「緊急事態」はなぜ常態化するのか?
◆はじめに
東京オリンピックが開催され、閉会を迎えた中で、日本国内の新型コロナウイルスの感染者数は過去最多を更新し続けている。
これまで1年強の間は、緊急事態宣言を出し、緩やかであるにせよ私権制限を行うことが、感染拡大を抑制するための有効な方法とされてきた。
しかし、現在の状況はこれまでとは大きく異なっている。
これまでの政府やメディア、国民の関心は「緊急事態宣言をいつ解除するか」、あるいは「いつから発令するか」であったのに対して、今や緊急事態宣言の延長は当然のこととされ、さらには全国的なロックダウンの是非までが問われるようになってしまった。
ロックダウンやこれに伴う私権制限の是非については、こちらの記事をご覧いただきたい。
また筆者は、これまでの記事や学術論文の中で、コロナ対策や原発事故への対応における共通の問題を考察してきた。
まずは、筆者の日本におけるコロナ対策の現状認識を共有しておきたい。
・4度目の緊急事態宣言と延長
・しかし国民は自粛疲れ、もはや効果はなし
・そもそも、宣言の効果の検証はなし
・そして感染者は過去最多を日々更新
・夏、温度湿度と関係なくウイルスは威力発揮
・オリンピック開催の政治的意味は、感染拡大を明らかに助長した
・GOTOキャンペーンもオリンピック開催も、感染拡大防止の観点からすれば明らかな迷走
・結局、1番感染を落ち着かせたかったタイミングで感染状況は過去最悪という失態
・飲食業など特定の市民を、効果があるかどうかもわからず押さえつけ、対策したことにしただけ
・結果的には、「もはや災害」「多くの命が救えなくなる」「コロナと一般医療のどちらを優先」のような議論にまで深刻化し続けている
・中等症患者に関する国の方針転換(「自宅療養」)
https://www.yomiuri.co.jp/national/20210811-OYT1T50201/
https://www.tokyo-np.co.jp/article/123165
https://www.tokyo-np.co.jp/article/121313
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20210802-OYT1T50313/
続いて、この対策はどこで何を間違えたのかについて、いくつかの問題提起をしたい。
・初動。宣言出すタイミング、あるいは国民への警鐘のタイミングは遅すぎたのではないか。
・専門家を集めて会議を始めたのは、明らかに遅すぎた。そしてクラスター対策という枠組みだけでよかったのか?
・1回目の宣言。そもそも発令は安倍政権の政治的スキャンダルを掻き消すためのものだったこと。解除のタイミングは早すぎた。「今しかない」とは何だったのか。
・2度目以降の宣言。宣言を出すよりも必要だったことがあったのではないか。むしろ、宣言の意味はもはや無かったのではないか?
・「ロックダウンすべき」の論調に対して、法を盾に行わなかった。賛成にせよ否定にせよ、どちらにせよ論じ方に甘さがあったのではないか?
・度々繰り返される宣言の中、いつまでも検査と医療の体制が整備されないのはなぜなのか?
・休業や時短要請に対して、補償は果たしてどれほど充分なものとして行われたのか?
・2020からの水際対策は効果的に行われたのか?内政(自粛要請)だけが拡大防止のために必要とされたのはなぜか?
・ワクチン普及を急ぐもウイルスは度々変異する。切り札とされてきたワクチンの効力はいかに?
・感染拡大の程度を測るための「指標」は正しかったのか?
疑問に思うことは多い。だが、これ以上挙げても切りがない。
重要なのは、コロナの危機がまだ序章に過ぎないとしたら、何を検証して何を予想するべきなのかである。
その時にポイントになるのは、宣言の効果、「メリット/デメリット」として語られてきたものである。
これらが検証されない間に、宣言と解除を繰り返していることは問題である。
・専門家は、緊急事態宣言の効果を検証しているのか
・していたとして、それはなぜ対策に反映されないのか
・そもそも、第1回目の宣言は渋っていたのに、なぜ今は渋らないのか
結局は、「緊急事態宣言を出せば社会をコントロールできる」という考え自体が、問い直されなければならないのだろう。
今回の記事から、「非常事態」はなぜ常態化するのか?という問いを手掛かりとして、コロナ対策や原発事故の問題について考えていきたい。
◆「緊急事態」はなぜ常態化するのか?
