『マイリトルゴート』:痛みの下に寄り添い合う
羊毛アニメ『マイリトルゴート』を見たので、色々とふせったーに書いていたのだが、どうにも長くなってしまった。
ので、久々にNoteの方に書いてみることにした。
以下、作品のネタバレがあるので、これを読む人は気をつけて欲しい。
また、児童虐待や性的虐待も含んだ作品であり、グロテスクな表現も登場する。
トラウマのある人や、フラッシュバックの可能性のある人も閲覧には気をつけて欲しい。
●物語
『マイリトルゴート』は『七匹の子ヤギ』をベースにした作品である。
物語はお母さんヤギが、狼のお腹を割いて我が子たちを救出する場面から始まる。
お母さんヤギは、柱時計に隠れて難を逃れた無傷の子ヤギの手を借りながら、必死で狼のお腹から我が子を取り出していた。
しかし、子ヤギたちは既に消化されかかっており、その姿は惨憺たるものだった。
お母さんヤギはどうにか5匹の子ヤギを狼のお腹から取り出すが、6匹目の子ヤギ、長男のトルクだけがどうしても見つからない。
実はトルクは一番最初に食べられてしまったために、救出が間に合わなかったのだ。
現実を受け入れられなかったお母さんヤギは後日、ヤギのケープを着た人間の男の子をトルクと思い込んで家に連れ帰ってくる。
そして家に鍵をかけると、森に食べ物を探しに出かけてしまう。
ヤギの家に残された男の子は、所々毛が剥がれ、皮膚が爛れ、目玉があらぬ方向へ向いた子ヤギたちの姿に怯える。
子ヤギたちは無邪気に男の子を「トルクお兄ちゃん」と呼んで家の奥に引っ張り込むが、お姉ちゃんヤギだけは鋭く「トルクお兄ちゃんは一番最初に食べられたのに、どうしてこんなに毛がふさふさなの?」「また狼が私たちを騙しているのかもしれない」と男の子に疑いの目を向ける。
その後、男の子がお姉ちゃんヤギにさりげない優しさを示すことで、男の子と子ヤギたちは一瞬のほのかな交流を交わすことになるのだが、そこへ、男の子のお父さんが男の子を探しにやってくる。
お父さんを狼と思い込み、一斉に隠れる子ヤギたち。
取り残された男の子を、お父さんは優しく抱きしめ——たかと思うと、床に押し倒した。
そして男の子が拒絶を示すなり、狼に変じて男の子に虐待を加えはじめる。
男の子と交流を交わした子ヤギたちは、束になって男の子を助けようとするが、狼の暴力には敵わない。
男の子は必死に「ママ」と叫ぶ。
そこへ帰宅したお母さんヤギが、お父さんにスタンガンを食らわせ、男の子を救出する。
そして、『七匹の子ヤギ』の原作の通りに、お父さんのお腹に石を詰めて、川に沈めてしまう。
●インターネットで見かける感想・考察
このアニメの考察や感想をインターネットで検索してみると、色々なものが出てくる。
我が子を監禁するお母さんヤギ、再会した瞬間に我が子に性的虐待を加える人間のお父さん。
その図式からアンバランスな親子関係や、虐待される子どもと、子どもを取り合う夫婦の図式を抜き出して考えている人もいた。
最後、お父さんが沈められた川からぷかりと浮かび上がる靴と、徐々に大きく響いてくるヘリコプターの音に、ヤギたちが全て殺されて、男の子が人間社会に連れ戻されるのではないかと、そんな不安な未来像を抱いたものもあった。
実際に、いろいろな見方ができる作品だと思う。
そんな中で、私も私なりに、色々と要素を拾い上げて、自分なりの解釈を組み上げてみた。
寄り道も多いし、無駄も多いかもしれない。制作者の意図に添うかどうかもわからないけれども、ちょっとお付き合いいただければ幸いである。
●ヤギの家は痛みの家
他所の感想の中では、我が子を監禁するお母さんヤギの異常性に言及するものもあったが、アニメをよく見てみると、この監禁は子ヤギたちも納得して望んでいる節がある。
例えば最初、男の子がヤギの家に連れ込まれたばかりの場面。
お母さんヤギが鍵をかけたドアに、子ヤギたちは自ら更に箒で閂をかけているのだ。
当たり前と言えば、当たり前の話である。
子ヤギたちは皆、狼の直接的な被害者なのだから。
ヤギたちの家は痛みの家である。
突然外からやってきた理不尽な暴力=狼によって、子ヤギたちは心身に傷を負い、お母さんヤギもまた喪失の傷を負っている。
残酷な外部からの暴力で傷を負った親子が、家を閉ざすことで我が子を、自身を守ろうとするのは自然な流れである。
それでも、見ようによっては母親の過剰な保護は、虐待の連鎖と解釈することはできるかもしれない。
