“経営の身体性“が育む“経営の感覚とか勘“についてのおはなし
先日、うちの近所の4人姉弟のおうちにお裾分けを届けに行ったとき、2階の窓から覗く4つのかわいい子どもたちの顔を見て、「子ども4人が家にいるってのはなかなか迫力があるなぁ。」と思ったわけですが、おっとそれは我が家も同じだということに気付いたわけで、そして4人の当然人格を持った子どもたちがいることは、その彼らから学んだり気付きを得ることも多いってことで、4人の子そだてをしているってのも割とおもしろくって、良い経験だなって思っているわけです。
そんな中でも、うちの唯一の男子、小学6年になった長男の男子っぷりが最近おもしろくって、学期末の度に自家中毒を発動させていたボクとは明らかにタイプの違う様を楽しんでみたりしています。
そんな彼とは映画や漫画や音楽の話をすることが多くって、ボクが絶対選ばないようなジャンルの作品を勧めてくれたりするわけです。「この曲めっちゃいいんやけど聴いてみてよ!」なんて言われたりすると、親としては嬉しくって、ボクが普段聴かないようなEDMとかだったりしても、彼との音楽体験を共有するということの方が喜びで、「おーいいね!いいね!」なんて言いながら一緒に聴いたりしています。
アルバム単位ではなく楽曲一曲単位で良い作品を掘るという彼ら世代ならではの聴き方で、EDMだけじゃなくいろんなジャンルの音楽を聴いているみたい。ボクが小学生高学年の頃は、街のレコードショップでカセットテープかCDを買うか、当時ようやく家の近くにできたレンタルCDショップで良い音楽に出会うために必死だった、なんてことを思い出したりしながら。
いまや音楽を聴く手段はストリーミングが全盛。サーチとリコメンドをベースに自分の興味をどんどん拡げていく、ボクたちがラジオや友達のおすすめを手がかりにCDやカセットテープを手に取って、半ば賭け事のように少ないお小遣いを叩いていた頃とは、恐らく感覚は違うはずです。
ボクもストリーミングサービスを使って音楽を聴くことが多くなりました。とても便利ですよね。サーチとリコメンドによって無限に拡がっているように感じる世界、クラウドの利点とサブスクの恩恵、自分のデバイスの保存残容量を気にせずポイポイお気に入りに放り込めば、まるで“自分の音楽体験 ≒ クラウド上のお気に入り“かなって、そんな錯覚にすら陥る。
でもボクは「あ。これはほんとうに好きだな。自分の中に留めておきたいな。」というような音楽に出会ったとき、いまだにCDやカセットテープやアナログレコードを買います。ストリーミングのプレイリストにも、もちろん入れてあるんだけど、敢えて物理的なモノを買うという行為。
それってボクの中では”自分が気に入ったコトを能動的に自分のモノにする”という感覚で、自分自身に“ボクはこれが好きだ”と言い聞かせる行為でもある。モノを手に入れているというよりは”自分の好き”を“自分の中“に取り込む感じ。
もしかするとこれらは単なるボクたち世代の郷愁であって、息子たち世代からするとストリーミングサービスで音楽を聴いていたとしても、自分自身に“ボクはこれが好きだ“を取り込む感覚、すなわち”身体性“を感じているのかもしれない。何を以て”身体性”を感じるかは、世代や環境や出自などいろんな要素で変わってくるかもしれないけれど、“身体性”という感覚はボクたちみんなそれぞれに確実に宿っていると思うのです。
はい。
ボクが今日話したいのは、“身体性“の話、”経営の身体性”の話です。
ボクは以前の記事でこんなことを書いていました。
ボクはこの4月までの2年間、東京の会社と京都の会社を毎週のように行き来し、働く場所を遍在させ、インターネットとITテクノロジーを使って、リソースを拡張することで、膨大なタスクと向き合ってきました。
どんどん増えるメッセージグループ、Slackのワークスペースやメールアカウントを切り替え続け、ディレクトリの構成は複雑になり、スタッフにリマインドに次ぐリマインドを受けながら、Googleカレンダーがデフラグツールのようにカラフルに細切れに、そこに生活・子育てが重なっていく。そんな2年間でした
