映画『プリシラ』レビュー
はじめに
2024年4月12日公開ソフィア・コッポラ監督の作品『プリシラ』を鑑賞した。
ソフィア・コッポラ監督の作風は割と好きなので、今作もかなり期待をしていた。
結果から言ってしまえば、個人的にはかなり楽しめる映画になっていて、満足して
映画館を出ることができた。
とはいえ、あらゆる人に対して親切な映画では無いという印象もあったので
その辺りも含めてレビューしていければと思う。
本作は伝記映画であり、ある程度結論や展開に触れても良いという感覚があるため、本稿はそれなりにネタバレを含んでいる。とはいえ、「最後の場面について」の部分を除けば、鑑賞するかどうか迷っている方が読んでもいいように心がけて書いていこうと
思っている。
ただし、どうしてもネタバレを避けたい方には読むことをオススメしない。
恋愛映画として
プリシラの目線に合わせて鑑賞してみよう
一つの恋愛映画として今作を観て行った時に大事な事は何だろうか。
最も重要な事は作中の時間経過に沿って成長や変化をしていくプリシラに自分の目線を合わせていく事だろうと思う。
一見当たり前の事のようであるが、自分の持っている知識や価値観から離れてプリシラになりきる事は意外と難しい。
何故なら、初登場時のプリシラはかなり未熟な女の子だからである。
エルヴィスとの出会いの瞬間、プリシラは9年生(中学3年生相当)だ。
ぼくらの多くは中学生に手を出そうとするエルヴィスに対して抵抗感を覚えるだろう。
しかし、ぼくらの感覚とは裏腹にプリシラの方もエルヴィスに恋をする。
この際、年上の大スターに対する傾倒に近い憧れの感情をプリシラと共有しなければ、その後のプリシラのエルヴィスに対する感情や心境の変化に気付けなくなってしまう。
鑑賞の際には、場面ごとのプリシラの年齢を意識して、その年相応の感情や
人物同士の関係性に注目して見ると、物語の展開についていきやすいと思う。
現代に価値観とのすり合わせ方
次に見ておきたいのは作中のエルヴィスについてである。
まず前提としてエルヴィスは50年代の若者にとって理想の男性像であったに違いない
という点から触れようと思う。
これは逆に言えば、2024年現在の価値観からすると、エルヴィスは決して理想の男性像には成り得ないという事である。この事に対する最も簡単な対処法はエルヴィスを
とことん悪い奴にしてしまうというやり方だ。
そんな単純な方法をソフィア・コッポラ監督は取らなかったとぼくは解釈した。
もちろん、エルヴィスが現代の感覚からすると性差別的であったりマッチョイズム的な側面を持っていた事を示す場面は随所に散りばめられてはいた。
(これは当時の理想の男性像を現代においても全肯定するという時代錯誤的な価値観の提示を避けるためには不可欠な事。)
一方で、ぼく個人としては、この映画の描くエルヴィスは現代でも十二分にモテるに
だろうと感じた。
男性優位的な価値観はあるものの、気遣いは出来るし、楽しい場所には連れて行ってくれるし、優しい時はとびきり優しい(最後のに関しては、ある意味で一番悪い男とも
言える)。
理想の男性像、モテる男の基準は確かに年代によって変わってはくるけれど
今時の若者であってもオードリー・ヘップバーンを見て憧れたり、ジョン・レノンに
共鳴してみたりするのと同様で、作中のエルヴィスを観て、カッコいいと感じた瞬間
は誰にでもあったのではないかと思う。
それでもエルヴィスに共感できない
とはいえ、エルヴィスに共感できなかった人たちが大半だと思う。
その理由は至極単純で、エルヴィスの心の葛藤をほとんど作中では見ることが
出来なかったからというだけだ。
随所に薬に頼る場面や仕事がうまくいかないといったのが示される事はあったものの
そういった核心に迫るエルヴィスの心の動きに触れられる事は無かった。
この理由もまた至極単純で、プリシラにとってはエルヴィスの葛藤など分からないから
である。最初にプリシラの目線に合わせると言ったが、まさに彼女の視点に立てば
仕事での葛藤など彼女とは無関係な事であることは容易に分かる。
エルヴィスがプリシラを彼の仕事から切り離していたからである。
この事に関してはプリシラがエルヴィスの新曲に口出しした際にエルヴィスが憤慨した場面が特に印象的である。
エルヴィスとしては、自分の仕事の事を何も知らないくせに口出しするな、という思いだったのだろう。この気持ちはぼくらだって分からなくはないと思う。
