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ゴリラが通り過ぎる
『錯覚の科学』という本を、少しだけ読んだ。
冒頭で、「いかに人はものを見ていないか」ということの実例として、ある認知実験を紹介していた。
その実験は、黒と白のTシャツを着た人が、バスケットボールをパスしているので、白のTシャツを着ている人のパスの数だけ、被験者に数えさせるというものである。
雑談でしゃべったら、知ってるというコメントがあったので有名な実験らしい。
YouTubeにその実験で使われた動画があった。
途中、30秒ほどのところに、ゴリラの着ぐるみが現れる。
パスを数えるのに集中していると、驚くべきことに、半数の人が、このゴリラを見落とすそうである。
半数である。多い。
この本、冒頭のこの話以外、そんなに面白くないので、オススメするわけではないが、人がいかに、ものを見ていないかということがよくわかった。
だいたいにおいて、人は、思い込みで、もの見ているのであって、客観的にものを見るというのは、ごく稀(まれ)であるということだ。
同様に、人間の考えることも、あらかじめ思い込みによってバイアスがかかっており、そのバイアスを指摘したところで、相手に無視されるか、怒らせるか、のどっちかであろう。
会話が成り立っているように見えても、お互いの頭の中では、全然噛み合ってないことが大半だと思う。
でも、わかりありあえていると信じて、すれ違っている部分は、あいまいにして、日常生活を送っているのだろう。
そう考えれば、人間は孤独な生き物である。
実に、孤独だ。
自分のこと理解していくれていると思った人が、まったくもって自分を誤解していたと知ったら、悲しいが、そのことにすら気づかず、一生終えるのかもしれない。
私は、最近小説を書いているのだが、どの部分を、人が面白いと感じ、あるいは、不愉快に感じるか、わからないので、実は、発表するのが、結構、怖いのである。
小説というのは、人の奥深い感情を、引き出すだけの形式がある。
雑談やコラムで、誤解を受けるのは、これは、そんなに怖くない。
誤解を受ける箇所は、わりあいと予測がつくからである。
しかし、物語の形式で、一定の効果を狙ったものが、どう受け取られ、どういう反応を引き出すか、というのは、著者には、予測がつかない。
その一定の効果が、ゴリラのように通り過ぎて、気づかれないままであるというのもありうるからだ。
雑談やコラムでは、ゴリラを出しようがない。
(著者本人も気づかないゴリラが通る可能性はあるが、読者も気づかないので、そのゴリラは、通り過ぎても、世界に存在しなかったことになるだろう)
以前もフィクションを書いたとき、思わぬ反応があり、それが、雑談やコラムとまったく違った性質のものなので、面白いと思ったのと同時に、好意的でない反応は、わざわざ、申告してこないであろうから、知る由もないので、そのことが、ちょっと不安になったのである。
小説を書くと思わぬ反応があるから面白いんですよね、という感じで、無邪気に喜んでいられない。
そこには、世界の裂け目のような、絶望の深淵が横たわっている。
逆に言えば、人の小説など読んで、ここまで平板なものを真剣に書いているとしたら、その平板さの絶望的なまでのとっかかりのなさも、気の毒を通り越して、著者本人の知らない孤独の地獄絵図を垣間見た気になるのだが、絶望的なとっかかりのなさにも、錯覚なのか、なぜか、知らんが、感動する人も現れるから、バランスがとれていて、要するに、余計なお世話である。
我ながら恐ろしいことを書いた。
自分の書いたフィクションは怖い。
(おわり)
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