【開運失敗n部作】開運印鑑などこの世に存在しない。所詮「ハンコ」だよ
こんにちは。姫月です。
この記事はコーヒーウェアです。多分(笑)。
読んで刺さったら投げ銭歓迎ですし、gifteeでコーヒー奢って下さるのも歓迎です。コーヒー飲んでいないと、手が震えることもあるくらい故、結構アレです。
開運印鑑との出会い。それはバイト先の占い館
開運印鑑。
IT全盛なこのご時世でめっきり聞かなくなったアレですが、日本国の公的証明のシステムの中に「印鑑証明」というのがあったり、銀行との取引でサインは(外国人を除き)NGかつ印鑑必須……である以上、まだ完全に廃れたとは言い切れない文化です。個人的にはこんな「偽造し放題のふざけたシステムってどうなのよ」って思いますけど。
それにしても、姫月と開運印鑑との出会いはマジで最悪でした。
大学時代、渋谷の占い館でタロット占い師兼受付としてバイトしていたときのことなんですよ(関係ないが、あの占い館でのバイト経験こそ、出会った占い師の技量と信頼のほどをほぼ瞬時に判断できるようになる礎を築いたものだと思っている。なお、この的中率は8割強)。
お客さんの女子高生を占って一段落ついたとき、突然聞こえてくる
「じゃ、こちらになります」
という、隣のブースにいるおばちゃん占い師の声。
そしてカーテン越しに見えてしまった恐ろしい光景……
開運印鑑 金四拾万円也
象牙には到底見えない3本セットの印鑑を(上記文言が書かれた)表彰状みたいな紙と共にうら若きOLらしき人に引き渡し、彼女が茶封筒でカネを払っているまさにその瞬間だった。
(ヤベェやつだ)
占い館でのキャッシャーを通した正規のやりとりではない。言わばヤミ営業だ。しかも、20分3000円の占い屋で40万の印鑑という「有り得ない価格帯」。これはヤバイ。
店長に言った方が良いかもと思ったが、話を聞くと、そのおばちゃん占い師は何と、占い館の出資元の親会社が送り込んできた人だという。
……いや、もう私に残された選択肢は一つだけでした。
自分の正義と仕事場の信条が真っ向から反する以上、「辞める」。この強制一択ですわ。
「印鑑」ビジネスの歴史を知れば、アホらしさがわかる
そもそも、「開運印鑑」は江戸時代の昔から……あるわけないじゃないですか! だいたい、日本人が大好きなあの九星気学は、中国で3000年以上……ではなくて、日本で園田真次郎という人が1924年に編纂して世に出した、言うなれば2024年ピッタで100歳の占いですよ? それが九星気学。
それを「江戸時代の昔から」とかバカ言っちゃいけません。
これだけで開運印鑑なんてのがまやかしであることは中学生くらいの知能があればわかります。
ついでに言いますが、印鑑ビジネスの起源(山梨県六郷町で始まったの)は1861年頃。その頃は水晶印(象牙でも柘植でもない!)。これまた黒船来航幕末前夜。さらに、山梨の六郷町界隈がハンコの町として地場産業化したのは、もともとの産業だった地下足袋が売れなくなった背景があったので。1925年前後だったっけ?
もうちょっと言うと、水晶印鑑から象牙やオランダ、柘植などの素材がメインストリームに躍り出たのは日本が戦争に負け、植民地となった(え?)1945年以降。
……というわけで。
この時点で「開運印鑑の歴史」なんて、ちょっと何を言っているのかワカラナイ。
山梨県のハンコ屋も高齢化で少しずつ減っていくと思われる中ではありますが……「ハンコの町」なのはまったく問題ないし、良いと思う。でもね、歴史改竄したセールストークはイケてないよってことで。
ハンコの印相の全体バランスが良い(シンメトリーである)こと。これは間違いなく美しさとか考えれば一番良い。絶対的なジャスティスだと思う。ただ、それを言えばいいだけじゃないですか。なのに、「仕事運をよくするなら」とかそういう言い方って、本末転倒でしょ?