しかし、一方のプリシラにしてみれば、エルヴィスのビジネスに関われないのは自分のせいではない。ビジネスの場の雰囲気に合わせた発言をしただけで、急に憤慨するエルヴィスの姿は恐ろしく映ったに違いない。そのプリシラの恐怖の目線を今作はよく捉えていると思う。
60年代のエルヴィス
映画では中々共感できない人物であるエルヴィスであるが
今作で主に取り扱われていた60年代のエルヴィスはかなりキャリアの中でもドン底であり、エルヴィス本人の苦悩だけを切り取っても映画が出来るレベルだと思う。
個人的に好きだったのは、エルヴィスが東洋思想に目覚める場面である。
60年代のカウンターカルチャーの世代の中では、多少上の世代に当たるエルヴィスの
東洋思想からの影響の受け方が割と思想的に保守派な辺りが納得感があった。
時代の要請の変化の中で変わらざるを得ないエルヴィスと、エルヴィスの世代的な限界が両面見れるいい場面だったと思う。
実際は苦労していたであろうエルヴィスであるが、今作の大胆な点はそうしたエルヴィスの苦悩を丸ごと捨象し、プリシラとエルヴィスの二人の恋愛に焦点を当てたところにあるだろう。
そのため、仕事の不調で精神的に不安定になっているエルヴィスは単なる暴力的な男であるように作中では見えるのである。
二人の恋愛関係に互いの心の深部は関係なく、目に見える形での表層的なやり取り
が恋愛というコミュニケーションである。
現実の葛藤はどうあれ、監督としてはプリシラにとっては、エルヴィスはこう見えていたに違いないという側面に振り切って恋愛を描いたのではないかと思う。
男の世界と女性の意志
次に触れたいのが、プリシラを取り巻く環境の変化とそれに伴うプリシラ自身の変化についてである。
環境は逐次変化していたが、最も大きな問題としてプリシラはエルヴィスと共にいる事で男性社会に属さざるを得なかったということが挙げられる。
エルヴィスの周囲にはかなり多くの男の取り巻きがおり、プリシラがエルヴィスと共に行動をすれば、彼らも同行していた。作中でのプリシラの表情を見れば一目瞭然であるが、どこか居場所が無さげな様子のプリシラであった。
また、エルヴィスの発言は絶対的なものとしてプリシラの前に立ちはだかっていた。
(エルヴィスの好みに従いファッションに気をかける場面など。)
男に決定権があり、女性はそれに従うだけ、という構図を最もよく表していたのは
作中のラブシーンであろう。寝室でのシーンは何度も反復されており、作中での二人の関係性においてかなり重要な場面であったとぼくは捉えている。
二人にコミュニケーションのズレが一番大きく感じられたのが寝室でのシーンであると
ぼくは思う。シーンが多すぎるため、個別に触れるのは避けるが、エルヴィスの意思と
プリシラの意思がそれぞれどのように交錯していくかに注目する事で、プリシラの挫折
や諦念、失望などが読み取れるはずである。
最後の場面について※流石に割とネタバレ
男性社会と女性社会という二項対立に関して述べましたが、これが割とはっきり
意識されるのがラストシーンだ
ラストでエルヴィスとプリシラは離れていく訳だが、その際に玄関でお見送りを
してくれたのは女性の使用人のみで、エルヴィスの取り巻きの男たちはいない。
これは、プリシラと信頼関係のあった人物はエルヴィスを除けば屋敷の中の女性たち
であったという事を暗に示している。
そして、一人運転してエルヴィスの屋敷から出ていくプリシラからは解放のイメージが感じ取れる。これまで運転席に乗ることのなかったプリシラが自らハンドルを取った、という事からも、屋敷=監獄から脱出し、外の世界へと向かっていくプリシラからも
希望的な展開が予想される良いラストシーンであったと思う。
おわりに
ソフィア・コッポラ監督の『プリシラ』レビューは以上となる。
冒頭からシンデレラストーリーのような展開であり、昨今の時代に合わせた恋愛映画とは違うものになるな、と思っていた。セクシュアリティやルッキズムといったテーマが隆盛の現在、過去を舞台にした恋愛映画ということで、その分、メッセージ性も読み取りにくくなっていたようにも思う。その上、分かりやすく昔の女性は生きづらい、という構成にもしておらず、二人の関係性が漸進的に変化していく中でそれに気づいていく感じになっている。そういった繊細さが自分の心に刺さった。
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