よりよく生きる その10
時期は遡り、日本コーチ協会・熊本支部の活動に参加した初期の頃の話しです。
コーチングの普及活動をしているのに、自分自身がコーチングの勉強をしていないのもおかしな話しだなと思った(私がそう思っただけで、おかしな話しでもなんでもない)のと、その当時相変わらず部下の指導育成で悩みを抱えていた私は、本格的にコーチングの学びをスタートすることにしました。
選んだのは、今のコーチ・エイ(その当時はコーチ21)のCTP(Coach Training Program)というプログラムでした。
今のようにZoom等のWeb会議システムではなかったものの、ブリッジという電話会議システムを使ったオンラインのプログラムとなっていたので、地方在住の私にとってはありがたいものでした。
金額としては、一会社員の私としては結構な負担ではありました。
ひょっとしたら会社に何らかの形で還元することを条件に会社からお金を出してもらうことも可能だったかもしれませんが、私にはその気はまったくありませんでした。
何というか性格上、そういう縛りを受けるのが嫌なんですよね。
会社に借りを作る後ろめたさみたいなのもあるし。
ま、基本的にあまのじゃく的なところが大いにありますね。
閑話休題。
コーチングの学び始めの頃の話しで、未だに心に引っ掛かりが残っているエピソードがあります。
その当時、特にコースの最初の方は超ベテランのコーチの皆さまが講師を担当されていました。
ある講義が終了した後の一人ひとりの感想シェアの場で、私はこういう発言をしました。
「なかなかこういう風に持っていきたいと思っても、出来ないものですね」
それに対して講師の方の返しは、
「コーチングはコーチがこういう風に持っていきたいってやるもんじゃないんだよね」
というものでした。
たしかにその通りなのだけれど、私の発言の意図は別にあったのです。
本当に言いたかったのは、「質問一つとってもきちんと意図をもってやらないといけないけど、なかなかその通りにはならない」ということ。
言い方を間違えた私の方が明らかに悪いのですが、コースの初期でこんな風にいきなり否定されたのが私にとってはかなりショックでした。
だから、未だによく覚えているのです。
このエピソードからの私なりの教訓は二つあります。
一つは、自分の思考のクセについて。
なんでこのエピソードを未だに覚えている、言い換えると引きずっているのかと言えば、自分が意図していないことをそのように意図していたかのように捉えられたことが本当に嫌だったからです。
私の場合は、常に正しくあることを大切にしています。
この場面で言えば、コーチングに向き合う上で大切な心構えを理解した上でその通りに振る舞うことです。
でも、コーチの言葉は、自分の意図していないことを意図していたかのように決めつけていて、かつそれを通して自分を否定されたように自分には感じられました。
繰り返しますが、悪いのはそう思わせてしまった自分の言い方、表現にあります。
それでも、たったその一言で自分を全否定されたかのように感じてしまった私は、それ以降そのコーチからは心が離れてしまいました。
それくらい、その当時の自分は正しさに縛られていたし、自分の正しさを否定されることに過度な恐れを抱いていたのです。
実は、これと同じような経験がもう一つあって、そこから自分の“正しくあるべき”を緩めていった方がいいんだなと思うようになり、その方向に時間を掛けて向かう訳ですが、そのエピソードは次の機会で書きたいと思います。
このエピソードからの教訓のもう一つは、相手の意図を決めつけないということです。
もし、今回のエピソードにおいて「その発言の意図は何ですか?」と訊かれたら、それなりに説明できたと思います。
その当時は今以上に言語化する能力が低く、表現力もプアだったので誤解を招くような表現になってしまっていたけれど、真意を確認してもらえていればまた違った展開になっていたはずです。
今回のことで当時のコーチの方を責めるものではありませんが、自分自身としてはコーチとして相手の言葉をそのまま鵜呑みにして決めつけてはいけないと自戒しました。
自戒と書いたのは、自分が何かと決めつけやすい人間だとの自覚があるからです。
決めつけるというか、自分と違う考え方に触れたときに即座に“それは違う”と反応してしまうクセがあるからです。
だからこそ、コーチとして相手の発言の意図を勝手に決めつけることなく、丁寧に確認していくことを今は意識しています。