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メモを取るという行為から考える"身体性について"のおはなし

この週末少し体調を崩してしまいました。寝込んでいたわけではないんだけれど、喉の調子が良くなくて、あまりうまく寝付けなかったりして、家事の面でも仕事の面でも平日のリカバリーとして使っている週末にうまく動けないと、週明けのリズムが狂います。

これからどんどん寒くなっていって、体調を崩しやすくなるのに、まだ冬が始まったか始まっていないかのこの時期に、こんな調子じゃダメだなぁと思うわけです。レッツ!リカバリー!

つまりは。月曜日にこのnoteをアップできなかったことの言い訳です。とはいえもう週始めにこのnoteをアップできないことが気持ち悪くって、いまこうやって書いているわけです。

週始めにこのnoteをアップすると、いつもnoteが褒めてくれます。”34週連続アップですね!”とか言って。画面にポップアップするだけなんだけど、なんだかうれしい気持ちになる。そしてボクのこのnoteに書くという行為はボクの身体の一部になりつつあるということも同時に感じます。書くという行為が身体性を帯び始めている、そういう感じでしょうか。

さて。

今日この記事に書きたいこと、それはボクが5年以上悩み続けていることです。

ボクは社会人になってからQUOVADISのEXECTIVEという手帳をずっと使っていました。たぶん5年前くらいまで。見開きが1週間になるスケジューラーでページの端っこにミシン目がついていて、それを切ることが毎週の区切りなって心地よい、そんな手帳です。時間軸にまつわることはその手帳に書き留めて、アイデアやお客さんとのメモは別のノートを持って、その2つをバンドで留めて、いつも持ち歩いていました。

ボクはその手帳とノートがあれば大丈夫、逆に言うとその2つが無くなると困ってしまう、そんな2冊でした。

おいかぜではその頃には既にGoogleカレンダーでスケジュール共有をしていました。仮にもボクは社長で、なんだかんだでおいかぜの中でも一番スケジュールの共有が必要な立場です。個人的にはスケジュール帳を、みんなに共有する用にGoogleカレンダー、と使い分けていたのですが非合理的で転記漏れなんかも出てきたりで、Googleカレンダーに一本化することになります。

Googleカレンダーはとても便利です。デバイスを限定しないし、いつでも・どこでも自分の・みんなのスケジュールが確認・更新ができる。今や無くてはならないツールのうちの一つです。

スケジューラーがデジタルに移行したことをきっかけに”メモを取る”という行為だけが”アナログに取り残される”ということになってしまいました。ボクは”メモを取る”ことをデジタルに移行できれば、全部デジタルツールになってデジタルとアナログを行ったり来たりしなくていい、荷物も少なくなる、いろいろ楽になるなぁと”メモを取る”ことの試行錯誤をはじめます。

iPadとApple pencilを使ったり、メモ帳のアプリを使ってみたり、他にもいろいろなアプリを使ってみたりもしました。

その結果、今現在ボクの”メモを取る”はこんな感じ。

・ブログのような文章のために書く → メモ帳アプリに書く
・資料の構成を考えるために書く → ノートと鉛筆 or iPadとpencilを使って書く
・買い物に行く時のリストのようなものを書く → メモ帳アプリに書く
・単語レベルのアイデアの断片を忘れないために書く → メモ帳アプリに書く
・思考を整理するために書く → ノートと鉛筆 or iPadとpencilを使って書く

「なるほど上手に使い分けているんですね!」ってお褒めいただくところは何もなくって、いまのこの現状にまったく納得がいっていないんですよね。しっくりきていない。むしろスケジュール帳とメモ帳をバンドで留めていた時代に戻りたい気持ちだったりします。この1年くらいこのモヤモヤについてずっと考えていました。なんでこんなにしっくりこないんだろうかと。

たぶんボクの”メモを取る”という行為の身体性はデジタルデバイスに適応できないんだと思います。じゃあ本当にスケジュール帳とメモ帳をバンドで留めていた時代に戻りたい戻れるのかというとそういうことでもない。

「何をごちゃごちゃ言ってんだ、デジタル・アナログのどちらも使えば良いし、場面に応じて使い分ければ良いんだよ!」ということになるんだと思いますが、なんだかこの結論にしっくりこないので、ボクのメモをとるということを更に因数分解してみようと思います。

ボクがメモを取るとき、はっきりしていることは"メモ帳アプリに書く"行為に迷いはなさそうであるということです。これはとてもわかりやすくて、テキスト情報を上から下に書いていけば事足りる、ある程度のかたまりを入れ替えたり、追記や削除なんかもやりやすい。メモ帳アプリについては、きちんとデジタルに移行できている気がします。

ボクの迷いは”プレゼン資料の構成を考えるために書く””自分の思考を整理するために書く”の2つの行為にあるようです。そしてこの2つの行為を更に解像度を上げると"構成を考える"”思考を整理する”ということになり、ぼんやりとして定まっていないことを明確にする、何かしら散らかっている状態を片付けることのように思いました。

ボクは今この2つの行為を一所懸命デジタルツール、iPadとApple pencilを使ってやっています。しばらく続けていれば慣れるだろうと思っていたのですが、ぜんぜん慣れない。書く・描くということがうまく自分の脳にフィードバックしてこない、そして自分の書いた・描いたモノを見返すタイミングが生まれないのです。紙の上に鉛筆で書く・描くということが、ページ順に繰り広げられる自分の思考の積層が、こんなにも身体に強く結びついていたということに気付かされたのです。たぶん今日からiPadとApple pencilの使い方を変えます。そしてアナログのノートに回帰しようと思っています。

いま考えるとたぶんボクは”アナログ→デジタル”という方向性に変化していくことが、自分にとってより良くなっていくことだと錯覚していたのかもしれない。

ボクは新しいものが好きだし、新しい技術がボクたちの暮らしや学びや仕事にイノベーションを起こしていくことを期待しています。

でもボクたちは”何のために使う道具か?”ということを問い直し続ける必要があって、それはデジタルやアナログというカテゴリーに縛られるところにはいないということです。つまり身体性というのは人が100人いれば100通りあるということです。その身体性に合わせて最適なツールを選ぶ必要があります。ボクがいつも自分の子どもたちを見て感じる”彼らには自分とは違う身体性が備わっている”ということ、つまり人によっても違うし、時代性も反映されるということです。

なにをいまさら!

そのカテゴリーを取り払いたくてボクはおいかぜで”こどものためのでざいんぷろじぇくと ワワワ”をはじめたはずなのになんたる不覚……

こんな当たり前のことを書いていることを少し恥ずかしいと思いながら、でもたぶんボクはいろんな世の中の物事を一方向で不可逆だと思い込んでしまうだろうから、ここに自戒を込めて書き残しておこうと思います。

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