エマ研・序論―なぜ大学院生がnoteを始めたのか―
ここでは、私がなぜnoteを始め、文章を書かなければならなかったのかをお伝えしたいと思います。このようにSNSを通じた発信をすることは初めてで、不慣れなところもあると思います。また一度書いた内容も書き直すことが多いかと思いますが、興味を持っていただけた方がいらっしゃいましたらぜひご覧ください。何かご質問や不十分な点などございましたら、遠慮なくご指定いただけますと幸いです。
では、よろしくお願いいたします。
何を書くのか?
このnoteを通じて書いていきたいことは、大きくは①原発事故への政府・行政や住民の対応について、②学校統廃合問題をめぐる行政と住民の対応について、③新型コロナウイルスへの政府や国民の対応について、の3つがあります。そしてこれらの社会問題を考えるための理論的な視点(哲学、政治学、社会学)について、大学院のゼミで議論し学んできたことを発信したい、というのが4つ目のテーマです。
何のために書くのか?
では、なぜこれらを発信する必要があったのか。まずは私が日ごろ大学院での研究の中で向き合っている社会問題について、身近な人に自分の考えを知ってほしい、そして意見を交換しながら一緒に考えていきたいと思ったからです。
特に新型コロナウイルスをめぐる問題については、身近な私の友人・知人や家族も含め、非常に多くの人がこの「緊急事態」と向き合わざるを得ない状況が続いています。付き合いの長い友人たちと飲みに出かける、なんてこともできず、オンライン飲み会などで不満を解消し合うことも増えてきましたが、この事態を私がどのように考えているのか教えてほしい、また思うことがあるんだけど聞いてほしい、という期待(?)のようなものを感じてきました。また、それ以上に、前から原発事故被災地域の復興について調査研究を行ってきた私としては、コロナ対応の動きと原発事故後のそれとが妙に重なって見えてしまうところがあり、(3月末に高熱を発症し、不安に苛まれつつも検査は受けられなかったという個人的な経験もありましたが)何か考えずにはいられなくなったのでした。
ネット上でのやり取りが、これまでにあった(けれども失いつつある)もののすべてを代替できるとはとても思えませんが、身近な人とも満足のいくような交流、議論ができない状況の中で、こうせずにはいられなかったということでもあります。
しかし、情報を集め、それらを読み解き、考えをまとめていくという作業は苦痛を伴うものです。その苦痛や日々の忙しさゆえに考えることをやめ、「モヤモヤ感」から抜け出すことができない、ということは、私や友人だけでなく誰もが経験しうることだと思います。だからこそ、「考える」ための様々な情報を整理し、分かりやすく紹介しようと心掛けることで、社会問題について考える場を作ることができるだけでなく、こうしたプロセスが私たちの学びにもいい影響を与えてくれるのではないかと思ったからです。
二つ目の大きな理由は、政治や社会がこれ以上悪い方に向かっていくことを、黙って見過ごすことはできない、という素朴なものです。生活や社会を維持し存続させていこうとする人びとの努力は、政治の動きとうまく噛み合わなければならないはずですが、実際には暮らしと政治の間には大きな齟齬があり、全く噛み合っていないようにも見えます。
たとえばコロナでは、緊急事態宣言解除までに感染拡大がある程度抑えられたことは(初動が早く議論と対策が十分であればもっと抑えられたと思っていますが)、そもそも一人ひとりが予防の努力をしたからのはずです。政府の対応が「成功した」からではないはずです。一方で(7月29日現在では)、宣言解除後に再び感染拡大が続いていますが、これは東京都民をはじめ国民が「努力しなかったから」なのでしょうか。宣言を解除したらあとは国民の自己責任なのでしょうか。宣言解除のタイミングや解除後の東京都や政府の対応に問題はなかったのでしょうか。ヨーロッパやアメリカと単純に比較して「成功した」とする議論もありますが、アジアの中でみれば「失敗だった」と評価する議論はどうなのでしょうか。そもそも、やはり適切なタイミングで宣言と解除ができていれば、もっと感染者数は抑えられたのではないでしょうか。そうした検証は、これからの対策を行ううえでも必要なことではないでしょうか。検査が拡大したから感染者数が増えたというとき、感染者数が増えたことの問題は無いのでしょうか。それともこれ以上の検査は不要で体制の整備はもう十分だということなのでしょうか。どれほどの損失やダメージがあったのかを適切に把握するということは、対応を考える上では最も大切なことなのではないでしょうか。「新しい日常」や「新しい生活様式」をつくっていくのは私たちの取組や努力によってであり、政府がそれを押し付ける構図になっているのは、なぜなのでしょうか。
私たちの生活は、コロナ(や原発事故)などの「緊急事態」では特に、政府がそれにどう対応するのか(統治のあり方)という問題と密接であることは、この歴史的な事件において皆が深く認識したところだと思います。だからこそ、この問題について、今からでもしっかりと考えておく必要があると思います。次にコロナや災害で命を落とすのが自分かもしれないし、自分の身近な、大切な人であるかもしれない。また暮らしの中では、ネットやオンラインで代替できないものの多くが、すでに失われつつあります。少なくとも私は、社会学を学ぶ大学院生であるという以上に、一人の国民として、こうした政治と社会の問題を見過ごすことはできない、これ以上政治が腐敗していくのをなんとか止めたいと、思わずにはいられないのです。そして私やゼミのメンバーが学びを深めていくなかで、その内容を発信しオープンにしていくことは、更なる学びを得られるものと期待しています。
どんな視点で書いていくのか?