痛みの経験から、同じ悲劇を繰り返すまいとして、違う暴力に走るお母さんヤギという風に。
●トラウマと戦う子ヤギたち
ヤギの家の描写を見てみると、子ヤギたちの傷跡が垣間見える。
それは肉体的なものばかりではない。
例えば、床に落ちた『七匹の子ヤギ』の絵本。
狼が襲い掛かってくるページの狼は、赤いクレヨン(色鉛筆?)で執拗に塗りつぶされている。
一方で、子ヤギたちは狼のお面を所持しているなど、狼のごっこ遊びに興じている様子も見受けられる。
狼を忌避しながらも、彼らは狼の存在を遊びの中に取り入れているのだ。
この描写に、私は東日本大震災の後などに見られたという、子どもたちの「津波ごっこ」を思い出した。
子どもたちは遊びの中で自身の悲劇を繰り返し再現し、そうすることによって、無意識下で傷やトラウマを乗り越えようとすることがあるのだという。
もしかしたら子ヤギたちも、扉を閉ざされ、閉ざし、そうして外を拒絶した世界の中で、必死に傷と向き合い、痛みを癒そうとしているのかもしれない。
●男の子と子ヤギたち――傷によって繋がる共同体①
「ヤギの家は痛みの家」と「トラウマと戦う子どもたち」の項目では、ヤギたちが暴力による傷を抱え、家を閉ざしていることについて触れた。
人間の男の子は、この閉ざされた世界に突如として現れた存在であるのだが、彼もまた暴力の被害者であった。
そして暴力の被害者たる彼は、最終的にこの『マイリトルゴート』という作品の中で、痛みを通じてヤギたちの共同体に迎え入れられることになる。
この項目ではそのことについて触れたい。
まず、「物語」の項目で触れたように、男の子は最初、お姉ちゃんヤギから猜疑の眼差しを向けられる。
何故なら「トルクお兄ちゃんは一番最初に食べられたのに毛がふさふさ」しているからだ。
繰り返しになるが、ヤギの家では誰もが傷を負っている。
柱時計に隠れた子ヤギだけは外見上無傷ではあるが、彼だって心に傷は負っているに違いない。
この家のヤギたちはみな、狼による惨劇という同じ出来事に由来する傷を負っている。
それなのに、突然現れた男の子にはその証が見られないのである。
狼と同じ、家族という共同体の外、つまり外部からきた異物。
ヤギたちからすれば、それが男の子の正体である。
しかし、そんなお姉ちゃんヤギの心を軟化させる出来事が起きる。
お姉ちゃんヤギが、うっかり鏡に映った自分の姿を直視してしまうのである。
暴力によって醜く歪められた自身の姿に耐えられず、お姉ちゃんヤギは悲鳴を上げて嘆き悲しむ。
男の子は戸惑いながらも、そんなお姉ちゃんヤギに歩み寄り、自分の着ていたケープを着せかけてあげる。
その時、露になる男の子の腕には無数の傷があるのだ。
当たり前だが、普通のヤギの毛皮は脱ごうと思って脱げるものではない。
この場面では子ヤギたちに男の子の正体と、正体がバレる恐怖よりもお姉ちゃんヤギを優先した彼の心の優しさ、そして彼の肉体に残された傷跡が示される。
子ヤギたちは男の子の正体と献身に驚き、お姉ちゃんヤギは更に男の子の傷跡に気がつく。
これは、子ヤギたちが見せる表情や、視線の動きからも明らかである。
この一瞬の交流の直後、「物語」の項目で触れたように、ヤギたちの家には男の子のお父さんが現れ、男の子はお父さんの暴力に晒されることになる。
その時、彼を助けようとして先陣を切ったのはお姉ちゃんヤギだった。
更にお姉ちゃんヤギは、お父さんがお母さんヤギによって倒された後、男の子の前でフードを外してほとんど毛の残っていない自分の顔を見せる。
男の子はお父さんに洋服をはぎ取られて全裸になっているのだが、お姉ちゃんヤギは、「私とお揃いね」とでも言うように微笑んで見せるのだ。
男の子がヤギたちの共同体に迎え入れられた瞬間である。
男の子がヤギたちの共同体に迎え入れられた理由について、彼の献身的な優しさがあったことは勿論だが、恐らくは目の前に晒された男の子と傷と痛み、これが子ヤギたちと男の子を強く結びつけたのではないかと私は考えている。
男の子は、子ヤギたちからすれば、恐ろしい外の世界から来た異物である。
しかし、彼は子ヤギたちと同じように「狼」による傷を抱え、「狼」によって「体を覆う毛」を剥ぎ取られた存在なのだ。
その傷と痛みによって、男の子はヤギたちの共同体に迎え入れられたのだろう。
