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【雑記】「未来のミライ」が傑作である理由

 「未来のミライ」は細田守の最高傑作である(異論は認める)。


 今日は「未来のミライ」がテレビで放送されるので、細田守という監督について感じていること、「未来のミライ」がなぜ傑作であるのかを書いておこうと思う。

 細田守作品を観て感じるのは細田守監督は血のつながった家族に強いこだわりがあるのではないか、ということと女の子に興味がないのではないかということだ
 「未来のミライ」は細田守作品に通底するこのふたつの特徴が特に強調されているうえでうまく機能している。さらに時空を越える体験が「家」という小さな空間の中で完結するという点が「サマーウォーズ」を想起させるのも面白い。

女の子に興味がない

 細田守作品のキャラクターデザインは貞本義行が手掛けている。にもかかわらず、細田守作品に登場する女の子は驚くほど魅力がない。
 おそらく細田守はアニメキャラクターとしての女の子を描くということに興味がないのではないか。アニメキャラクターらしく女の子を動かそうとしないので、アニメ作品として観るとキャラクターの存在感が希薄になってしまうのではないだろうか。

 アニメキャラクターとして描くことに興味がないので、女の子に力を入れて描こうとすると「おおかみこどもの雨と雪」のようなリアル寄りの女性像になり、「エヴァンゲリオン」の貞本義行のキャラクターが動くのに、アニメーション作品としては異質は雰囲気が出てしまう。

「バケモノの子」の失敗感

 「バケモノの子」は細田守の特徴がかみ合っていなかったのではないか。

 前半の少年が異界で他人と疑似的な親子関係を結び、ともに成長していくというストーリーは非常によくできていて、コミカルでテンポも良く感動的だ。だが、後半はテンポが落ちてストーリーのドライブ感が急激に低下する。

 後半では異界から少年が帰る動機を与える役として「女の子」と「父親」が登場するわけだが、これがうまくいっていないように思う。「女の子」はとにかく特徴がない。アニメキャラクターでよくあるボーイミーツガール的な、少年を救い上げる異性として描かれるには魅力がないし、母親的なポジションにもなっていない。さらに実の父親の登場で、前半で築いた血のつながりのない他人との親子関係が、血縁関係を乗り越えられなかった印象を与える。

 「バケモノの子」は、少年を現実へと引き戻すには「女の子」は力が弱く、「父親」はストーリーでバッティングを起こしていたように思う。細田守監督の特徴である「女の子に興味がない」と「家族主義(血縁主義)」がマイナスに働いている。結果として、「女の子」も「父親」も少年を現実へ戻す動機には弱く、「戻る必要がないのでは?」というモヤモヤが失敗感として残った作品となった。

それ故に「未来のミライ」は傑作である

 そんな「バケモノの子」を経て出来たのが「未来のミライ」である。

 細田守監督の家族観は、多様な家族観が描かれることが多い昨今では逆に珍しいもので、保守的ともとれる。さらにアニメキャラクター然としたヒロインを描くことに興味がないので、女の子が魅力的に描かれない。これは男性のアニメ監督としては異質な印象を受ける。

 だが、このふたつの特徴がいかんなく発揮されているのが「未来のミライ」である。「未来のミライ」では、家族(血縁)に焦点を絞り、女の子の配置は必要最低限にとどめ、さらに家という限定された場所が時空を超える冒険とつながる。
 この映画を観たときに「これが細田守の世界観なのか!」という納得がいった。すべての特徴がカッチリとかみ合っている。
 故に「未来のミライ」は傑作なのである(異論は認める)。

「ああ、細田守監督はこういう物語が好きなんだな」

「細田守監督はこれがやりたかったんだな」

 と思ってしまう。
 それが「未来のミライ」である。

 故に最高傑作であるといえる(異論は認める)。

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