緊急事態において、なぜ、そしていかに権力・政治的介入の領域は拡大されるのか。
また、社会的な生(生活)を喪失し、犠牲にしてまで守らなければならない生命とは、どれほど価値のあるものなのか。
そして「守られるべき生命・人口」と「そうでない生命」が選別の対象となり、統治の目標は生活・くらしのあり方から(単なる生命としての)人口と経済(市場)に終着・転化するのはなぜか。
「生政治」という議論は、M.フーコーやG.アガンベンらが、本来介入の対象とはされなかった、あるいはされるべきではなかったものに介入する統治、生のコントロールを通じて成立する主権的暴力のあり方を問題視するものである。
そのうえでアガンベンは、古代ギリシアにおける二つの生、すなわち「より善く生きる」ことを目指す「政治的な生(bios)」と「生きている」という単なる事実としての「自然的な生(zōē)」の区別に着目する。
zōēが政治的な介入の対象となる、ということはつまり、生きるも死ぬも主権者の決定次第、ということになる。アガンベンが特に危惧しているのはこの点である。
今回の記事では、フーコー、アガンベンの両者の「生政治」論の特徴とその違いについて見ていこう。
◆フーコーの生政治論:危機(への対処として)の統治
フーコーは、封建主義時代における君主の主権が基本的に臣民に対する生殺与奪の権利(死なせるか、それとも生きるままにしておくか)であったのに対し、近代における国家の主権は国民の生存を調整する権力(生きさせるか、それとも死の中に廃棄するか)、すなわち生―権力へと変容したとする。
一望監視システム(「パノプティコン」)のような規律―訓練型の権力と、人口調整の諸制度に代表される生―政治型の権力によって構成され、身体を管理し訓育することで個人を社会規範に適合させると同時に、公衆衛生や医療、福祉を通じて人口を調整し、人々の健康と生を管理するのが生政治と呼ばれる議論である。【性の歴史Ⅰ】
フーコーの生政治論(統治性論)は、「危機への(対処としての)統治」としての性質をもつ。
飢餓や凶作の対策として近代の統治術が生み出したものが、「市場経済の自由」であった。個々人に直接支援を行うのではなく、より多くの人びとが救われるように市場経済を活発化させることが、食糧難の問題を解決する近代的な解決策とされたのである。
ほかにも、ペストなど疫病に対する公衆衛生学、人口と経済(国家の富)の増大・管理のための人口学、政治経済学、医学、精神医学など、効果的に近代的な統治するための「専門知の領域」の確立が挙げられる。
そしてこれを司る「国家理性」は、国家の維持や発展を目的として、法や制度的な枠組みをときに超越するものとして発動する。【コレージュ・ド・フランス講義「安全・領土・人口」「生政治の誕生」】
◆アガンベンの生政治論:危機(として)の統治
一方でアガンベンの生政治論は、「統治そのものが危機である」という視点を備えている。
アガンベンは、「自然的な生」が「政治的な生」の領域に、「例外状態(≒緊急事態・非常事態)」という特異な形で包摂されていく点に近代の主権権力の特徴を見出した。
主権的権力とは、主権者が法によって行使する権力だが、主権者は法権利から外れるものが何かを決定する権力を備えている(カール・シュミット「政治神学」)。
ここで法権利の及ばない地帯におかれたものに対しては、あらゆる暴力が行使されうる。その典型例が、古代ローマのホモ・サケル(聖なる人間)である。
ある種の違犯を犯した者は、「ホモ・サケルであれ」と宣告されることで、通常の法により処罰されることも、宗教的な犠牲に処されることもなく、そしてその者を殺人しても罪に問われることもない。
主権的権力は、このような存在を生産すること(例外化・締め出し)によって定義づけられる。
近代の民主主義(人民主権)においても、主権的権力が存在する以上は、例外化が作動し続ける。
ホモ・サケルは、人民自体の中に生産されることになるが、この位置を占めることになるのは政治生活と切り離されるべきであった人びとの生命、単に生きているという事実、生物学的生である。
アウシュヴィッツに代表される強制収容所の人びと、人体実験の被験者、脳死の人たち、難民などは、主権的権力による暴力的介入が可能となり、剥き出しとなった生である【「ホモ・サケル」】。
◆緊急事態を持続させる統治の「合理性」?
そして非常事態や緊急事態と呼ばれる、通常の法権利が宙吊りとされる法的状態が、「例外状態」である。
自らが法権利の境界線を意のままにできるこの状態を、主権権力はつねに欲するというのだ。
さらにこの状態を、法的なものとして恒常化させようとする形で、主権者は統治を運営しうるのである。
アガンベンによれば、主権的権力は、ある危機を好機として、例外状態(≒緊急事態・非常事態)を成立させ、継続させようとしているのである。【「例外状態」】
・・・
これまで国内では、宣言出すタイミングや解除するタイミング、PCR検査の徹底、ワクチンの早急な普及など、様々な「コロナ論争」が繰り広げられてきた。
アガンベンの主権権力と例外状態に関する議論は、これらを根本から否定するものであるだけに、とくに欧米では受け入れられないのかもしれない。
(https://www.repre.org/repre/vol39/greeting/)
いずれにせよ、日本政府にはコロナウイルスの感染拡大をコントロールする能力はないと言える。
左派の論者や野党が度々繰り返してきた文句でもあるが、「自粛と補償をセット」にできないのならば、初めから私権制限などすべきではなかったのではないか。批判の側にも、反省すべきところがあったのではないだろうか。
当然ながら、変わらない政府の役割は、検査の徹底と医療体制の充実化、感染者や関係者への継続的な支援である。
一方で市民の役割は、「生活様式」を大幅に変えずとも、習慣の中で感染拡大を出来る限り防止することである。
これを両者が踏み外す限りは、「緊急事態の常態化」は避けられないし、もはやコロナ以前の社会を取り戻すことは不可能ではないだろうか。
横山智樹
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