ジャン・コクトー『恐るべき子供たち』読書会(2025.1.10)
2025.1.10に行ったジャン・コクトー『恐るべき子供たち』の読書会の模様です。
私も書きました。
神的暴力としてのダルジュロス
遊戯をする(jouer) 『子供たちが潜りこむ半意識の状態をそう呼んでいるのだった。遊戯のなかでは彼が主人になる。時間と空間を自由にあやつるのだ。夢想を紡ぎはじめ、それを現実と組みあわせ、光と闇のはざまを生き、授業の最中でもダルジュロスが自分を讃美し、自分の命令に従う世界を作り出すことができた。』(P.46)
出発する(parti) 『出発したというのは遊戯に入った状態のことを意味していた。』(P.59)
ベンヤミンは『暴力批判論』の中で、法・権利を基礎付け、またそれらを破壊をもする「神的暴力」と法・権利を維持するためだけの「神話的暴力」とを分けて、現代で言うところの神話的暴力=環境管理型権力に対する神的暴力の優位を語っている。
おさらいすれば、この作品のあらすじは、憧れの同級生ダルジュロスに雪玉をぶつけられ、胸を病んだポールが、不登校&引きこもりになった挙句、ダルジュロスから渡された毒薬で死ぬ、というストーリである。
ダルジュロスは、ポールに神的暴力を行使した。それが原因で天の岩戸に籠もったアマテラスのように、子供部屋に引きこもったポール。彼は、姉のエリザベスとともに、神話の世界を生きることになる。遊戯をするというのは自分たちを神々に見立てて神話を創作することである。この姉弟の喧嘩は、ギリシアの神々の喧嘩の模倣のように仰々しい。そして、ポールを愛する気の弱い友人のジェラールは姉弟が紡ぎ出す神話の語り手である。やがて神話には偽ダルジュロスとしてアガートまでが招聘される。
作品の最大のポイントはダルジュロスの最初の『神的暴力』、つまりは、彼に憧れるポールへの神がかった純粋な破壊の一撃にある。
姉弟が神話を創作するのは、言葉によって、自分たちの生命(ビオス)を物語るためである。いかなる共同体も、神話と宗教から文化的な営みを始める。神という絶対者に対峙して、人間の共同体は自分たちの生命(ビオス)に対応する、固有の文化的価値を生み出すのである。(カール・ケレーニイ 『神話と古代宗教』 ちくま学芸文庫 P.20-21 参照)
神話を創作する上で最も純粋な行為は「祝祭」である。遊戯をしながら想像の中で、現実を改変して、神話を紡ぎ出すのである。
例えば、日本のお祭りでは神が在(い)ますが如く神輿を担いで練り歩く。あるいは神に扮して神楽を舞う。遊戯と想像力によって神話は創作され、祝祭によって共同体に浸透していく。共同体というのは絶対者としての神に対峙して、それを内面化して、神話を創作し、祝祭の中で神の顕現を再現することで、固有の文化を形成し、秩序を作り上げ、集団として発展していく
そして共同体おける法・権利は神話の創作によって生まれた共同体固有の文化の維持のためにある。つまり、「神話的暴力」は秩序の維持のためにある。日本でいえば伊勢神宮や出雲大社を守るために肯定される治安維持のための暴力、あるいはそれらを警備するために環境管理型の権力(防犯カメラでの監視など)は「神話的暴力」なのである。
日本でなぜ政治が政(まつりごと)といわれるのか? それも「神話的暴力」に関わっている。
彼らの部屋で延々と繰り広げられるのは、文化的営みである。具体的には神を模倣した自分たちの神話の創作と、絶対者としてのダルジュロスを顕現を待ち望む祝祭である。子供部屋は「神話的暴力」で文化的秩序を形成していく場所である。アガートやジェラールは、「神話的暴力」の生贄である。
それに対して「神的暴力」というのは、全く気まぐれで、秩序さえ破壊する一撃である。神話そのものをも破壊する。
コクトーがなぜ、ダルジュロスを描いたのか?
『恐るべき子供たち』が書かれたのは第一次大戦と第二次大戦の戦間期である。ベンヤミンはナチスの擡頭を『神的暴力』として予言したということになるらしい。その『神的暴力』は、ベンヤミンと親しかった法学者カール・シュミットのいう例外状態における主権者の憲法を停止して下される緊急令に近い。独裁者による国家への神的な一撃である。
こう考えるに、ダルジュロスという存在は、民主政を延命する神話的暴力の機能不全と、その機能不全を打開するための神的暴力の肯定という時代精神を象徴しているのではなかろうか? 大げさか? 私がこの作品がすごいと思ったのは、「神的暴力」を描いているからである。子供向けの文学作品は数多くあり、読書会でも度々扱っているが、ここまで「神的暴力」の核心を描いているものはない。普通の子供向け作品にダルジュロスは出てこない。
説明が抽象的になったので最後に補助線として、当読書会でも課題図書として扱ったことのある朝井リョウの『桐島、部活やめるってよ』を『恐るべき子供たち』と比較されたい。桐島は、神的暴力をふるうわけではない。残された同級生たちは、神話を紡ぎ出すわけでもない。同級生のそれぞれが桐島の突然の不在から、桐島によって支えられていた自己のアイデンティティの脆弱さに気がつくという話である。あの作品とて、ハイティーンの繊細な心理が描かれてはいるが、コクトーの描いたものと比べれば、古典悲劇の様式を欠き、なんだか野暮ったいのである。つまり、遊戯も出発もなく、祝祭感に乏しい。ダルジュロスも居ない。桐島はダルジュロスではない。学校秩序の維持という神話的暴力、言い換えれば「車輪の下」を描いているに過ぎない。
(おわり)
読書会ものようです。
参考文献