要因に九州とユーラシア大陸との間に、渡ることが難しい海洋、玄界灘が存在したことを上げています。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%84%E7%95%8C%E7%81%98


『灘』とは、波高く、潮流も速い海の難所を示す言葉です。

遣隋使や遣唐使の往来が、いかに困難であったかを高坂氏は例として上げます。
鑑真が日本に来るまで10年もかかったのは、有名な話ですね。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%91%91%E7%9C%9F



また、高坂氏はこの地政学的な要因により、東アジアで唯一日本は、中国の属国とならなかったと述べます。

古来からの日本にとっての中国との関係は、歴史的に見ると、あまり例がない関係なのです。

中国の先進的な文明の恩恵(漢字、治水や灌漑の技術の伝播)を受けながらも、『“恩恵を受ける側である日本の独立性”』が失われない、そのような稀有な関係であったと高坂正堯氏は述べます。

進んだ他の文明が、他国を支配下に置き、搾取するというのは歴史上よくあることでした。
それから免れることは、なかなか無いことなのです。
しかし、まさにこのような地政学的な要因(地理が政治に与える影響)により、日本はそういった悲劇から免れることができた………、

『文明の交渉史の中で、これ程“特異”な関係はなかった』のだと高坂氏は続けます。

この日本が『東洋の離れ座敷』であるという表現が、新海監督が言の葉の庭の趣意書で言う、地政学的な特殊性という表現と結びつくイメージが、私にはあったのです。

さて、時は進み第二次世界大戦後、日本は米国と同盟を結ぶこととなります。

地理的にはアジアにありながらも、国家としては西側(アメリカ、ヨーロッパ)の影響を受けつつ、日本は発展をしていきます。

一方中国は共産主義陣営として発展し、ひとまず日本との関係は閉ざされます。

日本は地理的にはアジアにありながら、アメリカとヨーロッパに近しい、極西の国として発展したのだと、高坂正堯氏は言います。

高坂正堯氏は日本を飛び離れた西であるとも、表現します。

この飛び離れた西という表現が、東洋の離れ座敷という表現と相まって、新海監督の言う
「地政学的な孤独さ」
と繫がるイメージが私にはあるのです。








日本の地政学的な不安定さ

【文明が衰亡するとき】
(新潮選書)

実はこの本は、日本について最後にほんの一部分だけ触れられているにとどまります。

この『文明が衰亡するとき』という著作は、歴史上、力を持った国がどのように衰亡していったかを描いた本でした。

ローマ帝国、中世のヴェネチア、現代のアメリカが力を失う様子を描くのが主題の本でした。

しかし、同書の最後で高坂正堯氏は日本について触れています。

この『文明が衰亡するとき』の最後の章は、
【終章 通商国家日本の運命】
という表題がつけられています。

以下は、同書の最終章を私なりにまとめたものです。

高坂正堯氏は、日本を貿易を国の支えとする、
通商国家
であると表現しました。


通商国家は国際社会において優位性を与える、

【大きな軍事力】
【資源】

を持たず、
海洋を通した貿易
によって生きる国であると、高坂氏は述べます。

そして、通商国家は大きな軍事力と資源を持たないが故に、国際情勢によってその国の政治や経済、あるいはその国に暮らす人々の社会に対する思いまでもが不安定になりがちであると、高坂氏は述べます。

高坂正堯氏は、オランダとヴェネチアの例を上げています。
どちらの国も資源を持たず、その軍事的な力は弱かった事実があります。
しかし、数百年前、これら両国は大きな経済力を持ち世界史の中で一定の事績を残しました。

