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メルヴィル『書記バートルビー』読書会(2024.9.6)

2024.9.6に行ったメルヴィル『書記バートルビー』読書会のもようです。

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柳家小三治 駐車場物語

バートルビーの映像化

私も書きました。


バートルビー 現代の悪の前兆としての人間の生


バートルビーがいたのは、仕切りの中であった。目の前にある窓からは、隣のビルの壁しか見えない。この閉塞状況の中にしか彼という人間の居場所はなかった。


彼の勤務する法律事務所が「労働の場」という意味での「社会的領域」であるならば、バートルビーのいる仕切りの中は、その社会的領域の中に許されたささやかな「私的領域=パーソナルスペース」であった。


しかし、バートルビーの人生の過程において、与えられた暫定的な「私的領域=仕切りの中」という居場所は、やがて、彼に不法占拠されたスペースとして扱われる。


彼は、ある日から「しないほうがいいのですが」とう決め台詞で、雇い主の業務上の命令を拒否して、自分の居場所である仕切りの中に立てこもり、社会的領域における労働の義務を果たさず、さりとて家にも帰らず、休日もパーソナルスペースである仕切りの中を占拠するのである。


バートルビーは雇用契約を取り交わしている雇い主の命令通りに労働している限りにおいて、彼の仕切り板の中に、世界の中での自分の居場所を確保していた。その労働は、他人の書いた法律文書の筆耕であり、彼は、自分の言葉を持たない非人間的な人間コピー機である。


彼が、ジンジャーナッツを主食として、この世界のささやかな居場所を不法占拠して生きていかなければならないということは、彼が業務を拒否するまで誰も気が付かなかった。


雇い主は、孤独な人間であるバートルビーにキリスト教的隣人愛から、温情をかけていたが、顧客たちのクレームや世間体から、彼を見捨てて、事務所ごと引っ越しせざるを得なくなった。要するに、社会的領域は、商取引を円滑に進めるための法体系でがんじがらめになっており、彼の不法占拠も彼への温情も許さない。


法体系によって正当化された社会的領域の中の公権力は、ついには、強制執行という形で彼を排除して刑務所に送る。


ユダヤ人絶滅収容所での生活を描いた『これが人間か』において、プリーモ・レーヴィが、絶滅収容所で全てを奪われ、気力を失って死を待つ人々が「回教徒=ムーゼルマン」と名付けられたことを指摘している(P.111) そして、『バートルビー 偶然性について』を書いた哲学者アガンベンは、バートルビーをムーゼルマンに準えている(P.25)


(引用はじめ)


『彼らこそが溺れるもの、回教徒(ムーゼルマン)であり、収容所の中核だ。名もない、非人間のかたまりで、次々に更新されるが、中身はいつも同じで、ただ黙々と行進し、働く。心の中の聖なる閃きはもう消えていて、本当に苦しむには心がからっぽすぎる。彼らを生者と呼ぶのはためらわれる。彼らの死を死と呼ぶのもためらわれる。死を理解するにはあまりにも疲れきっていて、死を目の前にしても恐れることがないだろう。


顔のない彼らが私の記憶に満ちあふれている。もし現代の悪を全て一つのイメージに押しこめるとしたら、私はなじみ深いこの姿を選ぶだろう。頭を垂れ、肩をすぼめ、顔にも目にも思考の影さえ読み取れない、痩せこけた男。』


(『これが人間か』 プリーモ・レーヴィ P.113 竹山博英訳)


(引用おわり)


メルヴィルは、金融資本の集積地として勃興しつつあったウォール街における、一人のムーゼルマンの出現を描いた。


資本が蓄積して、富が爆発的に増加して、社会的領域に全ての私的領域が侵されていく一方で、その反作用として、私的領域を持つこともできず、義務を果たさないことで社会的領域からも排除されたムーゼルマンことバートルビーは、絶滅収容所の中庭のような場所に追い立てられ、孤独に死んでいく。


バートルビーは、現代の悪の一つのイメージとしてのムーゼルマンのプロトタイプである。


1853年にメルヴィルが発表したのバートルビーという人間像は、やがて絶滅収容所によってもたらされる、何もかも奪い尽くされ、死んでいく痩せこけた男という、現代の悪のイメージの前兆だったのではないか。


唯一の違いは「しないほうがいいと思います」という受動的な抵抗によってバートルビーが、ムーゼルマンになったことである。多くのユダヤ人がナチスドイツの公権力による暴力によって選別され排除され、ムーゼルマンにまで落とされたが、自由な社会の中でバートルビーは自発的な選択によってムーゼルマンになることを選んだということである。


しかし、ムーゼルマンになることを、社会から強いられたか、自分で選んだかは問題ではない。すべてが社会的領域に侵食される現代のエアポケットに、死へと急ぐデッドレターのような人間の生がありうるということである。


そののち、ユダヤ人という民族はデッドレターのように絶滅収容所に送られ、焼かれたのである。


本作品はそういう人間の生に初めてスポットライトを当てたのである。


そしてバートルビーのような人間の生は現代の悪の前兆なのである。


『ああ、バートルビー! ああ、人間の生よ!」(P.101)


(おわり)

読書会の模様です。




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信州読書会 宮澤
お志有難うございます。