V・E・フランクルの『夜と霧』読書会(2023.7.28)
2023.7.28に行ったV・E・フランクルの『夜と霧』読書会のもようです。
労働の生産性の向上が民族国家の繁栄の手段であるという思想は、結局、強制収容所のようなものを生み出すのである
新版には、旧版に掲載されていた収容所の皮と骨になった囚人の遺体の山や、押収して山のように積まれた囚人の義足やメガネの写真がない。冒頭に各収容所の実態をレポートした裁判記録からなる解説があったのだが、それもなくなっている。その代わり、囚人思いだった収容所所長を、解放後、ユダヤ人の囚人がかばったという話が追加されている。(新版P.143)
フランクルは『夜と霧』が、イスラエル建国の政治的プロパガンダに利用されるのを危惧して、新版では、追記したり、写真を削除したりしたようだ。収容所のセンセーションな内容だけを誇張されて、誤解を生むと思ったらしい。
『夜と霧』には、人間が人間に対してどこまで残酷になれるかということが、描かれている。サディスティックな監視兵をわざと配置して、囚人に服従を強いるというパワハラの見本みたいな話は、現代の組織でもありうる。ナチスのやった一番恐ろしいことは、個々のパワハラが放置されているということよりも、パワハラそれ自体を統治の効率化のために組み込んでいることである。わざとサディストを配置した、その合理性が恐ろしいのである。
この本を読んで、私がつくづく恐ろしいと思うのは、ネットメディアのインフルエンサーが平気で、効率化を進めて生産性を高めようと主張していることだ。効率化を進めて生産性を高めれば、その果てには、強制収容所のようなものが出現するということに、彼らの想像は全く及ばない。合理性への過信は、人を合理的に殺す思想に至るのである。
日本の失われた30年の原因は、生産性が上がらないからだという言説がまかり通っている。では、生産性とは一体なんなのか? ある御用経済学者は、生産性とは、「アウトプット(産出)÷インプット(投入)」である、と明快に説明していた。しかし、近代の労働哲学を発展させたカール・マルクスは、生産性を「人間の繁殖力」とみていた、とハンナ・アーレントは『人間の条件 第3章 労働』で指摘している。
強制収容所というのは、囚人をただで働く「コストゼロ」の労働力としてインプットして、戦争経済を支える御用企業が、アウトプットを高めるという帝国主義的経済政策の産物なのである。ナチスの戦時統制経済は、国家規模で生産性を高める方法を考え出して、その結果、ユダヤ人の財産を奪い、彼らをただで調達できる労働力に変えたのだ。そうやって高めた生産性を第三帝国のアーリア民族を世界中で繁殖させるという帝国主義的優生思想の実現の基盤としたのである。
労働の生産性の向上が民族国家の繁栄の手段であるという思想は、結局、強制収容所のようなものを生み出すのである。「労働」「民族」が人間の共同で生きていく上で最も大切な概念だとされたのは、たかだか、ここ200年くらいの話なのに、たかだか概念でしかないものを、それが究極かつ至上の目的のように信じ込んでいること。そのことに批判意識が働かないのは、アウシュヴィッツのあと生きる我われにとっての宿痾である。アーレントは『人間の条件』のなかで労働中心の近代社会に鋭い批判を行っている。現代の政治問題はほとんどすべて労働問題なのである。このことを我々ももう一度考えて見る必要がある。労働と生産以外の概念が政治から蒸発している異常な事態を。
労働しなければ、人間が繁殖できないのは厳然たる事実であって、餌を取らなければ飢え死にするという動物と同じくする掟でもあり、人間が変えることのできない自然の法則であり、宿命でもある。しかし、人間の頭脳の長所である合理性だけが、かまどを作って人を焼くのである。動物は環境によっては共食いはするかもしれないが、かまどを作って仲間を合理的に焼いたりしない。人間を人間たらしめている合理性が、同じ人間を合理的に焼くという動物以下の行為をするというところに人間の業がある。
(おわり)
読書会の模様です。