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大江健三郎『ヒロシマ・ノート』読書会(2024.8.2)

2024.8.2に行った大江健三郎『ヒロシマ・ノート』読書会のもようです。

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私も書きました。


人類の精神的荒廃


毎年、8月の読書会の課題図書には、戦争や原爆投下に関する作品を選んでいるので、ここ数年、戦争の記憶というものに関してメディアがどう扱っているか定点観測している。

NHKBSでは一年中、それなりの数の戦争に関する特番やドキュメンタリーが放送されていて、できるだけ録画して視聴するようにしている。

原爆の悲惨について私が小学生だったころ、散々平和教育を受けてきたので、頭に残っている。まだ戦争体験者の戦中派が生きていた昭和の時代は、今と比較にならないほど平和教育が盛んだった。あれから30年以上の年月を経て、戦争体験者がどんどん物故して、悲惨な戦争体験を、当事者が語り継ぐことなくなってきた。それにつれて、若い世代の視聴者に戦争の記憶の継承が難しくなっているのを、感じざるを得ない。同時に、戦争関連の番組を作っているディレクターやスタッフたちも、戦争の記憶を継承しきれていないのではないかと思うことがあり、記憶の継承の困難を感じる。

人間の悲惨を記憶にとどめ続けるというのは至難の業である。『ヒロシマ・ノート』を読んで、1954年の第五福竜丸事件をきっかけに、日本の原水爆禁止運動が始まったことを知った。その運動が、冷戦体制の煽りを受けて分裂し、今日に至っていることも本書で読んで初めて知った。調べてみれば、原水協主催の平和行進は、現在も行われている。

平和運動が国民運動として継続しているかというと、そうであるとは言い難いものがある。戦禍の記憶の継承すらままならない現状がある。

多くの被爆者が、戦争を継続して原爆投下の事態を招いた日本政府、原爆を落としたアメリカ、それらの権力に怒りを抱きながらも、沈黙を強いられながらこの世から退場していった。彼らの中には、原爆病院の玄関で挨拶をした宮本氏や割腹自殺を図った死にきれなかった老人など、声をあげて亡くなっていった方々もいる。

自分が死を待つ被爆者の立場だったら、自分の生命の無意味をどう耐えるのだろうか? 何を頼りに絶望の中、最後まで命をまっとうしようとするのだろうか? 

この問いを、自分自身に向けたときに、勇気を持って人前に出て、声を上げなければ、この世に存在した証も残せず歴史の水底に消えていく他ないという事実に突き当たった。

私もいずれ、広島に行ってみなくてはいけないと思った。唯一の被爆国としての記憶の継承に参加しなければ、亡くなった方たちも浮かばれない。また、核兵器の威力の裏側にある人間の悲惨と、被爆者の恐るべき忍耐に鈍感・無関心を決め込む、「人類の精神的荒廃」を食い止めることもできないだろう。


(おわり)

読書会の模様です。



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信州読書会 宮澤
お志有難うございます。