しかし、高坂正堯氏はこれら通商国家には、

幸運に助けられた目覚ましい成功と、どうしても克服できない脆弱性(ぜいじゃくせい)がある

と言います。


この脆弱性という言葉が、新海監督の仰る
地政学的な不安定さ
と、繫がるイメージが私にはあったのです。

高坂正堯氏は、通商国家であるオランダとヴェネチアがどのように衰亡していったかを、『文明が衰亡するとき』という著作で描いていました。

オランダは、

他国がその工業能力を身につけるべく、努力をするようになったときに、力を失った


と、描かれます。
また、貿易において、他国の製品を締め出すような、

いわゆる保護主義的な政策を各国がとったことが、マイナスに働いた

とも描かれます。

そして、ヴェネチアは、

強大な軍事力をもち、急速に台頭してきた強国、オスマントルコによって、地中海の制海権を奪われ、衰亡していった

事実が描かれます。

ちなみにこの本が世に出たのは、今から40年近く前の、1981年です。

今の2019年の、日本の状況、
あるいは近い将来日本が直面する情勢
を予言している


そのように感じるのは、私だけでしょうか?

この、高坂正堯氏の著作が現在も重版がかかるのは、このような予言めいた話がこれだけではなく、いくつも出てくるのが理由なのでしょう。

高坂正堯氏は、『文明が衰亡するとき』の最後の節【明日の世界に生きるために】で、次のように述べます。
以下、【文明が衰亡するとき】(新潮選書)の290ページ〜291ページより、抜粋。

『我々(日本)もこのような運命からのがれることはできないであろう。
少なくとも、そうした不安から逃れることはできない。』

私達は普段は全く意識しませんが、やはり日本という国は国際情勢の変動に、強い影響を受けやすいのでしょう。

たえば、米国や中国との関係、あるいは古くは、石油危機、新しくは、ホルムズ海峡におけるイランと米国の危機、このような事象により政治や経済が不安定となりがちである………

その傾向は、もしかしたら他国よりか強いものがある………(グローバル化が進んだ現在、もちろんこれは、日本以外の国にも妥当することなのでしょうが。)


さて、

新海監督の最新作、天気の子は、

『雨が止まない混迷する世界』
          =『現実の世界情勢』

をテーマに織り込んでいます。
すでにご覧の方がほとんどだと思いますが、まだの方は、下記のリンクより、ご覧頂けたら、幸いです。

https://twitter.com/fpodrXcqTo3SehD/status/1155326179294900225?s=19


天気の子の物語は、高坂正堯氏の著作、【国際政治−恐怖と希望】を少しモチーフにして構想されているのではないか?

そのように私が推測したのには、このような背景があったのです。

すなわち、高坂正堯の『文明が衰亡するとき』『海洋国家日本の構想』を仮に新海監督がご覧になっているのであれば、当然『国際政治−恐怖と希望』もご覧になっている可能性はあるはずと、天気の子の考察を進める最中に思い出したのです。


新海監督の2022年、公開予定の次回作の考察記事が、ついに完成しました!!皆様是非!

新海監督の次回作について。 
【『アフターコロナ』と、『終末“後”』ー物語の因果律よりー】|マッキー @tenkinoko_macki
#note







参考文献紹介↓↓↓↓↓


言の葉の庭 趣意書

(新海誠展の図録より、その一部を抜粋したもの)

(中略)

■不安定な大地を歩くこと。 東京を舞台にした「足」の物語

3.11の震災以降以降、僕たちは自分たちの足元がいかに別なものだったかを知った。

地質学的に日本列島が、【地政学的に日本国】が、インフラとしての自分たちの社会や学校が、【いかに不安定で特殊で孤独であるか】

そして震災を契機としたもう一つの意外な発見は、どのような状況下でも日常は存在し、人々はその足元がどれほど不安定であろうともその場所に留まって生き続けていくのだということだ。

それは染みついた無常観のようにも見えるし、たくましい覚悟のようにも見え、奇妙に心を打ちもする。僕たちの祖先は何千年も、ここが激しくれる大地だと知りながらそれでもこの場所で生き続けてきたのだということ気づかされる。

