読書感想|宝石の国

『宝石の国/作:市川春子』

完結したので、1〜12巻の再読も兼ねて通しで読んだ。

13巻はとてもゆっくり読んだ。というか、なかなか読み進めることができなかった。特装版の詩集がとてもよくて、ほかの巻も特装版で買えばよかった!と思う。13巻と詩集は特に、後述するアンタークとのやりとりの巻とあわせて、何度も読むことになりそう。

まだ頭の中がじんわりとして、なんて表現したらいいのかわからないのだけど、わからないことはそのままに、考えたことをメモしておく。


宝石と月人、アドミラビリス。
人間をやっていて思うけれど、たぶん、骨には痛みがない。なんだこの表現、という感じなのだけど。物語の彼らが人間だった頃、身体的な痛みを引き受けていたのは肉だ。でも、肉には心がない。結果的に、身体的な痛みによるものも含め、あらゆる苦痛を受け止めてきたのは魂なのかもしれない。

私にはこのお話が、魂から骨や肉への復讐の物語に見えるし、壮大な自傷にも見えたりする。どんなに肉と骨を痛めつけても、魂はもう痛みなんて感じない。けれどそもそも、救われたくなければ痛めつける必要だってない。

ただ、肉や骨だって、宝石とアドミラビリスになったことで心を持った。
倦むほど長い生を持たないことが、肉として痛みを受け止めてきたアドミラビリスへの祝福なら、宝石の無垢さは、痛みを知らず、かつては外の世界を見ることのなかった骨への祝福だろうか。
月人への祝福は、彼らへの復讐の機会を得たことかもしれない。そんなふうに望んだわけではなかったとしても。


ところで、このお話では人間という生き物の業が語られるけれど、人間の魂は最初から歪んでいたんだろうか。

生まれた頃にはきれいに丸かったものが、命という檻、肉体という容れ物に閉じ込められる。肉体は殖えたがって、それぞれに完全な魂を、ほかの魂と関わらせようとする。丸かった魂は削れ、気づけばほかの魂と並んで、社会というきれいな配列になる。
すると、限りある空間の中に、より多くの個体を詰め込むことができる。個体は増える。より多くを詰め込むために、魂の曲面は限界まで削られ、魂は歪み、個体どうしの隙間が減っていく。

月人も、人間として生まれたその瞬間は完全な魂だったのかもしれない。けれど、一度肉体を得て、社会の中で配列し、本来の形をなくしてしまったなら。命に適応したことで、朽ちない肉体に耐えることもできなくなったなら?
肉体は命の乗り物だと、どこかで聞いたことがある。一番恐ろしいのは、殖えることを目的とした命なのかもしれない。

宝石たちもまた、配列した。そしてフォスも、その配列に加わりたがった。ただそこに存在することに耐えられなかった。殖える生き物にこそ適した社会性が残っていたから。


さて。
はじめて読んだ時から、アンタークとフォスのやり取りが胸に刺さっている。できることならがんばるけれど、それではできることしかできないままだと。アンタークのあの言葉は、私にはひどく生存バイアスがかったものに聞こえた。
アンタークは冬でなければ固体ですらいられない反面、冬ならば力を得ることができる。フォスとは違う。

社会生活をしていると、生きづらさを抱える人どうしの間には、致命的なまでの溝があると感じる。お互いに生きづらいがために、わかり合えるつもりになってしまう。フォスとアンタークも、きっとそうだった。だからこそ、アンタークの言葉は劇薬だった。
作中でフォスは絶え間なく変化し続けたけれど、フォスのまま成長するのじゃなく、引き換えに自分自身を失っていった。フォスが力を得るたびに、私はアンタークとのあのやりとりを思い出した。


最後に。この物語の終わり方については、ゲームで言うところのトゥルーエンドという感じがした。
三族が誰を生贄にするでもなく、種族の特性を捨てるでもなく、理解しあい、対等に協力しあうところにたどり着く。大団円に見えるけれど、真の救いにはたどりつけない……みたいな世界線もあったのかもしれない、となんとなく思う。


少し書きすぎてしまったね。ここまで読んでくれてありがとう。
また何か思うことがあったら、追記するかもしれません。それでは。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集