
繋いでいくもの
あまり忙しさを言い訳にするのは好きではないけれど、ゆっくりと”ことば”と向き合う時間が取れず、なかなかnoteの更新をすることができない日々が続いている。それに反比例するように、たくさんの刺激にみちた日々を送っていることも事実なので、なんとも嬉しい悲鳴である。”写真があってよかった”ということを頻繁に書いているけれど、最近も変わらずそんな出逢いや再開が多く、その気持ちはふつふつと大きくなっている。
もはや写真がなくては出会わないひとたちが多すぎるのだ。改めて、この奇跡の日々を少しづつでも綴っていけたらしあわせだ。期限がないものにはあまり焦ることなく思い出を少しばかり熟成させてからゆっくりと書いていこう。
春が”出会いと別れの季節”なのだとするなら3月は別れの割合が多いんだろうな、なんて思ったりもする。単純に卒業シーズンというのはあるけれど、新年度(良くも悪くもすごく日本的)から新しいことをしたり、新たな旅立ちというのは多かれ少なかれ失うものはあると思う。すべてが今生の別れではなくとも、本人にとっては断腸の思いだったり、大切なものの尺度はみんな違うからこそ、そこに寄り添ってあげられるような人間になりたいものだ。
そんな卒業シーズンに僕にはどうしても撮りたい”ふたり”がいた。
僕のちいさな夢。卒業写真を撮ってあげること。いまは遠く離れた京都から、なにかしてあげることは出来なくても、こうやって写真を残すことでいつの日か『撮っておいてよかったね』なんて笑いあえる日が来たらいいなと思う。言葉ではなく、カタチで残す。なにかを感じてくれたら嬉しい。
先日の東京滞在中、東京マラソンに友人が出場している関係で、応援しに行く機会を作ることが出来た。マラソンと無縁で生きてきた僕にはすべてが新しかった。走るために集まるひと。その応援に来るひと。東京のちいさなスペースにこれでもかと集まるその熱量は寒さも忘れるほどだった。これほどまでに沢山のひとが同じ目標を目指す。「ひとの持つチカラってすごいな」とスタート前から感動しっぱなしだった。
そして、なにより印象に残っているのが、応援の合間に偶然そこで見たボランティアの方たちの笑顔だ。雨と寒さのなか選手を励まし、懸命に応援する姿に胸を打たれた。僕はこの体験がなければ「すごく大きなスポーツの大会」程度の認識で終わっていたはずなのだけれど、写真家としての心の感度がそうさせなかった。僕は居ても立ってもいられず、声をかけ写真に残させていただいた。みんないい表情で僕の心も救われた。
また来年も撮れれば、と心から思う。
考えたり、感じたりすることが極端に減ってきたように思う現代。本物の体験や交流をしなくても、いまやSNSでなんでも体験したかのように思ったり、みんなと繋がっているといくらでも勘違いできる。
「会いたいひとに会おう」
明日が当たり前のようにやってくる保証なんてどこにもない。だからこそ、僕はここ笠置から遠い東京へ何度も何度も足を運ぶ。それは僕が笠置に住んだことで気付けた大切なことだ。東京に住み続けたらきっと「またそのうち会いたいひと」が増えていっただろう。
人生は長いようで短いーー自分で選択して何かを出来る時間はあと何年あるんだろう。そう考えると、いま会いたいひとに会える時間なんて、きっとほんの僅かだ。会いに来るのを待つのではなく、会いに行く。なにに繋がるかなんてわからない。けれど、僕は日々の喜びや、一歩踏み出す勇気をそのたびにもらっている。そして、写真家としてまた頑張ろうと思える。
”いま”はそれで十分だ。
写真が繋ぐものーーそれは未来の笑顔や大切な時間。
誰かのために撮る写真は、いつか誰かの貴重な体験を生む。いまよりも”ひとがひとを大切に思えるようになったら”きっともっと僕たちが住むセカイはいい方向に向くはず。
僕らは時代の傍観者などではなく、時代の当事者だ。
次の世代へ”大切なもの”を繋いでいきたい。
シバタタツヤ
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