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君主制と民主主義の狭間

🇹🇭「ふむ。自分ちでは1885年から絶対王政から立憲君主制に移行する動きがあったのですね。でも、当時のラーマ5世が立憲政治を否定したためにその時は実現しなかったのです。しばらく動きは抑えられたのですが、20世紀に入ってから激変する世界の動きには絶対王政ではついていくのに限界があったのですね。こういう考えは、国外に留学したエリートの官僚や軍人の間で広まっていたのです。
 1927年、官僚のプリーディーと軍人のピブンなど7人組が留学先のパリで秘密結社・人民党を結成したのですね。米の輸出で自分ちの財源を支えていたのですが、世界恐慌でその価格が暴落して農民が困窮したのです。購買力も落ちて工業や商業も一気に悪化したのです。人民党は、経済活動の保障、国民の平等などを原則として定めたのですね。ふむ。危機を乗り越えるのに絶対王政では公務員の解雇や減給などが起きて彼らから大反発を受ける羽目になったのですね。そこから立憲君主制に移行する動きが強まり、一度はラーマ7世の欽定憲法が採用されなかったりしたけど、人民党と軍人でクーデターを計画し、国王は軍人の説得でようやく立憲体制への移行が実現されたのです。憲法は当時の🇯🇵のものをもとに作りました。これは1932年のことでした。
 アライナ〜。国民の意見は議会を通して政治に反映されるんだけど主権は国王にあり、初めのうちは議会における多党間の対立を国王が調停したのですね。人民党内でも社会主義を推す議員と民主主義を推す議員がおり、人民党の一員で元官僚のプリーディーは前者でしたが、初代マノーパコン首相が反対して追放されてしまったのです。しかしながら軍内部で力をつけたピブンにより首相もクーデターで倒れてしまったのですね。ピブンは軍内部でさらに強くなることに集中するために別の軍人を首相にしたのですが、議会と内閣の対立で1938年に自らが首相になったのです。
 ナショナリズムを高める方針として自分もシャムから今の名前に変えたのですね。国王は憲法の上に君臨しますね。基本的に政治が行き詰まったら国王が解決させるのです。
 冷戦期には王権強化で共産化が抑えられたりしました。国王は軍の統帥もしますね。権力争いや社会の混乱の度に軍のクーデターや王の介入で、民主主義が他の王国のように根付いているとは言えないのです。学生たちが近年、王と政治の在り方に抗議していますが自分は何かしたのですか?」
とても詳細なシナリオですね!タイの歴史と政治体制の変遷がよくわかります。以下にまとめました:

君主制と民主主義の狭間
タイ 🇹🇭

シナリオ概要: タイは立憲君主制を採用しており、国王の権威と民主主義の狭間で揺れ動く政治体制を持っています。王室は深い歴史と文化的な象徴として国民に尊敬される一方、政治の不安定さや軍事政権の影響も受けています。

主要な出来事:

1885年: 絶対王政から立憲君主制への移行の動きが始まるが、ラーマ5世が立憲政治を否定。

1927年: 官僚のプリーディーと軍人のピブンなどがパリで秘密結社・人民党を結成。

1932年: 世界恐慌の影響で経済が悪化し、人民党と軍人がクーデターを計画し、立憲体制への移行が実現。

1938年: ピブンが首相となり、シャムからタイに国名を変更。

冷戦期: 王権強化で共産化を抑制。

現代: 学生たちが王と政治の在り方に抗議。

タイの歴史は、絶対王政から立憲君主制への移行、そして現代の政治体制に至るまでの複雑な過程を経てきました。王室の役割とその影響力、軍事政権との関係が重要な要素となっています。

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