【雑記】当事者性の罠
自らを被害者だと主張する人の強い感情にフォーカスして、実態をないがしろにして排除や差別を容認してしまうことを「当事者性の罠」と呼んでいる。
当事者性を持ち出すことは共感を集めるには適している。
客観性や科学的知見を重視するリベラルとは相反するように見えるが、実際に使えば自分の擁護したい集団の無理筋の主張を通すこともできるだろう。
当事者性を押し出すことは、あまりに有効なのでひとたび行えばやめられなくなる。はまれば容易に抜け出せない「罠」だ。
しかし、当事者性の優位をもって語ることは、公平性は失われ客観性はないがしろになり、正当性の是非よりも多くの共感を集める主張が取り上げられ、問題点は放置されたまま社会を分断していくことになるだろう。
リベラルが陥りやすい「当事者性の罠」を強烈にハックしたのがトランプだったのではないか、という感想はある。
強い忌避感や恐怖心といった当事者性を根拠に、排除や差別を容認してしまえば、テキサスの人が不法移民に感じる恐怖を根拠にした国境に壁を建設することを批判することは難しい。
感情を根拠に議論を始めれば、結局はいかに当事者の感情の解消をはかるか、という点に終始してしまい、妥協点にさえたどり着かないだろう。議論に値しない主張を議論の俎上にのせてはいけない。
2020年代は「反近代」の時代になる気がする。
気合を入れろ。歯をくいしばって自由をやれ。