どうか自分を諦めないで。
最近はもっぱら新規相談の打ち合わせと、現在進行形の現場の行き来でほとんど出先にいる。電車の中で就職活動中の学生に会う。喫煙所でも会う。みな、口を揃えて「就職できればどこでもいい。何したいかわかんないし」と話していた。そうだよな〜何したいかわかんないよな!と思いつつ、就職できればどこでもいいとは思ってなかったなと昔のことを思い出す。
仕事って楽しいの?
子供の頃、母親に「仕事って面白いの?」と聞いたことがある。そして、今、自分の息子と娘に同じことを聞かれる。僕は超面白いよ!って答えてる。本当のことだからね。でも、母親との会話を思い出して、色々な仕事のすごさを街の中で、散歩していて、その仕事を目の当たりにした時にいかにすごいかを説明するようになった。
僕の母は昔、うろ覚えだがこう答えた。
「お母さんの仕事は、楽しいというより、やりがいがある。どの仕事にも必ずやりがいがある。それに気付くのは誰かのためになったとき。」
なんかこれをすごい覚えている。どの仕事にも意味があり、その意味は他者との関係性の中で見いだすことができる。ちなみに母親は看護婦さんだった。風邪をひいたりしたら、すぐ働いていた小児科に連行されるので子供ながらに怖かったが(点滴とかね)待合室で待つ間、いろんな子供とお母さんがきて、不安そうな顔をしてるけど、出てくると少し安心して元気になってる。子供ながらに治してるんだ〜すごいなぁと眺めていた。
母はこの仕事を引退して、今医療翻訳を専門としている。一つのやりがいが次のやりがいを見つけたのかもしれない。たまに会ったり、連絡を取り時に楽しそうな声を聞くと「やりたいことやってるなぁ」って、いつも思う。
こういう親の元で育つと、僕は何にでもなれそうだって思って育って来た。結果、それでちゃんと就活しないって結果になったんだけど、やはり大学生の頃には「何したいのかわからない」って時期があった。でも、最近ぽろっと耳に入ってくる学生の声は当時の僕とは結構ちがう「わからない」になっちゃってるんだなって思った。全員が全員そうじゃないけどね。
「わからない」の違い
僕も僕らの世代も、やはりやりたいことがわからなかった。有象無象のわからない若者の中に、数名わかってる人がいて輝いて見えた。自分のやりたいことに出会うのは運としかいいようがない。それと出会うためには、いつもと同じ場所にいてはいけない。そう思って色んな人に会い、見て、聞いて、霧の向こうの世界の輪郭を確かめようともがいていた。それでもわからない。
僕の「わからない」は、結構汗水垂らして這いつくばって探してる感じだった。いくつかの会社の説明かに誘われていって、そもそも会社じゃないんだって思ってしまって就活を辞めた。なんとか自力で生きていくかなって時に友達が見かねて勝手にエントリーしてくれた制作会社に拾われて、今に至る。もう運だ。就職してもやりたいことなんて明確じゃなくて、働く中で母親の言う「やりがい」を見つけ、没頭した。
僕が持っていた「わからない」の中には「何か素敵な宝物のようなやりたい」が必ずあるはずだ!という少し希望を込めた悩みだった。
でも、ここ最近聞いた若者の「わからない」の中に、それを感じなかった。何かが違うなって聞いてて思った。彼ら彼女らが悪いんじゃなくて、そういうまだ出会ってない「やりたい」ことなんて、そもそもないって諦めを感じる言い方だったから。
「わからない」の根元を
何をしたいのかわからないって言葉の軽さは、自分にも社会にも諦めを感じていることが含まれていると思った。
社会は諦めても仕方ないくらい大人のテンションが低いし、言うてしまえば大人のせいだから、本当ごめん!もっとキラキラさせてくわ!というしかない。
ただ、自分自身への諦めだけは絶対だめだと思った。僕は僕を諦めてなかった。何かとてもワクワクするものを見つけて、それを仕事にするんだって信じてた。それがなんなのかわかんなくて悩んでたけど、何か作って人を喜ばせることをしたい。それだけはうっすらわかっていた。
今大人になって思えば、子供から大人になっていくときの荷物は、その輪郭が曖昧だけど少しぽわっと暖かい自分自身を諦めない気持ちだなと思う。35歳になった今でも自分が何をしたいのかわからない。当時のわからない根元を大事に脇に抱えて、今も探している。自分のやりたいことなんて永遠に見つからないのかもしれない。だからこそ、その根っこの感情に正直にものごとを判断してきた。
就職で人生は決まらない
20年前とかだと、就職で人生は決まったかもしれない。
でも、もうそうじゃない。そんな平和な時代は終わった。だから安心してわからない世界に突っ込めばいい。自分の可能性を大事に抱えて。
仕事では良いことも悪いこともいっぱいある。
今までは親が悪いことを届かないように守ってくれていた。良いことも悪いこともある中で仕事をして、がんばって君たちに仕送りと愛情を送ってくれていた。
未来は誰にもわからない。僕にもわからない。でも、唯一おじさんになった僕が学生に言えるのは就職なんかより、大事に運んで来た昔の「わからないの根っこ」だ。そいつがいつも、そろそろあっちじゃないかな?とか、危ない今すぐここから逃げろ!とか、今が耐える時だ!って支えてくれた。
だからこそ、わからないままの自分を信じる気持ちだけは捨てずに、こっちの世界に来て欲しいなと思った。いうてるほど、就職は人生を決めないし、決めるのはいつも自分だし、それでいいんだ!って気付ける。
たくさんの価値観に触れ、たくさんの汚れたものを見て、少しずつ自分にとって正しいことはなんなのかがわかってくる。
大人になっても学び続けるし、鳥肌が立つような嬉しいこともたくさんある。良いことも悪いことも、どちらからも得る学びがあって、未熟だった自分が少しずつたくましくなってくる。すると、あれもできる。これもできる。とできることが増えてくる。自分にできないことを得意とする仲間にも出会う。気が付いたらそれなりに年をとって、なにやりたいかわからないから新しいことやってみようと思える。そうやって動かしてくれたのは自分自身を信じる気持ちだったと就活から10数年経って思う。
みんな、何も持ってない。
以前、大学の先生をしていたころ、生徒に就職相談された。
「自分には何もないから…」就職先がわかならい。見つからない。内定でない。とふさぎ込んでいた。
そうだね。君は何も持ってないね。僕ら大人からすると学生なんて何ももってないよ。君がすごいなと思う同級生も何も持ってない。所詮、学生が限られた時間で得れるものなんて、たかが知れてるよ。何かを持つと言うことはそれだけを鍛錬し続けた人のことだ。営業で10年やってる人が持ってる人だ。先生もアイデアだけ考えて10年以上やってる。これでやっと持ってる人だ。だからこそ、君たちが何ができるかなんて見てないよ。空っぽだから。空っぽからいいんだよ。そこから、たくさんの可能性を集めて、君たちはよくなっていく。大切なのは、君が自分の可能性を集めようとしているかどうか。それだけだと思うよ。
就職活動中の学生はたくさんの劣等感を持っている。
でも、僕が採用で見たのは「何をしてきたか」ではなく、その先の何をしたがってるかだ。欲しいものは自分で取りにいかないといけない。それには必要な力がいる。それを身につける努力をする。それが君たちの可能性になる。未来に視点を合わせるのは簡単で、自分自身を諦めないことの1点だと思う。
どうか自分を諦めないで。僕ら大人はもっと楽しそうな世界を構築します。
Photo by Jens Mahnke from Pexels
いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。