当たり前のことだが、材質だって条件を守れば何でもいい
当然だけど、開運印相もなければ、良く言われる「生まれ年からみる印材との相性」なんてのも存在しません。
2000年生まれだったら象牙が柘植、とかどういう根拠だよ? と言います。九紫火星で「象牙と柘植」がよくて「水牛」がダメな根拠って何? 「【火】星」に「【水】牛」だから? くらいコントです。そんな話をするのなら、
「六白や七赤は『【金】星』なんだから、チタンとかステンでないとおかしいだろ? 動物や植物からできたハンコは全部ダメって言わないと矛盾が……」
って物騒な言い方が飛び出そうです。
普通に考えれば「欠け」たり「割れ」たり「滅失」しにくい材質であれば、あとは「ご予算や、ご自身の材料に対する信念に応じて」で良いんじゃないですかね。
ここから先はオマケ。軽い気持ちで。
長いオマケ。ハンコで悩まないように、体験談を
人生で自分がハンコを初めて持ったのは、高校の卒業式でもらったプラスチックの文房具屋で売ってそうなしょぼい三文判。自分にとって「高校までの歴史は存在しないもの」なので、忌まわしい思い出と共に捨てても良かったが、銀行の口座を開設するときに使ってしまった手前、迂闊に捨てられなくなった(銀行の印象変更手続きは想像を絶する面倒くささだし)。
大学院を出て、一応、褒められないアレでも社会人らしきものになったので、「ハンコをいい加減に作らないと」とも思ったことはあります。
んで、ハンコのホームページ(まだ日本では「Webサイト」より「ホームページ」って言い方の方が多かったですね)を見てたらこんなページを見つけたんですよ。
当時はまだ松崎秀碩氏もご存命。
かくもすごい丁寧な仕事をするのかと感動していたのですが、値段を見てドン引き。いやもうこれは芸術品へのお支払いです。宅急便屋や銀行でポンポン押すようなハンコに払う金額ではない。畏れ多すぎる。not for meってやつだった。
それでめっちゃ迷った。
どうしたものかと。
そして、この悩みを抱えていた20世紀の終わりだか、21世紀初頭だかも実は未だに、先ほど話題に挙げた卒業式でもらったプラのアレを使っておりまして。
当時実家住まいだったこともあり、とうとう母親に相談。
「やっぱ、ハンコって象牙でないとダメとか(そういうレギュレーションみたいなものが)あるの?」
「柘植でいいんじゃないの?」
母親がそう言った瞬間だった。リビングでテレビ見ていた父親がこちらを見ることもなく、言い放つ。
「犬畜生のハンコなんか使うな!」
まさかのセリフですよ。そりゃ辞書できちんと調べると、「犬などのけだもの」という意味ですので。間違っているわけじゃない。それでも令和の今なら「言い方!」と確実に言われるのはさておき。
要するに、「動物の骨からできたハンコなんて使っちゃいけない」と。
確かに、突き詰めるところを詰めれば、「人●の骨(!)でできたハンコでも良いのか?」問題に道を開き兼ねません(ブリュンヒルデさんヤバイこと今言っていますよね?)。
とまぁ、そんなわけで、父親の言葉が滅茶苦茶ジャスティスだったと。
大真面目な話、ハンコ如きのために殺される動物、どうなの? と。食べものだって、動物に感謝しなければなりません。エスキモーだって生きるために動物の毛皮着ています。感謝しているに違いありません。感謝しないとダメな尊い犠牲です。なのに、たかだかハンコですよ? どうなの? と。
答えは当然と言いますか、「ねぇわ」ですよ。
この後、友人から勧められたのは「チタンのハンコで良いんじゃ?」でした。確かに、今や柘植よりチタンの方がコスト的にもリーズナボーですし。※チタンは金属なので手彫りできません。つまりここで発生する金銭は、「彫り賃」ではなく「デザイン料」の要素が大きくなるかと思います。
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