不安定な場所を、十年後にはなくなっているかもしれないこのアスファルトの上を、それでも日常として歩くこと、その不思議さ、人々の奇妙な強靭さが、今の東京を舞台に「言の葉の庭」を作りたいと思った理由の一つである。

東京の風景はおそらく、数年か数十年のうちに訪れるかもしれない巨大な災害により大きく変わってしまうかもしれない。

だから今この揺れる大地の上にある日常を、そこを歩く足の物話としてアニメーションの画面に留めておきたいと思う。


中略


■万葉集と靴職人、日本庭園と味覚障害
「新宿の日本庭園で万葉集が歌われる」という出来事が本作での導入であるが、ここには歴史の連続と断絶が同時にある。

万葉集には千三百年の歴史という確固たる足場がある。しかし万葉の当時は東京の東の果ての田舎であり、万葉集の舞台ではなかった。

新宿にある日本庭園は、江戸時代の大名屋敷から明治期の皇室所有、戦後の国民公園と、不連続の歴史を背負っている。


中略

逆に言えば、モザイク状の不安定さが本作(言の葉の庭)の貫く軸であり、それこそがアイデンティティだとも思う。
例えば宮崎駿のこのような言葉に僕は共感することが難しい。

宮崎駿     
 不思議の町の千尋  この映画のねらい THE ART OF Spirited Away 千と千尋の神隠し 

【ボーダーレスの時代、よって立つ場所を持たない人間は、もっとも軽んぜられるだろう。(中略)歴史を持たない人間、過去を忘れた民族はまたかげろうのように消える】

しかし「よって立つ場所を持たない」「歴史を持たない」ことは、この国で生きる現在の我々にとって、最初から設定されているパラメーター、所与の条件である。

僕たちは不安定な時代に、 不安定な気分で、文字通り揺れる足元の上で不安定に生きている。

それでもなお日々美しいものを見つけるし、描くべき心の交流もある。だからこそ、拠り所のなさも孤独も受け入れた上で、それを肯定的に描く必要があるのだと思っている。



 不思議の町の千尋  監督の言葉 この映画のねらい 宮崎 駿


この作品は、武器を振りまわしたり、超能力の力くらべこそないが、冒険ものがたりともいうべき作品である。冒険とはいっても、正邪の対決が主題ではなく、善人も悪人もみな混ざり合って存在する世の中ともいうべき中へ投げ込まれ、修行し、友愛と献身を学び、知恵を発揮して生還する少女のものがたりになるはずだ。彼女は切り抜け、体をかわし、ひとまずは元の日常に帰って来るのだが、世の中が消滅しないのと同じに、それは悪を滅ぼしたからではなく、彼女が生きる力を獲得した結果なのである。

今日、あいまいになってしまった世の中というもの、あいまいなくせに、浸食し喰い尽くそうとする世の中を、ファンタジーの形を借りて、くっきりと描き出すことが、この映画の主要な課題である。

かこわれ、守られ、遠ざけられて、生きることがうすぼんやりにしか感じられない日常の中で、子供達はひよわな自我を肥大化させるしかない。千尋のヒョロヒョロの手足や、簡単にはおもしろがりませんよゥというブチャムクレの表情はその象徴なのだ。けれども、現実がくっきりし、抜きさしならない関係の中で危機に直面した時、本人も気づかなかった適応力や忍耐力が湧き出し、果断な判断力や行動力を発揮する生命を、自分がかかえている事に気づくはずだ。

もっとも、ただパニックって、「ウソーッ」としゃがみこむ人間がほとんどかもしれないが、そういう人々は千尋の出会った状況下では、すぐ消されるか食べられるかしてしまうだろう。千尋が主人公である資格は、実は食い尽くされない力にあるといえる。決して、美少女であったり、類まれな心の持ち主だから主人公になるのではない。その点が、この作品の特長であり、だからまた、10才の女の子達のための映画でもあり得るのである。