●男の子とお母さんヤギ――傷によって繋がる共同体②
子ヤギたちが男の子を共同体の一員として認めた時、同時にお母さんヤギも男の子はトルクではないと気づいた上で、彼を共同体の一員として迎え入れたと私は考えている。
作中には、お母さんヤギが男の子をトルクではないと断定する場面は出てこない。
インターネットの考察や感想でも、「気づいているのかもしれない、いないのかもしれない」と曖昧なままに置かれている場合が多い。
にも拘わらず、私が気づいていると思うのには二点、理由がある。
一つは、お母さんヤギが男の子を助けた時、既に男の子は既にヤギのケープを纏っておらず、それどころか一糸まとわぬ状態であったこと。
もう一つは、男の子の「ママ」という叫びである。
男の子はお父さんに襲われている最中、ずっと「ママ」と叫んでいる。
しかし、子ヤギたちは助けに来たお母さんヤギに駆け寄る時に「お母さん」と呼びかけているのである。
ここで、浮かび上がるのは二つの家庭の文化の違いだ。
男の子の家は母親を「ママ」と呼ぶのが習慣で、ヤギたちの家では「お母さん」が習慣なのだろう。
母親であるお母さんヤギが、この違いに気づかないとは思えない。
襲われている最中、男の子が呼んでいたのはきっと「人間の母親」で、ヤギのお母さんではないのだろう。
実際、男の子が襲われている最中、カメラは視聴者に印象を残すように、お父さんの落としたスマホの画面を映し出す。
男の子と一緒に微笑んでいる、母親と思しき女性の映った画面をだ。
しかし、お母さんヤギは、呼ばれているのが違う母と知った上で、最終的に狼を倒し、傷を負った男の子を我が子として迎え入れることを決めたのではないだろうか。
子ヤギたちがそうであったように、我が子たちと「同じ傷と痛みを抱え」た存在として。
そうして最後、男の子を抱きしめたのではないだろうか。
このように考えると、物語の最後、お母さんヤギの「私の可愛い子どもたち」という呼びかけはなんとも深く、印象的に響く。
●結論
以上のように、私は『マイリトルゴート』を、「外の世界で同じ傷を負った者たちが寄り添い合う物語」、「傷によって繋がる共同体の物語」というように解釈した。
ヤギたちは「同じ傷を抱えた共同体」であり、「同じような傷を負った人間の子ども」が「痛みを証」に家族として迎え入れられる。
そういう物語だ。
しかし、この共同体が一体どこへ向かうのか。
それは作中でもはっきりとは示されていない。
「トラウマと戦う子ヤギたち」で触れたように、子ヤギたちは自身の傷と向き合い、回復を目指しているようにも見える。
子ヤギたちが一致団結して、お父さんに立ち向かったところなどは、彼らがトラウマを乗り越える兆しともとれるかもしれない。
しかし、ヤギたちの家の扉はより厳重に閉ざされるようになってしまった。
外に出かけていくお母さんヤギが持って行く武器も、男の子が連れてこられたときは斧とスタンガンだったのに、終わりのところではトラバサミが追加されて、より物々しくなっている。
そして、お父さんが沈められた川では、お父さんの靴がぷかりと浮かび上がり、辺りには男の子を捜索していると思われるヘリコプターの音が響き渡る。
男の子は、男の子を救えなかった外の世界から、「同じ傷を抱えた共同体」の世界へ逃げ込み、救済されたようにも思われる。
物語のおしまいで、窓の外を眺めていた男の子は、他の子ヤギたちに呼ばれて、笑顔で家の中を振り返る。
その笑顔が全てと言えば、全てなのかもしれない。
しかし、男の子が笑顔を取り戻したヤギたちの家は、繰り返しになるが、より一層閉鎖性を増して、より強く外の世界を拒絶しているようにも思われる。
これが現実であるならば、第三者機関の介入を叫びたいところだが(物語中ではその第三者機関が明らかに無力ではあるのだが)、男の子が逃げ込んだのはヤギの家。人間の社会の外にある場所である。
「同じ傷」を抱え合った彼らは、「同じ痛み」を共有し、身を寄せ合い、そうしてどこへ向かうのだろうか。
作品を視聴した者の一人としては、願わくば、彼らが共に癒し、明るい方向へ行って欲しいものだが、「同じ傷」と「同じ痛み」を抱えるが故に互いが互いを縛り付けてしまうような、そんなほの暗い未来もあり得てしまうのかもしれない。
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