見出し画像

よりよく生きる その2

海外出向を終え、出向元の工場に戻り勤務していた私は、相変わらず何となくの生きづらさを感じつつも、そこから数年は取り立てて自分を変えるためのアクションを取ることもなく、無為に過ごしていました。

その当時、なぜ生きづらさを感じていたのかは、今になって振り返るとよくわかります。

ストレングス・ファインダーの資質で「責任感」を上位に持つ私は、自分なりの“こうあるべき”との正しさを持っていました。

その正しさの一つは、ストレングス・ファインダーの資質「調和性」から来るものです。

何事も、合意を取りながら物事を進めることを大切にしている私は、相手への配慮から、ときに“譲る”ということを厭いません。

人は誰でも自分が大切にしていることをほかの人にも大切にして欲しいと思うものです。

「こうして欲しい」ならばまだ良い方で、私の場合は「こうするべき」と、無意識に強く求めていたのです。

すなわち、周囲の人たちに対しても全体として合意を得るためには多少は“譲るべきだ”と思っていたし、そういう“配慮をすべきだ”と当たり前に思っていました。

一方で、これもまた「調和性」から来る特性、すなわち誰とも対立したくないという無意識の思いから、たとえ相手の言動が自分にとって配慮に欠けたものだと思っていたとしても、それを直接伝えることは滅多にありませんでした。

すると何が起こるかと言えば、「配慮すべきだ」と思いつつも、それを相手には伝えていないので、相変わらず私から見たら相手は配慮しない人で有り続けます。

配慮しない(あくまで自分から見て)相手にイラつきを覚える私は、“配慮されない”ことが繰り返されることで、どんどんフラストレーションが溜まっていきます。

「自分は配慮しているのに…」という思いがあるだけに、余計に憤りを覚えていました。

そして、どんどん溜まっていくフラストレーションが限界点を超えたとき、私の怒りが“爆発”するのです。

普段何も言わず、大人しくしているくせに、時折そうやって“キレる”私は、後に知人からこんなことを言われたことがあります。

「あなたの地雷はどこに埋まっているかわからない」

その当時は、自分にすらわかっていませんでした。

自分に原因があることすら、わかっていませんでした。

自分にとって配慮の足りない言動をとる人たちに対し、「察しろよ!わかるだろ!」と内心相手を責めてさえいました。

今思えば、自分だけの正しさに当てはめて誰かを責め、常にイライラを抱えていたことが生きづらさにつながっていたのだと思います。

そして、その大元の原因は、自分が自分自身を受け入れていないことだということに気づくのは、さらに何年も、何年も後のことです。



いいなと思ったら応援しよう!

ちしき
いただいたサポートは、「学習欲」を満たすことに使い、「最上志向」でより良いアウトプットにつなげます!