言葉は力である。千尋の迷い込んだ世界では、言葉を発することはとり返しのつかない重さを持っている。湯婆婆が支配する湯屋では、「いやだ」「帰りたい」と一言でも口にしたら、魔女はたちまち千尋を放り出し、彼女は何処にも行くあてのないままさまよい消滅するか、ニワトリにされて食われるまで玉子を産みつづけるかの道しかなくなる。逆に「ここで働く」と千尋が言葉を発すれば、魔女といえども無視することができない。今日、言葉はかぎりなく軽く、どうとでも言えるアブクのようなものと受けとられているが、それは現実がうつろになっている反映にすぎない。言葉は力であることは、今も真実である。力のない空虚な言葉が、無意味にあふれているだけなのだ。

名前を奪うという行為は、呼び名を変えるということではなく、相手を完全に支配しようとする方法である。千は、千尋の名を自分自身が忘れていく事に気がつきゾッとする。また、豚舎に両親を訪ねて行くごとに、豚の姿をした両親に平気になっていくのだ。湯婆婆の世間では、常に喰らい尽くされる危機の中に生きなければならない。

困難な世界の中で、千尋はむしろいきいきとしていく。ぶちゃむくれのだるそうなキャラクターは、映画の大団円にはハッとするような魅力的な表情を持つようになるだろう。世の中の本質は、今も少しも変わっていない。言葉は意志であり、自分であり、力なのだということを、この映画は説得力を持って訴えるつもりである。

日本を舞台にするファンタジーを作る意味もまたそこにある。お伽話でも、逃げ口の多い西欧ものにしたくないのである。この映画はよくある異世界ものの一亜流と受けとられそうだが、むしろ、昔話に登場する「雀のお宿」や「鼠の御殿」の直系の子孫と考えたい。パラレルワールド等と言わなくとも、私達のご先祖は雀のお宿でしくじったり、鼠の御殿で宴を楽しんだりして来たのだ。

湯婆婆の棲む世界を、擬洋風にするのは、何処かで見たことがあり、夢だか現実だか定かでなくするためだが、同時に、日本の伝統的意匠が多様なイメージの宝庫だからでもある。民俗的空間―物語、伝承、行事、意匠、神ごとから呪術に至るまで―が、どれほど豊かでユニークであるかは、ただ知られていないだけなのである。カチカチ山や桃太郎は、たしかに説得力を失った。しかし、民話風のチンマリした世界に、伝統的なものをすべて詰め込むのは、いかにも貧弱な発想といわねばならない。子供達はハイテクにかこまれ、うすっぺらな工業製品の中でますます根を失っている。私達がどれほど豊かな伝統を持っているか、伝えなければならない。

伝統的な意匠を、現代に通じる物語に組み込み、色あざやかなモザイクの一片としてはめ込むことで、映画の世界は新鮮な説得力を獲得するのだと思う。それは同時に、私達がこの島国の住人だという事を改めて認識することなのである。

ボーダーレスの時代、よって立つ場所を持たない人間は、もっとも軽んぜられるだろう。場所は過去であり、歴史である。歴史を持たない人間、過去を忘れた民族はまたかげろうのように消えるか、ニワトリになって喰らわれるまで玉子を産みつづけるしかなくなるのだと思う。

観客の10才の女の子達が、本当の自分の願いに出会う作品に、この映画をしたいと思う。




念の為

私の新海監督作品の考察記事には、新海監督の作品の画像および台詞、監督のインタビューなどが多数あります。

しかし、それらは全て著作権法第32条に定める研究その他の目的として行われる引用であり、著作権は言うまでもなく、新海誠監督、コミックスウェーブフィルはじめ、元の権利者に帰属します(^^)

なので、この記事、有料化は未来永劫ないです!!


ずっと無料でお読み頂けますよ\(^o^)/!!


この記事が、新海監督の作品が世に広まるきっかけとなれば、幸いですよー(^^)

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