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【雑記】不快感の奴隷になってはいけない

献血キャンペーンのイラスト関係でのモヤモヤについて吐き出しておく。

献血が増えないからダメ?

萌えイラストでは献血が集まらない!だから不適切だ!という意見があるらしい。しかし「キャンペーンは失敗で献血が増えない」と「不快なイラストだから取り下げろ」という要求の関係がよく分からない。

キャンペーンの成否は担当者が責任を持つことであって、イラストへの批判が正当か、イラストが取り下げるに値するものであるかどうかは別問題ではないか。

こういった意見に沿うなら、キャンペーンが成功すればエロ本や鉤十字を使ってもいいのだろうか?また逆にキャンペーンが不発であることを理由に表現を取り下げることを許すのだろうか。

そもそも、騒動の元になった主張は「環境型セクハラだからダメ」というものだったはずだ。果たしてキャンペーンが成功したことを数字で証明すれば反論になるだろうか?

これは議論してもいいのだろうか?

相手の話をもっと聞こうだとか、相手はこう考えているのではないかと推論を立てて、批判している側が求めてもいない証明を出そうとしたり、すぐに妥協点を探ろうとするのは、いかがなものかと思う。

ぶつかってきた人に「慰謝料100万払え!」と言われて話し合い、支払いが10万で済んだとして円満に解決したといえるだろうか。相手の主張が正当かどうか検証するのが先ではないだろうか。

以前も書いたが、知的な戯れとして議論を楽しむのはいいが、論拠が不明な議論するに値しないことがらまで真面目に俎上にのせるのは、不公平で悪平等であると思う。そういったチート行為を許容し続ければ、議論の価値が損なわれ、民主主義をあやうくする恐れがあるのではないか。

赤十字の回答は満点だ!

批判のあるなかで赤十字が出した回答は称賛に値する。

担当者は「今回のキャンペーンはあくまでも献血にご協力いただける方へのノベルティとし実施したもので、セクシャルハラスメントという認識は持っておりません」と回答した。「献血の推進においては、これまでも多くのアニメ作品からご支援をいただき、好評と実績を得てきたことから実施しているものです」としつつも、「今回のようなご指摘については、真摯に受け止め、今後の参考とさせていただきます」と見解を示した。

批判があったからといって安易に取り下げず、「批判されるような意図はない」とキッパリと反論したうえで、「意見は今後の参考にする」という程度に留めている。

これからは正当性のない批判に対してはこういった回答がスタンダードになってくことを願ってやまない。

不快感の奴隷になってはいけない

今回のイラストだけに限ったことではないが、「不快だ」と言われても簡単に要求に応じてはいけない。「不快」であることは要求が正当であることの根拠にならないからだ。

「不快」は感じる側の問題の場合もある。自分の体調や環境によって「不快」になることはある。機嫌の悪いときには子供の笑い声で「不快」になることもあるだろう。

自分が不快になったからといって、感情の赴くままに人や社会になにかを要求していくことはまっとうだろうか。

不快だと言われればすぐさま要求に応じる社会が、まっとうに機能しているといえるだろうか。

不快になることはしかたない。人間だから。
しかし、不快感のままに行動することは自立しているといえるだろうか。

人も社会も、不快感の奴隷になってはいけない。

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