「暮らし」に「働くこと」が食い込み、「働くこと」に「暮らし」が食い込む。京都の会社、東京の会社、新幹線の移動の時間、自宅のリビング、書斎、ホテル、カフェなどがオフィスとなり、まさに「働く場所の遍在化」を体現する日々でした。働く場所が遍在化したとき、カテゴリーを越えたタスクによって働く時間は細分化し、そして「暮らし」と「働くこと」のそれぞれが溶け始め、液状化していく。それはもはやボクにとっては当たり前のことになっていました。
この経験はボクの働き方に大きな影響を与えたのはもちろんのこと、経営することにも大きな影響を与えました。それは”経営の身体性”という言葉に集約されます。
ボクがこの時期においかぜという一つの会社を経営する上で感じていたことは、今まで素肌で触っていた会社のあらゆることが、何か分厚い革製の手袋で触っているような、はたまたもっと感覚がない、コマンドで操作する機械で触っているような感覚になっていました。今まで自分の身体の内部にすらあったヒト・モノ・コトたちが、自分の身体の外側にある、そしてそれが少しずつ遠くに離れて行ってしまうような気持ちになっていたのです。
“働く場所の遍在化“と“働く時間の細分化“、つまりインターネットとITテクノロジーによるリソースの拡張が、結果として何かを損ねてしまっている、そんな違和感を生んでいたのです。
それは“会社のみんなに今までみたいに会えなくて寂しい“というような感傷や感情ではなくって、かつて内蔵のハードウェアで適切な速度で行われていた処理が、ネゴシエーションの合わない外部装置を使ったストレスの溜まる処理をしている、そんな感じでした。会社の中の自分が薄まっていっているとも言うべきか。
その2年間の”身体性”の喪失による大きな致命的なトラブルはなかったけれど、その喪失に気付かず、考え方や動き方をずっと変えずにいたならば、もしかしたら取り返しのつかないことになっていたかもしれないと思うのです。いま振り返ってみると。
その渦中、ボクは株式会社おいかぜでの”経営の身体性”が弱まっていると感じていて、それをなんとかしなければならないと思っていました。
経営に勘とか感覚という言葉は無いと思っています。経営に限らず、勘とか感覚というのはその人が意識せずとも、身体的に染み付いたロジックに基づいた論理的思考と判断のことだと思っています。
つまり経営の勘とか感覚と呼ばれるものは”経営の身体性”に起因し、それが失われたとき経営での判断を誤る、そうなるはずです。
では”経営の身体性”を高め、そして維持し続けることができるのでしょうか。
それは”その場所にいる・向き合い続ける”ことです。その状態は会社の規模やフェーズによって変わってくるとは思いますが、そのときのおいかぜにとってはボクが”事務所に身を置く・スタッフと同じ空間にいる”ことでした。
インターネットとITテクノロジーの進化はまだ身体性を補完できていません。少なくともボクのレベルでは享受できない程度にしか進化していません。まだ”その場所にいる”ことを本当の意味で代替できる技術は存在しません。
ボクは2020年4月以降、ほぼ京都にいます。そして相変わらずバタバタしてはいるけれど、週の半分以上は事務所にいて、会社のみんなと同じ空間を共にしています。
“その場所にいる”から”同じ空間を共にする”から万事オッケーではないけれど、少なくともボクは会社のことを身体の内部に抱えているかのように“考えて・決めて・行動する“ことができていると思っています。
ボクはおいかぜという会社の“身体性“の拡張をするとき、少しずつしかできない、自分がわかることやできることでしかできない。歩みはゆっくりかもしれないけれど、それがボクが目指す”強い会社“、そして”だれかのおいかぜになる”ということは、きちんと2本足でしっかり立つことのできる、自身の自立が起点にならなければならないと感じています。