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犯罪者を主人公にして何がいけないのか?桐生夏生さんの「違和感」に共感する
ズサリと共感致しました、以下の桐生夏生さんの記事。
イタリアの映画祭で若い質問者が映画監督に「なぜあなたは犯罪者を主人公にしたのか?」と問い詰めて、映画監督を困惑させたそうです。
その質問に対する桐生さんの違和感。
実は私にも似たような経験があります。
まだ十代の頃。タイトルは忘れてしまったものの、追い詰められたアイルランドの若者がテロリストになってしまうという悲しいイギリスのドラマがあったのですが、それをたまたま一緒に見ていた同級生の女の子が、
「どうしてテロリストを主人公にし、それに共感を求めるようなドラマを作る人がいるのか!意味がわからない!ひどい話だ」というようなことを言ったのです。
私はむしろ戸惑ってしまい、
「いや、でも、僕たちも生まれ育つ環境が違えばテロリストになっていたかもしれない、というドラマなのだと思うよ」
というようなことをムニャムニャと言い返しただけだったと記憶しています。でも今から思えば、上記の私の反論、正解だったかも。
「どんな事情であろうと、犯罪者はダメ!罰するべき!」
は、もちろん、大前提。これが世の中を守っている。でもそこで、
「それはそうなのだが、どうしてこのような犯罪者が現れるのか、徹底的に考えてみたい」
というような人たちがいるから、小説が作られる、映画ができる。
そこにあるのは「人間の善悪をわける境界線などは、実に微細な違いに過ぎないかもしれない」ということへの感受性。
犯罪者になるか、ならないか、の差異が微妙なものだ、というだけの話ではなく。「犯罪とみなされていないことでも、世界の別の立場から見れば、悪なのかもしれない、そういう意味では私も誰かにとっては悪人なのかもしれない」ということへの気づきと恐れ。
たとえば私も、犯罪歴もない平凡な日本のサラリーマンとして生きておりますが、見方によっては、日本社会に守られてヌクヌクと平和で平凡な毎日を送ってきた男というだけでも、誰かからみればすでに許しがたい悪に見えているかもしれない。「環境汚染も貧困問題も見て見ぬ振りをして、安全なところで好きなだけ映画を見たりネットに自由につながったりして、なんてズルいんだ!」と憎悪されているのかもしれない。
そういうことへの震えが、小説や映画に我々を向かわせる。
だから、しっかりした小説や映画ほど、一回ではわからなかったり、細かい場面の意味までよくよく考えないとメッセージが咀嚼できなかったりするのは当然なのです。「立ち止まって、見方を変えて、考えてみようよ」という呼びかけなのだから、本気の作品ほど味わうのに時間を要するのは当然。
だから、「一回見て意味がわからないようなものはもうダメ。さささっと斜め読みができるような軽い文章量にまとまっていないものはもうダメ」という話は、ビジネス論的には正しくてもあまり真に受けてはいけない。
かのニーチェが言ったように、「近代以降の人間の最大の問題は『ゆっくり考えながらものを読む』ことをしないこと」なのですから。
などなどを考えさせてくれた点で、先にあげた桐生夏生さんの記事は、とても、よかった。