このnoteでは、原発事故、学校統廃合、新型コロナウイルスへの対応をめぐって、政治と暮らしや社会の間で何が行われてきたのかを考えること、そして「緊急事態」をめぐる議論を通じてこれらをさらに深く読み解いていきます。さらにこうした大学院での学びをオープンにしていくことで、身近な人やこのnoteを読んでくれた方々と一緒に考えていきたい、というざっくりとしたビジョンを提示しました。深くは立ち入りませんでしたが、議論を進めていく上での共通の問題意識のようなものも少し書いてみました。あくまでも私は、今の世の中の秩序をひっくり返したいとか、変えたいとか、わからない人にわからせたいとか、政治批判のはけ口にしたいとか、そのようなことを考えているのではありません。
今回の記事の最後に、原発事故、学校統廃合、新型コロナウイルスへの対応という、一見全く別の事象をなぜこのサイトで、そしてどのように扱っていくのかについて少し書いてみたいと思います。
①そもそも、私たちが直面している「緊急事態」とはどのようなものなのか?②政治や政策が行ってきたこと、怠ってきたことは何だったのか?③人びとの生活・暮らしや社会が(緊急事態において)実践してきたことにはどのような意味があったのか?④これからの政治と社会には何が必要なのか?
それぞれに明確な答えを求めることはおそらくできないと思いますが、原発事故、学校統廃合、新型コロナウイルスへの対応をめぐって考えたいことの裏には、このような4つのざっくりとした問いがあります。これをもう少し詳しく言えば、
この「緊急事態」はいつまで続くのか?あるいは終わらないのか?
失われつつある日常、暮らし、生活を取り戻し、持続させていくために、人びとや社会は何を実践してきたのか?政治の役割とは何か?
ということだと思います。
原発事故によって震災前まで脈々と続いてきた命や暮らし、日常が失われつつあるのは、数十年は解決のできない汚染や廃炉・事故収束の問題以上に、何が影響しているのか。コロナウイルスによって奪われつつあるのは、感染症対策・予防ということ以上に、何が影響しているのか。統廃合によって農山漁村から学校が失われることには、個々の自治体の教育政策や財政の問題以上に、何が影響しているのか。
学校教育にせよ、感染症にせよ、災害・公害にせよ、「教育改革」「ポスト3.11(復興)」「ポストコロナ」という形で、人びとの暮らしや社会、日々生きている「現場」を元通りにしたり維持したりするのではなく、何か別のものに「変えなければいけない」という世論(や、良かれと思って語る特定の専門家などの言説)、それに追従したり扇動したりする政治が、あたかも当然のようにまかり通っています。おそらく、「変えなければならない」のは政治と社会の関係、政策と現場の関係、中央と地方の関係、つまり統治のあり方でしょう。いまの政治体を維持するために変わらなければならないのが、社会や暮らしの側なのでしょうか。(近代民主主義とは一体何だったのでしょうか。それは時にファシズム、独裁、全体主義にも傾くことがある、という程度の話なのでしょうか。それは不可避のものとして受け入れなければならないのでしょうか。)
当たり前のように維持されていた命や暮らしが、取り戻せないまでになってしまっていること、失ってしまったこと。それを取り戻すこと、取り戻そうとすること、維持すること、維持しようとすることが、どれほど意味のあることなのか、そして難しいことなのか。
命や暮らしのレベルで、失いつつある人びと、もしくは失ってしまった人びと、あるいは取り戻し維持しようと苦心している人、そうした人びとを問題の中心に据えて社会問題を考えることが、なぜできないのか。そのようなことを考えながらこのnoteを書いていきたい、読んでいただいた皆さまと一緒に考えていきたいと思っています。
今のところ考えているコンテンツの案
noteを始めるに当たっての問題意識は、以上に述べた通りです。そして今後、少しずつでも書いていきたいと考えている内容は以下の通りです。
新型コロナウイルスへの対応
・政府による対応の経緯のまとめ、ポイント
・コロナ関連記事の紹介
・主要なWebサイトの紹介
・主要な「ポストコロナ」論の紹介
緊急事態における生と社会についての議論
・日本における国家緊急権、緊急事態条項についての議論の紹介
・ジョルジョ・アガンベンの「例外状態」と「剥き出しの生」
・ミシェル・フーコーの「生政治」論と新自由主義
・「例外状態」論、「生政治」論の3.11やコロナ論への応用
・ハンナ・アーレントの全体主義の分析、「人間の条件」
・ヴァルター・ベンヤミンの「暴力批判論」
・カール・シュミットの例外状態論
・ほか、ゼミでの議論の紹介
原発事故への対応
・政府による対応の経緯のまとめ、復興計画など政策のポイント
・法制度、各種支援制度のまとめ、ポイント
・さまざまな政策提言の紹介
・福島県や各市町村の復興計画の紹介、まとめ
・ゼミでの議論の紹介、これまでに書いた論文や発表内容の紹介
学校統廃合問題
・文科省などの各種政策の紹介、まとめ
・現在までの歴史的経緯についてのまとめ
・ゼミでの議論の紹介、事例分析や地域の紹介
ほかにも、書評や対談形式の記事、ゼミ関係者や協力者に寄稿をいただくことも、いずれはできたらいいなと考えています。
とはいえ、とりあえずは、どのような経緯で各問題について取り組むに至ったのかと(個人情報などの支障がない範囲で)、それぞれについてのより詳しい問題意識について書いてみるつもりです。
東京都立大学人文科学研究科博士後期課程 横山智樹
2020年7月29日
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